第9話 戦略/策略/反撃開始
三方を海に囲まれた堅城は、日の出とともに、日常の営みを再開する。
そんな人の流れにポッカリと空白地帯を作って、荒次郎は城の中をうろついていた。
行きかう人があわてて平伏するのを、「気にせず仕事を続けてくれ」と声をかけながら、荒次郎は歩く。
手には丸太を持っており、重量百キロは軽く越えるであろうそれを、軽々と取り回す荒次郎の姿は、籠城中の人々に、「このお方がいれば」という信頼感を与えている。
「ふむ」
足の向くまま、軽く巡って、荒次郎は足を止めた。
「そろそろ
つぶやくと、荒次郎は踵を返し、御殿に向かった。
戻りながら、考える。思ったより動揺は早く収まったな、と。
籠城中の城に侵入され、しかも兵糧を焼かれたのだ。本来もっと動揺があっていいはずだ。
すべては荒次郎の制御下で、損耗も計算のうちに操作されたものだ、という事実は、まだ重臣格の人間しか知らない。
それでも荒次郎や重臣たちの様子を見て、感じるものがあるのだろう。城中の混乱は、速やかに収まった。いまでは、その形跡すらない。
いや、厳重になった警戒と、警備の者の血走った目だけが、その痕跡といえば痕跡か。鎌倉時代より続く、数百年に渡る信頼関係の強みと言っていい。
部屋に戻ると、朝食の準備がされていた。
漆塗りの膳台に、これも漆塗りの碗や鉢。中に入っているものは、現代人にとって質素ともいえるものだが、それでも上の部類だ。
席につき、荒次郎が手を合わせたところで。
「できたぞーっ!」
そんなことを言いながら、エルフの少女が部屋に駆けこんできた。
目元には、眠っていなかったのだろう。大きなクマがあり、腰には必死に制止する幼い侍女をとりつかせている。
給仕の者が目を白黒させているのにもかまわず、和服エルフの少女は、「できた、できた」と騒ぐ。
何ができたか言っていないせいで、後日彼女はおめでたを祝われることになるのだが、とりあえず少女は幸せそうだ。
◆
ともあれ。
給仕の者とともに、侍女のまつまで追い出して、
荒次郎の目に入ったのは詳細な地図だ。形から見て、三浦半島を中心にしたものに違いない。
「よく書けているな」
「未来のものだから、この時代とは、すこし地形が違うけどね」
眠たげな眼で、エルフの少女は口の端を釣り上げる。
「
うふふふふ、と不気味に笑うエルフを横目に、荒次郎は「ふむ」とうなずく。
「ここは、三浦半島だな。凸マークは、俺たちの居る新井城か」
「そそ、で、両岸がすぼまってるところが“外の引橋”。その北東にある凸マークが、伊勢宗瑞が陣を張ってる場所」
エルフの少女は、ほっそりとした白い指先を、すっ、すっと動かし、指差していく。
「三浦半島の付け根にある凸が、
「……ふむ」
「それをふまえて、策を話すから」
言って、エルフの少女は指を立てる。
「伊勢宗瑞は、こちらの糧秣が焼かれたと思っている。なら、荒次郎。宗瑞が次にやってくることは、なんだと思う?」
エルフの少女の言葉に、荒次郎は考える。
相手の本命は、こちらを助けに来た扇谷上杉軍との後詰決戦。
その上で。こちらに悲鳴をあげさせる目的で、攻めるとすれば。
「兵糧だな。兵糧不足を攻める」
「ご名答」
初音は瞳を細め、にやりと笑った。
「こちらは兵糧が足りない。足りないなら、当然調達する。陸路は封鎖されているから、当然海路だ」
言いながら、エルフの少女は指先を新井城から江戸湾へすっと動かす。
「使うのは、品川商人か、あるいは真里谷に兵糧支援を頼むか。里見家は、たしか今ゴタゴタ中のはずだから、選択肢はそんなもんなんだけど、いずれにせよ、裏切りかました横須賀が邪魔だ」
言って、少女は三浦半島東岸中部を指差す。
「ふむ。では、こちらはどうする?」
「三浦水軍を動かす」
「三浦水軍?」
「三浦の抱える水軍だ。新井城の南に
荒次郎は、ふむ、とうなずいて、言う。
「それを、動かすか」
「ああ。水軍を割いて、買い付けた兵糧の護送に回す――当然、水際の防衛に穴があく。私が宗瑞なら、ここで伊豆水軍を動かす。水軍拠点の城ヶ島を攻めて三浦水軍に打撃を与え、江戸湾に置けるこちらの行動の自由を縛りにかかる」
「……そうして、最終的にはただ扇谷上杉に援軍を乞うしかなくなるまでに、追い詰める、か」
「当たりだ」
徹夜明けのテンションなのか、エルフの少女は微笑みながら、ぽすぽすと荒次郎の胸を殴りつけてくる。
鋼のような胸板に跳ね返され、すぐに痛そうに手の甲をさすりだしたが。
