第5話
昼食を摂り、その後橘花と小樟は出かけた。女の子同士でいろいろ買い物巡りでもするらしい。つまり、お呼びでない俺は小樟宅で留守番となる。いい機会なので一人で思索を巡らせようと思う。
今までに起きた殺人事件を整理。
今までに【此岸征旅】に殺された人間の人数は九人。
それぞれの死体は身体のどこかが欠損しており、その欠損部位は見つかっていない。これはおそらく【此岸征旅】がその部位を何かしらの目的のために持ち去ったのであると推測される。
頭部が欠損した死体が三体。
両腕が欠損した死体が三体。
両目が欠損した死体が三体。
頭部三つ。腕六本。眼球六つ。いずれもすべて犯人が持ち去った。
さて。ここからが問題。
いったい【此岸征旅】は何のためにこれら身体の部位を集めているのだろうか?
【此岸征旅】の真なる目的は下界への攻撃。このことを踏まえると、きっとこの殺人はその攻撃に必要なものなのだろう。
何かをするのだ。これらの身体の部位を使って。
下界へ攻撃するために必要なものはなんだ?
考えて思いつくのは戦力。戦力のためには何をする?
人を集める。いや、すでに【此岸征旅】という組織が出来上がっている以上それは必要ないのでは。
武器の調達。いくら人を集めても、いくら魔法を使えても、下界へ攻撃をするのだ。つまり〈日本〉以外のすべての国を敵に回すのだ。たとえ魔法があっても魔法使いだけで下界にいる大多数/大軍勢に敵うとは思えない。
圧倒的戦力となり得る武器が必要だ。
「何かを作るのか?」
これらの部位を使って何かしらの武器を作る。それを引っ提げ下界へと攻撃を仕掛ける。
もし何かを作るとして何を造るのだろう。
戦車? 戦闘機? それとも戦艦? いやいや、普通に考えて人間の身体からそれらを造ることは無理だ。戦車とか戦闘機とか戦艦とかはもっと頑丈な素材を使う。人間の肉体で装甲が造れるか? 魔法を使ってわざわざ肉体を硬く加工する? いや、そんなことをするのなら初めから硬い素材を使えって話だ。
もっと違う何かだ。
そんな戦車とかそういう科学的要素の強いものを造るのではない。たぶん魔法的要素の強いものを造るのだ。そのための人間の肉体。そのための頭や腕や眼球なのだ。
ここ空中国家〈日本〉に住んでいる者にしか使えない異能。下界にいる奴らには使えない力。というかそもそも使う気すらない力。我々がこんな宙に浮く小さな島国に追いやられるきっかけとなった下界の奴らから忌み嫌われる力。
魔法。
下界の奴らはこれを嫌うが、これほど強大な力はない。どんな科学兵器よりも万能な力。
つまり、どんな科学兵器をも凌ぐ兵器が魔法ならば造れる。
化学兵器に対して魔法兵器。
物理法則とかそういうものを無視して出力される攻撃を可能とする魔法兵器を【此岸征旅】の奴らは造り出そうとしているのか。
人間の身体の各部位から造られる魔法兵器とは何だろう?
俺はリビングのソファの上でごろんとなって考える。
考える、のだけど……。
昼食後ということもあるのだろう。ふと襲ってくるのは眠気。俺は目を瞑り、そして寝た。
※※※※
外の世界を知ってまだ日の浅い忍山橘花にとって百貨店というのは初めてで、彼女の気分は上々、ウキウキしていた。
「おっきいねー」
百貨店の中で橘花はそう言った。様々なお店が並び、人々が行き交っている。百貨店という建物の中のはずなのに、まるで一つの街のように見えた。少なくとも橘花にはそう見えた。
「百貨店ですから。大きいのは当たり前です」
橘花の隣でそう言ったのは小樟楠夏であった。
二人が来た所は百貨店。何か目的があるかといえば特にないが、強いて言うならただ遊びに来ただけなのだ。ここならとにかく楽しいことが詰まっている。
「まずはどこに行きましょうか? 行きたいところとかありますか?」
「え? 行きたいところかー。そうだね。可愛いものがある所、とか」
「可愛いもの、ですか。ならそこら辺ぶらぶらしますか。ここならそういうお店いっぱいありますし」
というわけでぶらぶらして、見つけたのは雑貨屋だった。全体的にわちゃわちゃしていてお客はほとんどが女子。所狭しと商品が並べられているので通路が狭い。お店の中はまるで迷路だ。
「わぁ。いっぱいあるね。なんかいろいろ用途不明なものが」
「用途不明って。まあ、確かにそうかもしれませんけど。そもそもこういうのは実用性よりインテリア性とかファッション性のほうを重視してますから」
「へぇ」
そう言って橘花は商品棚を興味深そうに眺める。
「もしかして橘花ちゃんってこういう所に来るのは初めてだったりします?」
「うん。そうだよー。初めて。ずっと施設にいたからね」
「あ、そうでしたね」
「あれ。施設で育ったってわたし言ったっけ?」
「水神くんが自分は施設育ちだって言ってたから。水神くんの幼馴染である橘花ちゃんも同じかなと思って」
「竜杜くん、言ってたんだ」
とはいえ、水神竜杜が小樟楠夏に伝えたことはきっと施設育ちだと言うことだけで、【特異生物収容所】の出身であることは伝えていないはずである。橘花はそう考える。というか、これは隠すのが当然だ。【特異生物収容所】は異端者を集める場所であり、そこは大衆から嫌われる者たちを集めた場所。だから、このことはそうそう大衆に晒せる事実ではない。竜杜が施設育ちだということだけを小樟に伝えたのなら橘花だってそれ以上のことは伝えない。伝えるべきではない。
なので、橘花は皆まで言わない。この話はここで終わり。
商品の陳列棚を眺めていると、ふとあるものに目が留まった。
「あ、これ可愛いー」
そう言って橘花が手に取ったのはへんてこと言うべきストラップだった。何かのUMAなのか。毛むくじゃらの――そうだ、イエティである。イエティのストラップである。もふもふである。
橘花が手に取ったストラップを見た小樟が言う。
「可愛いんですか? これ」
彼女は首を傾げた。彼女としてはこのイエティのストラップが可愛いとは思えない。もふもふで気持ちよさそうではあるけど、可愛くはない。
「えー。可愛いよー。すごく可愛い」
「可愛いとは、いったい……」
呆然とする小樟を横に、橘花はもう一つそのへんてこなイエティストラップを手に取る。
「一緒に買わない?」と橘花は小樟に提案した。
「あ、いいですね」
「どっちがいい。色? 白か、ピンクか」
そう言って橘花は白のイエティのストラップとピンクのイエティのストラップを掲げる。
「白がいいですね。私は」
小樟がそう言う。
「じゃあ、はい」橘花は白のイエティのストラップを小樟に渡す。「んで、わたしはこれ。ピンク」
橘花は微笑んだ。嬉しそうに。というか、嬉しいのだ。彼女としては友達とお揃いのものを持つというのに憧れを抱いていたのだ。だから嬉しい。
かくして、二人はお揃いのイエティのストラップを買った。橘花がピンクで小樟が白。二人は買って早々自身のスマートフォンにそれを付けた。
―――――
その後もいろいろとお店を巡る。雑貨はもちろんのこと服だって見た。
これ似合うね。これ可愛い。
ありきたりな言葉を交わし、それでいて楽しい時間を二人は過ごした。
プリクラだって撮った。橘花はプリクラというのが初めてで少し勝手がわからなかった。けれど小樟の指示もあって何とか撮影に至り、あれだこれだと飾りつけをして面白い写真や綺麗な写真を撮ることができた。
今、二人は百貨店内の喫茶店にいた。先ほど撮ったプリクラシールを話のネタにお茶をしていた。
「こういうのがあるんだね。写真を撮るだけじゃなくてデコレーションもできるなんて」
「プリクラ初めてなんですか?」
「うん。初めて」
「初めてなことが多いですね」
「言ったじゃん。施設育ちだって」
「いやでも、いくら施設で育ったとはいえ外で遊ぶことくらいあるでしょう。そんな監禁されてたわけでもないのに」
「……ま、まあ」
本当のところ監禁もとい収容されていたのだけど。そんなことはまず言えない。橘花は言葉を濁す。そして考える。誤魔化すためには何と言う?
「でも、そんなに自由にさせてくれなかったかな。わたしのいた施設は」
橘花はそう言った。
「へえ。施設って言っても多種多様なんですね」
「まあね」
これ以上、施設のことを突っ込まれるのは困る。橘花は話を変えることにした。
ところで、と橘花は言う。
「この後はどうする?」
「ああ、どうしましょうか?」言って小樟はスマートフォンで時間を確かめる。イエティのストラップが揺れた。「今は三時ですか。夕飯も作らないといけないし……買い物をしましょうか」
「そうだね。で、今日のご飯は何かな?」
「何か食べたいものあります? 橘花ちゃんのリクエストに応えますよ」
「うーん」と橘花は腕を組んで考える素振りを見せる。「そうだね。なんか涼しいものが食べたいよね。夏だし。暑いし」
「涼しいものですか? 素麺とか」
「素麺はなんか地味じゃん。地味じゃないのがいい」
「冷やし中華はどうですか?」
「あ、いいね。それ!」
「橘花ちゃんはどっち派ですか? ごまだれ? それとも醤油?」
「わたしは断然醤油だね。それでマヨネーズもトッピングするの」
「私と同じですね。私も醤油です。でも、マヨネーズは付けないかな。私は」
「えー。美味しいのに。マヨネーズ」
「あはは。じゃあ、今日やってみます」
「やっちゃいなよ」
橘花はコーヒーを啜る。それを見た小樟も橘花につられてコーヒーを啜った。二人はコーヒーを飲み干す。
「それじゃそろそろ出ますか?」
小樟がそう言った。頼んだものをたいらげた今、ここにいる必要もないし、それにこれから夕飯の買い物をしないといけない。あまり長居をするべきではないのだ。夕飯の準備が遅れてしまう。
「そうだね。買い物して帰ろうか。どこで買い物するの? ここ?」
「いや、ここの食料品コーナーは少し値段が高いので。スーパーに行きます」
百貨店内にある食料品コーナーはいろいろと物が高く――つまりはお高くとまっている人々向けなのだ。庶民には向かない。だから庶民である以前に学生な小樟にはスーパーマーケットで食料を買った方がお得なのだ。
橘花と小樟は喫茶店を出てそのまま百貨店も出る。
外へ出れば空は少し赤らんでいたけれど、やはり夏だから暑いまま。陽が傾こうとも季節は変わらないのだ。
暑いねー、なんて言い合って。橘花と小樟は百貨店から離れていく。向かうはスーパーマーケット。小樟の自宅の近くにある大きくもなければ小さくもない小売店である。
※※※※
起きれば午後四時を軽く過ぎていた。
ぼーっとする頭をもたげて起き上がる。テレビが点いていた。どうやらテレビを点けっぱなしにしていたらしい。そのテレビでは再放送らしき古めかしいドラマが流れている。
しばらくぼぅっとそのドラマを眺めるけれど、
「つまんね」
つまらないのでテレビを消す。
先ほど――寝る前まで俺は何を考えていただろう? 記憶を探って思い出す。
そうだ。魔法兵器だ。
俺は考えた。考えた結果、俺は【此岸征旅】がいろいろな身体の部位を集めて組み合わせて何かしらの魔法兵器を造るのではないかと結論付けた。で、その魔法兵器はいったいどんなものなのか? 今はそこで悩んでいる。
さてはて。それでは、いったい【此岸征旅】が造ろうとしている魔法兵器は如何なるものだろうか。
俺は早速考えてみる。まだちょっと頭は覚めていないけれど、俺は考える。考えれば、シャキッと俺の頭も覚めることだろう。
頭が三つ。腕が六本。眼球が六つ。
何かができそうであるけど、何ができる?
手掛かりはないものか。俺は手掛かりを欲している。
俺は、俺と橘花が寝起きする部屋へ行く。この部屋には本がある。小樟が集めた数多の本が。
この本棚にあるのはほとんどが小説だが、それ以外の本もちゃんとある。俺はそのそれ以外の本に注目する。学術書やら専門書やら雑学書。これらに何かしらのヒントはないものだろうか。いくつか手に取ってパラパラと捲る。
経済学入門の本を捲る。GDPとかTPPとか、これは全然関係ない。この本は手掛かりになり得ない。
ゲーム理論入門の本を捲る。囚人のジレンマがどうのこうの。なんか響きは格好いいけど、これも手掛かりにはなり得ない。
全編英語の洋書を捲る。何を思って小樟はこの本を買ったのだろうか。手掛かりとかそれ以前に読解できない。
ほかにもいろんな本を手に取り捲る。作家同士の対談集とか世相批判の新書とか小説家になるためのハウツー本とか。しかしどれも手掛かりになるような内容のものはなかった。
まあ、もともとこの手の専門書とかはそんなに冊数も揃えてないらしいし、小樟の蔵書の中から手掛かりを見つけるのは難しいかもしれない。
難しいと思いつつも、また俺は本を手に取りそれを捲る。
その本は古今東西の神様やら天使悪魔やら架空の生き物やらを取り扱った大事典であった。
「あ」
そこに気になるページがあった。
三面六臂というらしい。そういう形状をした奴がそのページには載っていたのだ。
俺はこのページに載っている奴と【此岸征旅】が持っている頭三つ・腕六本・眼球六つという身体の各部位に何かしらの繋がりがあるように思えて仕方がないのだ。
だから。
俺はその大事典のページを食い入るように読み込んだ。
※※※※
そのスーパーはビルの一階に入っていた。決して大きいとは言えないスーパーマーケットには主婦と呼ばれる年齢層の方々が多くいて買い物をしていた。
忍山橘花と小樟楠夏はこの人が多くいるスーパーで買い物をしている。何を買うかと言えば、主婦の皆様と同じ今日の夕飯の材料である。
「人、多いねー」と橘花が言った。
「ここはいつもこんな感じですよ」
橘花が人の多さに圧倒されているなか、小樟は涼しい顔で買い物カゴの中に食材を入れていく。きゅうりとかレタスとかいろいろ。
「冷やし中華に入れる肉はハムの方がいいですよね? 豚肉って言う選択肢もありますけど」
「うん。ハムがいい」
「わかりました」
小樟はハムを手に取りカゴの中に入れた。
その後も冷やし中華に必要な食材を買う。そして買い揃えたのでお会計に。
どこのレジも人が並んでいた。二人は一番列が短い所に並ぶのだけど、前の人のカゴの中にたくさんの商品。これは時間が掛かりそうだと思いほかの列に移ろうとしたのだけど、二人の後ろにも人が並んでいた。ここでこの列を抜けるのはなんか損した気分になる。仕方ないので二人はそのまま列に並んだ。
会計を済ませ、買った物を買い物袋の中に入れる。そしてそれを提げて店を出るのだけどそこで橘花が言った。
「わたし、ちょっとトイレ」
「あ、うん。外で待ってますね」
橘花は店内にあるトイレへ向かい、小樟は店を出た。
※※※※
事典を読んでもまだわからないことがあったので、この事柄の教養を深めるために俺はネットでもこれを調べる。
小樟のノートパソコンを拝借。パスワード設定はされていなかったので、よかった。
ブラウザを開き、検索エンジンにワードを入れる。エンターキーをタァーンと押した。検索結果が表示される。
様々なページを閲覧して情報を収集。
三面六臂。戦闘神。ゾロアスター教の教典『アヴェスター』に登場するアフラ・マズダーに対応すると言われており、それが古代インドの魔神となり、のちにある宗教に取り入れられ今の形となったらしい。
三面六臂というのは顔が三つで腕が六本ということだ。【此岸征旅】も頭三つ、腕六本を持っている。
では、眼球にはどんな必要性が?
俺は眼について調べる。すると、画竜点睛という四文字熟語を知る。いや、この四文字熟語自体は普通に知っていたけれど、この画竜点睛が画竜点睛たる所以は知らなかった。
画竜点睛。瞳だけが描かれていない竜の絵に、瞳を書き入れたところその竜は絵から飛び出し昇天したという故事から生まれた四文字熟語とのこと。
つまり、眼を入れるという行為に意味がある。
もっと調べれば――なるほど、そういうことか。納得する答えが見つかった。
あのとき。ユリウス・フリューリングが気絶する直前に発した言葉。『かいげん』。それと繋がった。ユリウスはこのことを言っていたわけだ。
