夜の歌

@hitsuji

第1話

芸術について僕が思うことは、それはあくまで一瞬の出来事であり、継続的に続くものではないという事だ。それは音楽を聴きながら街を歩いていて、不意に景色と音楽がシンクロした時のような、はたまた居酒屋のカウンターで飲んでいてふと盗み見た恋人の横顔をどうしようもなく愛しく感じた時のような、そんな瞬間と同じだと思う。明日の朝になったらそれは夜が見せる高揚感のように、裏口からすっと消えてしまう。そしてそんな一瞬はなかなか言葉にはできない。誰かに伝えようとしても大抵の場合それはオチの無いくだらない話になってしまう。そこにあるのはもう脱け殻の言葉だけなのだ。今まで何度も何度も味わった感覚である。捕まえた蛍を誰かに見せようと掌を開くが、もうそこには何も居らず、仄暗い闇だけが存在しているような、そんな挫折感に似ている。

そしてだからこそ僕は書くのだと思う。言葉では伝えられないそのような一瞬をできる限り文章にしようとしているのだ。それは完璧な闇に一筋の光を投げ入れるような、そんな救いようのない作業にも思える。でも僕には辿り着きたい場所があり、ぼんやりだがその場所の風景はもうフレームに入っている。僕はずっと信じている。僕は文章を信じている。だからくだらないニートの冒険記や推理小説なんて絶対に書かない。先が気になる話は確かに面白い。はらはらドキドキ、非常に結構である。しかしそれらの文章が果たして人の心に火を灯せるのだろうか?僕のやろうとしている事は伝わらない人には全く伝わらないだろう。だけどそれでいいのだと思う。万人の心を照らせる灯なんてそんなのきっと嘘っぱちだ。優しくも何ともない。


音楽でも同じ事ができるのかもしれないが、生憎僕はギターが弾けない。


僕は居酒屋の洗い場で皿を洗っていた。洗っていると言っても1枚1枚ごしごし洗っているわけではなく、目に付く汚れだけを簡単に落として後は洗浄機の中に並べているだけなのだ。だから皿を並べている言った方が正しいのかもしれない。僕はもう21歳だ。大学の3回生だが、大学にはほとんど行っていない。僕は元々小説家になりたかった。15歳くらいから書き始め幾つかの小さな賞ももらったこともあるのだが、もう1年以上何も書いていない。僕はもう自分の才能の限界を感じていた。小説で食べていく程の才能は自分には無かった。その様な挫折からかここ半年は毎日遊び歩き、遊び歩くためだけに働くというどこにも辿り着かない生活を送っていた。

この居酒屋で働き出したのは2年前だった。始めは同僚のほとんどが年上であったが、今では年下の後輩も増え、僕も年齢が上のポジションになっていた。年上の同僚達は皆大学を出て就職するタイミングで辞めていった。一方で僕はこの頃にはもう4年で大学を出るのはほぼ不可能な状況になってしまっていた。

今日は大型連休の中日で店はとても繁盛していた。店は常に満席で、一組帰ったらすぐその片付けをして、またすぐに次の一組が席に着いて注文をしてという状況であった。同僚達は忙しそうに僕の前に席から引いてきた洗い物を積み上げ、すぐに次の仕事に走り去っていく。僕だけが同じ場所にいて皿を洗い続けていた。いや並べ続けていた。忙しく通り過ぎていく同僚達を見ていると、今の自分の状況とそっくりだと思った。皆忙しそうに何かに夢中になって生きて、僕だけがどこにも動けないでいた。僕は最近少しずつ今の生活に焦りを感じ出していた。

8時からの予定だった休憩時間は延びに延びて9時半からになった。僕は洗い場でびしょ濡れになったエプロンを外し、喫煙スペースで煙草に火を付けた。細く立ち昇る煙を眺めていると、仕事で疲れた思考が少しずつ回復してくる。煙は天井の直前で消え、部屋を少しずつ黄色くしていった。全部仕事を終わらせたら今日はおそらく0時を回るだろうな。ふとポケットの携帯を開いてみたが着信は誰からもなかった。


僕にはミーコという恋人がいた。ここの仕事を始めた頃から付き合っているので、もう2年の付き合いになる。ミーコは今高校3年生だ。大学生の僕とは少し住む世界が違う。しかも父親が厳しく門限も22時と定められている(夜にこっそり会って父親に殴られた事もあった)そんな事もあり彼女は怠惰な大学生の生活というものをあまり理解していなかった。だから今の僕の状況にもあまり口を出してこなかった。もしミーコが同世代の恋人であったら今の僕の生活に呆れ果て見限られていたかもしれない。

そんなミーコと喧嘩をしたのは4日前の事だった。その日、僕は友人と何時間も麻雀をした後ミーコの部屋へ行った。部屋に上がりいつものソファに腰掛けるとミーコは温かいコーヒーを淹れてくれた。

「今日はまた随分煙草臭いのね」

コーヒーにミルクを入れながら彼女が言う。

「あぁ、友達と雀荘にいたんだよ。5時間くらいかな?だから服に匂いがついたんだろうね。雀荘は本当に煙草臭いからね」

「学校でも煙草を吸ってる人はいるけどこんなに臭くないわ。雀荘って凄い所なのねぇ」

僕は何も答えなかった。荒んだ生活の話をあまりしたくないのだ。もっともいつも遊び歩いている僕を見て、学校に行っていない事くらいは分かっていただろうが。

「それにしてもほんと麻雀が好きなのね。しょっちゅう雀荘に行ってるじゃない」

「別にそれ程好きじゃないよ。特にやりたい事がないからやってるんだよ」

ミーコはピンクのカーテンを開け、夕暮れと乾いた風を部屋に入れた。そして不思議そうな目をして僕を見た。

「やりたい事がないの?小説は?もう書かないの?」

僕は驚いた。ミーコがこんな事を言うのは初めてだったのだ。

「書かないんじゃなくて書けないんだよ」

「でもとにかく書き出さないと書けないんじゃないの?麻雀してても小説は書けないでしょ?私、あなたの小説また読みたいのよ」

冷たい沈黙が部屋を包んだ。こんな事になるのも初めてだった。

「全部分かってないよ」

僕は飲みかけのコーヒーをテーブルに置いて立ち上がった。

「才能のない奴がいくら書いたって意味がないんだよ。それに気づいてしまったらもう書ける訳ないだろ?誰にも読まれない小説なんてゼロだよ。だから軽はずみな事言うな」

それだけ言うと僕は部屋を出た。ミーコは追って来なかったし僕も振り返らなかった。部屋を出ると急に自分の身体の煙草臭さが気になった。


それから4日間、ミーコからは一度も連絡はない(僕もしていないのだが)こんなに連絡を取らなかったのは付き合ってから初めてだった。4日前の事について、悪いのは自分だと分かっていた。あんな言い方をしたのはミーコの言う事が全て当たっていたからだ。言うなれば痛い所を突かれたのだ。僕にだって分かっていた。踏み出さないと何も起こらない。だけど踏み出す一歩が見えてこないのだ。最初の一歩が見えないと全てが怖くなる。それを才能が無いせいと考えるのは一番安全な逃げだ。そんな事も分かっている。それを見透かされたから僕は狼狽えたのだ。


店はピークの時間帯を過ぎ、少しずつ落ち着いてきていた。他のメンバーにも余裕ができてきたように思える。僕の休憩時間は後15分だ。休憩が終わったら今度は片付けの作業に加わることになる。

3本目の煙草に火をつけた時、後輩の時林が喫煙スペースに入ってきた。時林は半年前からこの居酒屋で働いており、年齢は僕の2つ下だ。お笑い芸人を目指しており、高校を出てNSCへ入った。お笑い芸人を目指しているだけあり、いつも明るく店のムードメーカー的な男だった。NSCで相方を見つけ今はコンビで芸人をしているが、まだ全然芽は出ていない。なので居酒屋の仕事で生計を立てているのだ。「売れたら辞めます」が奴の口癖であった。