「なら、こちらはどうすべきか」
「まずは、待つ。本来ならこちらに兵糧不足の恐怖が回るであろう頃合いを」
荒次郎の問いに、少女は答える。
「――そして、やむを得ずという風に、調達に出る。そして玉縄に詰めている伊豆水軍が城ヶ島を攻める頃合いを見計らって反転し、伊豆水軍を破る。そうすれば相模湾の制海権は完全にこちらのものだ。玉縄城でもなんでも狙い放題だ」
どうだ、と胸を張る自称軍師に、荒次郎は言った。
「却下だ。このままでは使えない」
胸を張った少女は、そのままの体勢で、どさっと仰向きに倒れた。
「――っ、なんでだよっ!」
即座に起き上がった少女は、長い耳を真っ赤にしながら、荒次郎に詰めよる。
「こちらに都合よく考えすぎだ。敵も、そして味方も、エルフさんの思うようには、うまく動かない。その些細な
「エルフ言うなっ! じゃあ、お前ならどうするっていうの!?」
「敵に、もっと美味い餌を与える。深く噛みつかせて、逃げられないようにしてから、潰す――つまり」
荒次郎は太い指先を地図の上に落として、告げる。
「――ここを捨てる」
しばらくして、荒次郎の意図に気づいた初音の驚きの声が、御殿中に響いた。
◆
「――というわけだ。みな、異論は」
軍議の冒頭、荒次郎は説明を終えた。
あたりは水を打ったように静まりかえっている。
重臣列席の会議だ。荒次郎の父、道寸とともに戦場を往来した猛者が居並ぶ中、荒次郎は一切気後れしていない。
お飾りとして上座に座らされている道寸の影武者、猪牙ノ助が、
重臣たちは、当然彼が影武者だと知っているが、それを知らない者たちの手前、軍議に出ている必要があるのだ。
お飾りの気楽さゆえか、猪牙ノ助には重臣たちの心の動きが、手に取るように見えている。
最初は、ただの驚き。つぎに呆れ。そして、恐怖。
「若殿は正気かっ!?」
重臣の一人が立ち上がり、怯えの混じった眼で荒次郎を非難した。
「正気だ」
荒次郎が平然と返す。
「馬鹿なっ! よりにもよって、こんな……命を捨てるようなものではないかっ!」
「ふむ」
荒次郎が首を傾けた。
「命が惜しいのか?」
「愚弄されるかっ! 命の捨て所があると申しておるのだっ!!」
「不満か」
静かに、7尺5寸の巨漢が言葉を押しこむ。
重臣は気圧されたように言葉に詰まった。
「若殿の御心をお聞かせ願いたい。今の説明のみでは、我らにも不満が残ります」
すっ、と、脇から言葉を滑り込ませたのは、
荒次郎が「胃の腑が痛いですの人」と認識している重臣だ。
「ふむ」
荒次郎はうなずいてから、説明を始めた。
「まず、作戦を急ぐには理由がある。時間が経てば経つほど、こちらが不利になっていくからだ」
「……なぜか、理由を聞かせていただけますかな?」
「うむ。こちらは外への連絡が限られている。その上、相手に内容を知られる危険を負っている。逆に相手には、なんの制限もない。時間が経てば経つほど、こちらが不利でいる時間が長いほど、相手の外交は成果を上げ、こちらは孤立していく。今が一番有利な状況なのだ」
脂汗を流す重臣たちに、荒次郎は言葉をねじ込んでいく。
「我が軍は劣勢だ。ならば、勝つにはどこかで賭けに出ることになる。賭けのしどころは、今、ここだ」
荒次郎は叫ばない。
しかし、腹の据え方は尋常ではない。
みな、この軍議の中で最も若い荒次郎の言葉に、呑まれた。
「みなの命、預けてくれ」
「……応」
佐保田河内守が、一番に声をあげた。
それをきっかけに、応、応と、つぎつぎに声が上がる。
その様を眺めながら。
――やるなあ、荒次郎。
猪牙ノ助が、にやりと笑う。
笑いながら、考える。
――これは、こちらも負けてられまいて。きちんと、あちらの尻を叩いてやらねばのう。
すでに前夜の三人会議で、猪牙ノ助は作戦の全容を把握している。
各方面に送る書状も、すでに下書きを終えている。それに、ひそかにつけ加える文面を考えながら、猪牙ノ助は上座で荒次郎の独演を観賞する。
「決行はまだ先だ。当分は籠城戦が続くだろう。しかし、今からが――反撃開始と知れっ!!」
荒次郎が宣言する。
その声に、割れんばかりの「応」の声が返された。
◆用語説明
厨――調理場のこと。
膳台――お膳をのせる台。
できたぞーっ!――主語は大切である。
軍議――軍事に関する評議。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます