第36話 快勝/大勝/鎌倉合戦
「――
声が響く。
その光景を、直に見た者は、呆然自失。
声のみを聞いた者は、立ち尽くし、己が耳を疑い。
そして声の届かなかった前線の伊勢兵たちも、後方の異変に足を止めた。
時が凍てつく。
それを再び動かしたのは、同様に荒次郎の声。
「この戦、我らの勝利だ!
三浦衆の生き残りが、すかさず声をあげた。
その声に、押されるように。伊勢方が逃げ始める。
最初は、夢の中にあるようにゆっくりと。それが、しだいに悲鳴を伴う大潰走へと転じていった。
奇妙な光景だった。
五千近い大軍が、数百ほどの少勢を避けるようにして、我先に逃げていく。
あれほど精妙な動きを見せた伊勢兵たちは、伊勢宗瑞という礎を失い、烏合の衆と化した。
これを見て、荒次郎は即座に三浦衆を集合させた。
化粧坂の戦いに参加した三浦衆九百のうち、三割ほどが重傷、ないし戦死し、脱落している。突撃部隊など、部隊の体を為していること自体、奇跡に等しい。
荒次郎自身は無傷だ。
だが、
単純に兵力の損耗だけではない。一族の家長格で不帰の人となった者も多いのだ。
急速な世代交代は、三浦家の経営に非常な支障をきたすことだろう。重臣たちの真っ青になった顔が、今から目に浮かぶ。
疲労も濃い。
八十五人力という怪力。休みを挟みながらとはいえ、何時間も戦闘をつづけているのだ。
しかも、各方面の戦況を受け取り、脳内で戦図を展開させながら。疲れるのも当然と言えた。
しかし、戦はまだ終わっていない。
伊勢宗瑞討ち取り。この事実を戦果として最大限に利用するためには、追撃は必須だ。
むざむざと兵を逃がせば、戦力はそのまま伊勢家の次代に温存される。
そうなれば、相模西部における伊勢家の影響力を削ることは難しくなる。
むろん、調略を行って政治的に敵勢力を削ることは可能だが、これほど大規模な軍を動員した以上、戦果の最大化はほとんど義務のようなものだ。
それに、北相模、
津久井城に支障なく援軍を送るためにも、相模川以東は抑えておきたい。
加えて、
――そのためには。
荒次郎は即断し、満身創痍の三浦衆に向け、声を張り上げた。
「全軍前進!
◆
一方、大船方面。
今川家当主、
――御味方潰走。与力の今川諸将も、これに引きずられて東海道を潰走中。
それを聞いた氏親はしばし、呼吸を止め、それから、かろうじて絞り出すように言った。
「……うそだろ?」
鎌倉勢との戦いは、優勢だった。
数に劣るにも関わらず、今川軍は氏親指揮の下、ひたすら押して来る鎌倉軍を巧妙に受け流し、敵の背を
手を伸ばせば、勝利は見えていた。
いや、いまでも勝利は、今川氏親の目にしっかりと見えている。
だが、輝かしいものに思えていた勝利が、伊勢宗瑞の死を知ってしまった彼には、灰色に見える。
「いかがいたしましょう」
重臣の蒼い顔を見て、氏親は自分が今どんな顔をしているのかを知った。
――叔父御。逝っちまったかよ。
氏親は天を仰いだ。
伊勢宗瑞とともに君臨するはずだった関東の空は、哀しいほどに色を失ってしまっている。
今川氏親はなお、その場で佇んだまま、灰色の天を仰ぎ続け――ふいに、かっと目を見開いた。
「そうか。そうかよ。ここは……関東は、俺様の天じゃねえってことか」
今川氏親は伊勢宗瑞の甥であり、弟子であり、かの奸雄が手ずから理想の君主として育て上げた存在だ。
だから、伊勢宗瑞の望むままに、関東の王に収まるのが当然だと思っていた。
だが、伊勢宗瑞が居なくなった今となっては、それは違うとわかる。
関東の王から、いずれ天下の将軍に。そのような堅実さなど、今川氏親は望んではいない。
「この俺様に相応しいのは、俺様自身の
氏親は手を天に伸ばし、引き寄せて掴んだ。
瞳には生気がよみがえり、声の端から覇気がこぼれている。
逆境にあって、この英傑は、器量において伊勢宗瑞を――越えた。
「だがよ。この関東で何も奪わずに逃げ帰るわけにはいかねえ……
言うや、今川氏親は馬を走らせ、前線でなお指揮を続ける鎌倉公方に向けて弓を引き絞り――射た。
風を切り飛ぶ矢は逸れず、曲がらず、まっすぐに鎌倉公方に吸い込まれた。
鎌倉公方の巨体が、馬上から落ちた。
「ちっ、肩かよ。命には届かねえ、か」
氏親は舌打ちした。
彼の眼は、矢が鎌倉公方の肩に命中した瞬間をとらえている。
「――だが、これでわかったぜ。
言い捨てて、今川氏親は撤退を命じた。
劣勢と総大将昏倒による混乱で、鎌倉方は追撃を決断できない。
だが、追手は他にいた。三浦荒次郎率いる三浦衆が、深沢を越える今川軍を待ちかねたように、後方から噛みついてきたのだ。
三浦軍に厳しく迫られ、一時はあわや、という場面があったものの、結局今川軍は逃げ切った。
鎌倉公方負傷の混乱ため、三浦荒次郎は鎌倉軍本隊の支援を受けられず、そのため境川を越えられなかったのだ。
この翌日、鎌倉勢は境川を渡る。
鎌倉公方討伐軍に加わっていた相模中部の領主たちは、我先に荒次郎のもとへと駆けつけた。
◆
江の島道でも、戦況が変わった。
伊勢軍分隊二千を率いる
伊勢宗瑞にきわめて近い御由緒家当主であるふたりにとって、主君の死と、それが引き起こすであろう混乱は、恐怖に値した。
なによりも、今、どうすべきか。
将の混乱は、ゆっくりと、静かに、軍全体に広がっていく。
三浦水軍一千を指揮するエルフの少女、
「うー。おかしいな。船の件では冷静に兵を静めてた敵将が、あわててる」
「よく見えるものですな」
水軍を率いる
「前とは違う。指揮官まで混乱してる。敵側に、よっぽど深刻なことが起こってる……たぶん、勝ったんだ。主さまたちが!」
目を輝かせながら、エルフの少女は断言する。
それから、ほどなくして撤退を始めた伊勢軍に対し、即座に追撃を命じた。
「みんな! 追って追って追いまくれ! 主さまのために、敵を全員境川に叩き込んでやれっ!」
このときの、真里谷初音の追撃は凄まじく、
さらに、境川渡河を終えた敵軍に対して、初音は渡河突撃を敢行。
そのまま敵を追って追って追いまくり、相模のほぼ中央を流れる
締まらないのは猪牙ノ助である。
死を覚悟して出たはいいが、わずか数日で伊勢、鎌倉の、南関東の覇権争いに決着がついてしまったのだ。
小手調べとばかり送ってきた甲斐国守護、
伊勢宗瑞討死の報に接して、あわてて帰国していく武田軍を見て、情けない顔になった猪牙ノ助に対し、丸太衆の若者が「ほら、言ったとおりでしょう?」とばかり笑顔を見せた。
◆
逃げた伊勢軍のうち、今川軍を中核とした四千ほどが大庭城に留まり、城を守る構えを見せたため、それ以上攻めきれなかったのだ。
とはいえ、在地領主の支持を失った以上、大庭城は孤城に等しい。なにより、篭もっている今川軍とて、いつまでも相模に留まるわけにはいかない。
――大庭城は放棄される。でなくば、早晩落ちる。
荒次郎はそう見ている。
荒次郎と猪牙ノ助、初音の三人は、三月十五日昼、戦勝に沸く鎌倉の街で合流した。
今回の戦で、荒次郎と初音の武功は比類ない。鎌倉公方、足利義明始め、会う人すべてから手放しの賞賛を浴びて、初音はすっかり調子に乗ってしまった。
「見たか聞いたか大軍師初音さんの活躍! あっれー猪牙ノ助おじいちゃん? 人を
上機嫌に耳を上下させるエルフの少女を華麗に無視して、猪牙ノ助は荒次郎と向きあい、禿頭をつるりと撫でた。
「いやはや。大言を吐いておいて面目ない」
「いや。猪牙ノ助さんは北相模を押さえてくれた。それで十分以上、役目を果たしてくれている。それに、調略に外交。猪牙ノ助さんが働いてもらうのは、これからだ」
「あれ? 私無視されてる? おーい、おーい。私も居るよ-。大軍師さんだよー」
荒次郎の言葉はもっともだ。
戦はひとまず終わった。今度はその成果を外交に活かす番だ。そうなれば、猪牙ノ助の出番である。
「それは、その通りであるか……しかし、荒次郎くん。ついに勝ったな」
「ああ。勝った。賭けに、と言っていい。きわどい戦いだった。戦略では完全に負けていた。だが、勝った」
この戦いと、それに続く相模中部の領主たちの相次ぐ離反により、伊勢方は戦線を相模川まで退げざるをえない。
だが現状、伊勢家は。伊勢家を継いだであろう
エルフの少女も沈黙して地面に“の”の字を書きはじめた。
「あとは、そう。北の情勢次第であるな」
猪牙ノ助の言葉に、荒次郎たちは北の空を見た。
関東大戦にて、鎌倉合戦と並び称されるもうひとつの大戦。川越合戦は、すでに始まっている。
◆用語説明
武田信虎……台詞なし。あれ?
あれ? 私無視されてる?……地の文すらこれを華麗にスルー。
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