【此岸征旅】が様々な人を殺し、その死体から身体の各部位を集めているのはある儀式のためなのだ。ユリウスが言っていた言葉はきっとこの儀式の名前だ。この儀式の名を言い切る前に彼は気絶したようだ。
俺の見立てではこの儀式に必要な身体の部位は、以下の通り。
頭三つ。
腕六本。
眼球六つ。
そして。
一つの、腕を除く肢体である。
※※※※
小樟楠夏はスーパーマーケットの前でトイレへ行った忍山橘花を待っていた。
空は茜色。気温は相変わらず高い。歩道を行き交う人は多い。混み合っているほどではないけど、多いことには変わりがない。
トイレが混んでいるのか、橘花はなかなか戻ってこない。
小樟はスマートフォンを弄りながら暇を潰す。ニュースを見れば、トップにはここ奈良県で流行っている連続殺人事件のことばかり。事件についての考察とかそんなのだ。かつての事件と比較して、今の事件はこんなにも猟奇的なんだよって言っている。
とはいえ、こんなのは小樟には関係ない話である。被害者の人には申し訳ないけど、彼女はこの事件にそれほどの興味はない。いくら奈良県で起こっていることとはいえ、まさか自分が被害者になるなんてこともないのだから。自分が殺される確率なんてたかが知れている。
「あのー、ちょっとよろしいですか?」
不意に声を掛けられる。声のする方を向けば、そこには金髪の中性的な顔つきをした男性が立っていた。
「アンケートに協力してください」
小樟は厄介なのに絡まれたなと内心で思う。
「はあ」と彼女は曖昧に返事をした。
「すいませんね。お忙しい中。ほんと」
――刹那。
ガシャリ、と。男はさりげなく懐から拳銃を取り出して、それを小樟の腹部に突きつけた。
「え?」
小樟は腹部の感触に気付き、視線を下にやる。そこで彼女は気付く。どういうわけだろう。拳銃らしきものを突きつけられている。
意味がわからない。状況がわからない。何がどうなっているのかわからない。
混乱。
「え、え?」
小樟の目には腹部に突きつけられているそれが拳銃に見えた。きっとそれは拳銃だ。間違いなく拳銃だ。
拳銃って何? それは武器だ。武器って何? それは動物を、人を傷つける道具である。今、それを突きつけられている私って何? もしかして、いや、もしかしなくても私はピンチ?
「な、なんです――っ」
「――黙れ」
小樟の耳元で、低い声で男は言った。
周囲を行き交う人たちは小樟が置かれている状況に気付いていない。結局、誰も彼も自分しか見えていないのだ。だから、気付かない。
「ひぃっ」
怖い。変な声が出た。
「回れ右をして、そのまままっすぐ歩け。」
男が言った。小樟は恐怖のあまりに思考が短絡になる。刃向うという選択肢が彼女の頭の中から消えていた。
従うしかない。
彼女はそう直覚し、なので彼女は男に従う。
小樟は振り返る。拳銃は背中に突きつけられる。小樟はまっすぐ歩く。ぎこちない足つきだった。膝は恐怖で震えている。
「角を曲がれ。裏路地に入れ」
カクッと角を曲がり、小樟と男はビルとビルの間の仄暗い裏路地へと入っていく。
しばらく歩き人通りから離れる。
「止まれ」
そう指示され小樟は歩みを止めた。
仄暗い裏路地。人通りはない。大通りからも幾ばくか離れている。誰も彼も彼女たちを感知できないと言ってもいい場所だった。
「……ぁ、あ……の……」
恐怖で身体の節々が強張る。声帯だってろく震わなくて声が上手く出せなかった。
それでも頑張って振り返り、男の顔を見る。
男は微笑を浮かべていた。それがかえって恐怖を誘う。
小樟は後ずさって男と距離を取る。男は拳銃を小樟の眉間に向ける。
拳銃を眼前に向けられただけで彼女は動きを止めた。
小樟楠夏は魔法使いではあるけれど、ここ〈日本〉においては一般人に部類される。魔法は使えるけど、戦えない。戦う術を知らない。魔法で攻撃をすることはできるかもしれないけれど、彼女はそれで人を傷つけることができない。そういう度胸を彼女は持ってない。
しかし、それでも今の状況を脱するためには抗うほかない。理由も何も知らないが、このままで殺されてしまうというのだけはわかる。まだ一七歳。死にたくない。
小樟は魔法を生み出すスタンバイをする。気付かれてはいけない。奇襲するのだ。別に痛めつけなくてもいい。男の視線を逸らせられれば、その隙を衝いて逃げることができる。
間合いを取ってタイミングを見計らって――と、いろいろ考えていた小樟だったがそのすべてが一瞬で無駄となった。
前触れも、合図も、ない。
男の構えていた拳銃の銃口が煌めく。それを小樟が認識した直後には魔法による弾丸は射出されていて、そして――その弾丸は小樟楠夏の頭部を貫いた。
皮膚を裂き頭蓋を削って脳を侵す弾丸。眉間から弾丸がめり込み、それは後頭部から抜けていった。
銃創から霧のように血が散る。
小樟の脳は一瞬でその機能を停止。彼女の視界から世界は消えて、見えるものはただただ暗い闇ばかり。一条の光すらない闇。寒くて寂しい闇。何も感じない闇。
そこには自我すらも存在しない。
頭部に弾丸を受けた小樟は倒れた。後ろへ無気力に倒れた。
地面に横たわるは小樟楠夏。彼女は倒れたきりピクリとも動かない。
仄暗い裏路地に。誰もいない裏路地に。立っているのは男一人だ。
その男は微笑をその顔に湛えたまま言った。
「ご協力、ありがとうございました」
男のその声を小樟楠夏は聞いていない。だって、彼女は斃れたのだから。
※※※※
小樟にこの連続殺人事件の犯人はどういう目的で事件を起こしているんだろうなと訊いたとき、彼女は神様を召喚するための儀式に必要な殺人じゃないかって言った。それに対して俺はそんなわけないだろうって思った。
しかし実際考えてみたところこの【此岸征旅】が起こした連続殺人事件は神様を召喚もとい製造するための儀式に必要なものであるとわかった。わかったと言ってもこれはまだ俺の想像の範疇ではあるが。
小樟は特に何も考えないであんなことを言ったのかもしれないが、どうやら小樟の言ったことは本当っぽい。
一度否定したはずの答えが一番可能性の高いものだなんて。
こいつはちょっと小樟に詫びの一つでもしなくてはいけないのかもしれない。
お前の言ったことはどうやら正解らしい。否定して悪かった。そしてありがとう、って。
※※※※
トイレが混み合っていて、トイレを済ませるのに時間が掛かってしまった。
「ごめんごめん」と言いながら店を出る橘花。しかし、小樟を見つけるとかそんなこと以前に店の前に小樟はいなかった。
「楠夏ちゃん?」
周囲を見る。小樟の姿が見当たらない。
「あれー、楠夏ちゃんどこに行ったんだろう?」
まさか一人で先に帰った? でも、小樟は何も言わずに一人で先に帰るような人ではないと橘花は考える。彼女は「外で待ってます」と言ったのだ。言ったからには外で待っているはずなのだ。もし急用で帰らなければならないとなったなら、何かしらの連絡が来てもいい。
小樟もトイレに行ったのだろうか? 少し待っていれば戻ってくるだろうか?
橘花はその場でしばらくじっと待っているけどやっぱり小樟は戻ってこない。
――何だろう。この気持ち。
鼓動が速くなっている。トクントクンと心臓の音がいやに気になって仕方がない。
いい予感はしなかった。むしろこの予感は悪いものだ。
小樟を捜すつもりで周辺を少し歩いてみる。周囲を見回しながら歩いて、小樟楠夏の姿を捜す。
ふと目に行ったのはビルとビルの間の路地。裏路地である。薄暗くて気味が悪い。
裏路地ではいつもろくなことが起こっていない。そういえば橘花たちが遭遇した殺人事件はいずれも裏路地でのことだった。
いい予感はいよいよしなくなった。
その裏路地に踏み入るべきではないと直感的に思うけど、同時に彼女はここへ踏み入れなければいけないとも思う。
別に証拠はない。確信もない。でも、そこに何かがありそうで怖くて、でも確認しないといけないから確認する。
橘花は裏路地に足を踏み入れる。歩く。進んでいく。
進んで行くにつれて、ぞわりぞわりと嫌な予感が湧き上がる。その嫌な予感はまるで蛆虫みたいにざわざわ足元から群がって這い上がって、次第に身体全体を包み込む。
あまりの気味悪さ、あまりの緊張感に、吐き気すらも覚えてしまう。
しばらく歩くと、こつんとつま先に何かが当たる。
見ればそこには赤いトマトが転がっていた。
橘花はゆっくりと視線を上げていく。途中、見覚えのある買い物袋が落ちていた。
そして見た。
巨大なトマトを潰したみたいに地面に染みが広がっていて――それは正確には血だまりというもので、その血だまりの真ん中にあるのは両腕と一つの頭。それ以外の部位、腕を除く肢体はどこにも見当たらなかった。
しかし今はそんなことよりも、その頭や腕が誰のものであったかということが問題だ。
橘花は血だまりに近づいて、そこに転がっている頭部/顔を覗き込む。
橘花は自身の身体から血の気が引くのを自覚した。言葉は出ない。そこから目を離したいのに離せない。身体も動かない。
その顔の血色は悪い。目をくわっといっぱいに開かれており、その瞳に光はない。口は半開きで口元から血がたらりと垂れている。
――忍山橘花が見たその顔は小樟楠夏のそれだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます