人類がねずみを管理するなど

木島別弥(旧:へげぞぞ)

第1話

 研究所にやってきて、いつも通りの作業にかかる。東から射しかかる陽光が眩しい。今日も陰鬱で凄惨な研究者の日常というものが始まる。毎日、家に帰るとやけ酒をくらっている。飲まなければやっていられない。酒というものが、研究者の脳細胞に有効な働きをするのかは疑問だが、昨日も鈍酔してしまった。朝の通勤電車の中で、二日酔いを我慢している。車通勤だったら、危なくて飲んでいられないところだが、電車通勤なので大丈夫だ。今日も、いつもの作業が始まる。

 ぼくの仕事は、試験用の薬物の効果を動物による臨床実験で確認することだ。だから、毎日、大量のねずみに薬物を投与し、臨床効果を確かめている。と、それは、頭の良い優秀な同僚の仕事で、ぼくがしているのはその雑用である。簡単にいうと、臨床実験に使ったねずみの処理をしている。早い話が、ねずみを毎日、大量に何百匹も殺していくのがぼくの仕事だ。

 ねずみに腸内注射をして、致死量の麻酔を打ち、脊椎を折ってとどめを刺したのち、シュレッダーで切り刻み、そのまま、焼却炉で燃やす。その作業はほとんど自動化されているが、その作業の担当者がぼくだ。

 薬というものは、スパコンでものすごいたくさんの形式から効果の適した製法を選ぶので、試験用に臨床実験するねずみもその分、大量にいることになる。どのくらいの形式から製法を選択するかというと、一秒で一京回計算できるスパコン「京」を二日間動かしても足りないくらいの量を計算して、選んでいる。製薬というものは、それくらいめったに自然状態では発生しえない化合物をつくることである。

 ぼくの仕事は、その作業で必要なねずみを大量に殺すことである。ねずみの飼育は、飼育員という係の人たちが行う。ぼくは化学の研究者なのだが、ねずみを殺す作業の担当にされている。これは、暗黙の内に研究作業からぼくを外すように配置したとも考えられなくはなく、ぼくは職場内左遷をされているのかもしれない。怖いので、上司に聞いて確かめたことはない。そんなわけで、ぼくは、優秀なぼくの同僚が考え出した新しい薬の動物臨床実験のねずみを毎日、殺しているのである。その作業は、ほとんど単純作業のようになり、ただひたすら、ねずみに致死量の麻酔を腸内注射して、頸椎を折り、シュレッダーにかけて切り刻み、焼却炉へ送る。それは、ものすごい数の命を奪っていることになるのだ。ねずみを殺すことがぼくの仕事であり、ぼくの社会貢献である。ねずみを殺すこと以外にぼくに生きる価値はない。ぼくはねずみを殺すために生きているのだ。この仕事に配属されて、もう三年以上がたつので、ぼくはいっぱしのねずみ殺しの専門家といえるくらいなのだ。

 作業の効率化を図るため、ねずみを殺すのに最も費用対効果の高い麻酔量を決め、麻酔量の大量購入大量使用を実現し、ねずみを殺す費用をこの三年間でわずかながら減少させることに成功した。ぼくは、できる男なのだ。ちゃんと仕事しているのである。いかに効率よくねずみを殺すかを毎日考えているのだ。ねずみを毎日、何百匹と殺しているのだから、そろそろ、ぼくの担当になってから死んだねずみの数は十万匹を超えるだろう。それくらいにぼくはよく働き、よく勤労に励んでいるのである。ぼくは仕事が命なのだ。ぼくは仕事を他の何よりも愛しており、他に特に趣味はなく、この仕事に一命を捧げる所存である。このまま、職場で閑職に追いやられつづけたら、ぼくはこの先の一生をねずみを殺すためだけに生きても悔いはないと、そう覚悟しているのである。

 ぼくはただのねずみ殺しではない。ねずみ殺しの専門家なのだ。

 ぼくの殺したねずみが何のために死んでいるのかというと、薬物実験の臨床試験のためとしか知らないのだが、ぼくの殺したねずみが何の役に立ったのかは、ぼくには報告されない。ぼくが殺しているねずみの臨床実験で、どのような新薬が開発されたのかをぼくは知らされない。

 だから、ひょっとしたら、新薬なんて、一個も完成してないのかもしれない。そこは、製薬における経営の投資とその成果の話であり、これは会社経営しているどっかの誰かが金額の数字だけをにらんで、いかに効率よく会社が儲かるかを計算しているはずであり、そこはぼくのあまり詳しくは知らない世界だ。そういう役割の人がいて、そういう仕事をしているのは知っている。経営というものだ。これは無慈悲な資本主義産業構造であり、例え、ひとつの新薬すら完成しなくても、投資はされるのであり、実験はされるのであり、ねずみは死ぬのである。

 ねずみは死を逃れられない。

 そもそも、生まれてくる時から、臨床実験に使われるために繁殖させられ生まれてきたねずみなのだから、そのねずみたちが死から逃れられないのは、しかたない。実験が中止されれば、このねずみたちは殺されるのだ。実験が続いた方がねずみたちは長生きできる。動物臨床実験が中止になったからといって、ねずみを森に帰すような面倒くさく社会迷惑で、生態系を壊すようなことは、決して行われないのである。ねずみは死ぬのだ。これは逃れられない運命なのである。

 ねずみを殺すことを可哀相だという人たちがいる。ぼくたちの気持ちを理解しない動物愛護団体の放ってくる刺客や、善良な市民に紛れ込んだ工作員たちである。保育園児、幼稚園児といっても油断してはならない。彼らは容赦なく、ねずみを殺すことの残酷さを訴えてくる。

「ねずみが人間のために死ぬことをどう思いますか?」

 そう聞いてくるのだ。

 知るか。勝手にしやがれ。

 ぼくの会社のお偉いさんは、そんなことは百も承知で、当たり前のように、実験で死ぬ動物たちのための慰霊碑というものを立てており、見学に来た小学生に、実験が病に侵された可哀相な人たちを救うために行われていること、これが社会に役にたつこと、我が社は社員全員で慰霊碑に黙祷していることなどを語る。例え、一個の新薬も完成しなくてもだ。ねずみを殺すことは正義なのだ。小学生たちは、まんまと騙され、慰霊碑にお祈りをして帰っていく。

 学校の先生が、慰霊碑に見学に来た児童や生徒の感想文というものを送ってくることもあるらしいが、ぼくは読んだことがない。なんか、かったるくて。申し訳ない。いたいけな子供たちのことばを無視しているわけではないのだが、その感想文というものを閲覧できる媒体を探し出す能力がぼくには欠けているのだ。だから、子供たちがどんな真摯な意見をくれたとしても、ぼくの心に届くことはない。悪いのは、職場内の書類の整理整頓が不整備であるということで、これは、お偉いさんたちがいろいろ考えて、事故のないように書類を整理しているのだが、残念なことに、それは不十分で、見学に来た子供たちの感想文をぼくは読んだことがない。

 たぶん、どうせ、くだらないことが書いてあるのだ。がんばって薬を作ってくださいとか、ねずみによろしくとか、そんなことが書いてあるのだ。せいぜい、

「人類が命を管理するなど、おこがましいとは思わないのかね」

 くらいのことしか書いてないのだ。その程度の感想で、資本主義的産業構造を打破するのは無理だ。

 もし、本当にねずみが可哀相で、ねずみを殺すのをやめさせたいのなら、製薬会社の売上高と利用者総数を調べ、製薬の需要と効用を調べ、製薬なんかしない方が社会的に利益が高いという経済的計算の解を探し出して、会社のお偉いさんに見せつけるくらい有能な小学生でなければならない。それくらいでなければ、ぼくらがねずみを殺すのを止めることはできない。

 ねずみを殺すのがぼくの仕事なのだ。

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