「お疲れ様です。いやー今日は忙しかったですね」

あんな重労働の後でも時林は明るい。

「お疲れ様。忙しかったね。時林も今日は閉店まで?」

「そうです。今日は多分終わるの遅いでしょうね。明日は珍しく早朝から芸人の仕事があるのについてないですよ」

「あ、そうなの。何時起き?」

「うーん、4時くらいですかね」

「4時?今日終わるの多分0時越えるよ?全然寝れないじゃない」

僕は少し驚いて聞き返す。

「寝れないですね。まぁでも仕方ないですよ。これも仕事、明日も仕事なんで。それに久しぶりに芸人として仕事ができるんで嬉しいですよ。ギャラも出ないですけどね、なんか嬉しいんですよ」

時林は笑顔を見せる。

僕は芸人について詳しくないが、時林は今年NSCに入ったばかりだ。そんな新人がまともな芸人らしい仕事なんてよっぽど才能がない限り普通はできないだろう。おそらく朝4時に起きて行ったとしても待っているのは雑用に近い仕事ではないのか。いやギャラが出ない時点でそれはもう仕事ですらないのではないか。何故そんなに頑張れるのか。

「あっ、俺今休憩じゃないんですよ。ちょっと一服しに来ただけで、もう行きますね」

時林は煙草をバケツに投げ入れる。

「ちょっと待って」

僕は反射的に声をかけていた。

「どうしたんですか?」

「時林はお笑い芸人になりたいんだよな?」

「そうですよ」

「例えばさ、今こんなに頑張ってて、それが報われなかった時の事とか考えないの?全部駄目だった時どうしようとかそう言う事って頭にチラつかない?」

「そりゃ、チラつかないって言ったら嘘になりますけど、そんな事考えてたら何もできないですしね。最初から何かになると決めて確固たる強い気持ちを持ち続けられるならそれが一番いいですよね。でもそんな事ができる人は本当に才能がある人だけだと思うんです」

「だったら何で時林はそんなに強いの?」

「うーん、僕にはお笑い芸人としての強烈な才能は無いかもしれません。だけどお笑い芸人になりたいんです。お笑い芸人になって人を笑わせたい。どういう事をやって笑わせるかとか具体的にイメージしている事もあります。それをやってみたいんですよ。俺が面白いなと思うものをみんなに見せたい。この気持ちは強烈ですよ。だから頑張れるんです」

「なりたいんだね、お笑い芸人に、本気で」

「なんすかー、今更」

時林は笑いながら仕事に戻って行った。時林の言う通りだな。自分が良いと思うものを人に見せたい。あるかないか分からない才能なんて後から付いてくるものなんだ。そんな事考えたって何もならない。苦労したり傷付く事もあるかもしれないな。いやきっとあるだろう。それでもそこから進んでいくしか無いんだ。


仕事に戻って片付け作業をしながら僕はミーコの事を考えていた。ミーコに謝らないといけないと思った。そして小説を書きたいと思った。それをミーコに最初に読んでもらいたいと思った。思考がぐるぐる回っていた一度回り出すとそれは止まらなくなった。僕には伝えたい気持ちや見せたい景色が沢山あったのだ。例えそれが人々の興味を引かなくとも、僕はそれを文章にしたいのだ。するべきなのだ。


仕事はやはり0時過ぎに終わった。ミーコはもう寝てるかもしれないが一応電話をかけてみようと携帯を開くと、1時間程前にミーコから2件着信が入っていた。かけ直すとミーコは直ぐに出た。

「もしもし?」

いつものミーコだ。ミーコの声を聞いて思い出した。気まずい空気を作って出て行ったのは僕だった。

「・・・久しぶり」

「うん」

「あのさ、なんて言うかこの前はごめんな」

「あのさ」

「うん?」

「今どこにいると思う?」

「えっ?」

「会いたかったからさ。来ちゃったよ。今店の前にいる」

僕は驚いた。慌てて店の前へ出た。そこにはミーコがいた。お気に入りの黒のジャケットを着て鞄を肩から掛けていた。

「ミーコ、門限は?」

僕はいつも聞かなくていい事を聞いてしまう。

「へへ、破っちゃった。1人で寂しい音楽聴いちゃって、どうしても顔が見たかったんだ」

ミーコは照れ笑いを浮かべている。

店の電気は全て消え、人工的な光は全て眠りについていた。夜更かしの月明かりだけがミーコの笑顔を照らす。僕を照らす。柔らかい月明かりに包まれて、こんな瞬間を小説にできればどんなに幸せかと考えていた。

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