第8話「姉弟」

 優月は家に帰ると、普段からベッド代わりにしているソファに倒れこんだ。

 身体を痛めることもなく一晩ぐっすり眠ることができるふかふかの感触を背に、ぼんやりと天井を見上げる。

(前はここで寝てられれば十分だったのにな……)

 つか味わった幻の学園生活。普通に友達と遊びに行き、普通にメールのやり取りをし、普通に恋をする。それができている気がしたのは錯覚だった。

 龍次にがれるあまり他の者など気にかけていなかった自分に友達などいなかったし、龍次から一方的に気遣きづかわれることはコミュニケーションでもなんでもない。

 当人の気持ちを無視して一人えつっていたのは、片想いの恋としても低俗なものだろう。

 それでも、一度手にした快感をしっすることはまるで何かを奪われたかのようだった。初めから自分のものではなかったにも関わらず。

 代わりに何か欲しい。厚かましくも、いまだ与えられることを望んでいる。

(わたしってなんなんだろう……)

 何をするのもおっくうになってまぶたを閉じると、玄関、続いてリビングの扉が開く音が聞こえてきた。

「帰ったぞー。……また寝てんのか、優月」

 涼太がソファの背もたれしに覗き込んでくる。その表情からいつものようなとげとげしさは感じられない。それどころか呆れの色も見受けられない。

「……涼太」

「ここんとこずっとそんな調子だからな。またキツイことでもあったんだろ?」

「うん……。自分が勝手に思ってるだけなんだけど……」

 誰かに何かされた訳でもなく、学校という小さな社会に適応する能力が欠如しているせいでつらく思えるのだ。

「お前の場合、人に気ぃ遣い過ぎてそうなってるんだろうし、そこを責める気はねえよ。他人を退けるほど図太くなってまで社会に出るぐらいなら、うちで引き込もっててくれた方が可愛げもある」

 やはり涼太だけは分かってくれる。良かれと思ってやったことが空回りしていても、涼太ならその時の気持ちをんで評価してくれる。

「人に優しくするだけで気力を使い果たすってんなら仕方ない。もうしばらく面倒見ててやるから道は踏み外すなよ」

「あ……、ありがとう、涼太」

 あまりのかいがいしさに涙が出そうになった。いつの日か自分なりの生き方が見つかったら、その時は全霊をかけて恩を返さなければ。

 例によって両親の帰りは遅いらしく、涼太が優月の好物を使った夕食を作る。

 食器の片付けすら代わりにやって、ゆっくり休んでいていいと言ってくれた。

 涼太は、優月の気分の浮き沈みをよくとらえている。強気な口調で話すのは気持ちの落ち込みが少ない時だけ。苦しんでいる時はそのことを見逃さない。

 二人いる子供のうちの駄目な方としか見てくれない両親とは何もかもが違う。そんな涼太のことが大好きだった。

「なんか気分転換に見るか? 落語のDVDとかあったぞ」

 夕食後、わざわざラックの中をあさって気分が明るくなりそうなものを探してきた涼太。

 そろそろ時間も遅いが一晩話に付き合ってくれるようだ。

「やっぱり日向先輩のことで悩んでんのか?」

 ソファに並んでテレビを見ながら話し込む。

「うん……。わたしのせいで迷惑かけてるみたいで……」

「おれも日向先輩のことよく知ってる訳じゃないけど、お前の性格と先輩の評判を考えたら本人は迷惑がってないんじゃないか?」

「ん……。確かに他の人に悪く言われても龍次さんはかばってくれて……」

「――庇ってくれるからこそ余計に申し訳ないと」

「……うん」

「なかなか難しい問題だな……。恩をあだで返す訳にいかないっていっても、嫌われてもいないんだしなぁ」

「わたしがクラスで浮いてるから無理して助けてくれてるのかも……」

「仮に人助けでも本人の意思でやってるんだからそれは先輩の願望でもあるだろ」

「う~ん……」

 相談に乗ってもらうものの、うじうじした返答ばかりしてしまって解決策も見えてこない。

「まあ、気の短い奴はお前の態度だけでイライラするだろうけど、先輩がそんなに優しいならお前に悪い印象は持ってないんじゃないか? 実際、優月だって優しいんだし。名前通り」

「そう……かな……」

 優しく振る舞おうと考えてはいるのだ。しかし、優しいかいなか、決めるのは自分ではない。

「とりあえず一年生の間は同じクラスだろ。気長に距離を測っていったらいいんじゃないか」

 また話は聞いてくれるとのことで、今日のところはDVDでも見て気を晴らそうということになった。

(落語って殺伐としたとこがなくていいなぁ。ドラマとかだとドロドロしてたり、激しく言い争ってたり――、そういうのは苦手だなぁ……)

 さすが涼太のチョイスというべきか、優月が不安を覚えるような要素は一切ない楽しげなはなしだ。

 実年齢に意味などないとさえ思える年下の保護者に感謝していると、腕にふわっとした感触を覚えた。

(あ……)

 涼太は眠ってしまったらしい。

(そういえば、落語を聞いてるとよく眠れるって話聞いたことあるかも)

 涼太の髪は柔らかくて触れるとかなり気持ちいい。幼い頃はよくでさせてもらったものだ。

 無理に部屋まで運ぼうとして起こしてはいけないと思い、そのままソファに寝かせて毛布を取ってくる。

 普段の大人びた言動からは想像できないほどのあどけない寝顔。思わずいとおしさが募る。

 涼太は自分にとって唯一親しいといえる男子だ。その涼太が目の前で無防備な姿をさらしている。

(涼太と同じ家で暮らして……、こんな時間まで一緒に……。涼太とこんな関係なのはわたしだけ……)

 姉弟でもなければ、男女が夜更けまで同室で過ごしている状況は間違いが起こらないか心配されかねない。

 せっかくなので、学校の女子たちを魅了しているその童顔どうがんを間近で観賞かんしょうさせてもらう。

(可愛いなぁ……。わたしの弟にしとくにはもったいないぐらい……。でも……本当にわたしの――)

 静かに寝息を立てている涼太。気付くとその呼気こきほおにかかるぐらいの距離まできていた。

(……キ、キスしてもバレないかな……? いや……、もしバレても涼太なら――)

 ビンタ一発ぐらいで許してくれるかもしれない。もはや涼太はなんでも受け入れてくれるものだと錯覚し始めている。

「……っ」

 生つばを飲んだ次の瞬間には、涼太のくちびるに自らのそれを重ねてしまっていた。

 他の部位とは比べ物にならない鋭敏えいびんさによって刺激的な温もりが伝わってくる。


 ――どのぐらいそうしていたのか定かでないが、満たされた感覚と共に実の弟のくちびるを解放した。

 生まれて初めて口づけを体験した自分の口元に手を添える。

(涼太も……誰かと付き合ったりしてないみたいだし、わたしが涼太の……ファーストキスを……)

 ファーストキスの相手が姉というのは、幼い頃にふざけあってということならありえないことでもない。

 だが今のは全く意味が違う。

 どうやら涼太に起きる気配はない。気付かれはしなかったようだが――。

(た、大変なことしちゃったのかな……。でも……、それでも……)

 胸がドキドキして、脳内を支配していた陰鬱いんうつさは晴れていた。

 勝手ながら心に栄養補給させてもらった優月は、自分の分も毛布を持ってきて涼太の隣の床で寝ることに。

(い、いつかちゃんと謝ろう……)



 出来のいい弟のおかげで、どうにか学校に通える精神状態を保っていたある日のこと。

 授業が終わって、早々に帰り支度を済ませ帰ろうとしていたところ、校門辺りで龍次に呼び止められた。

「優月さん、ちょっと待って」

「あ……」

 最近は相手の態度を見てか、龍次の方も優月に対して積極的に話しかけてはこなかったのだが。

「やっぱりさ、優月さんだけ他の人に遠慮することなんてないよ。優月さんと話したいって奴結構いるし、毎回同じ面子めんつで遊ぶ訳じゃないから」

 しばらく話しかけてこなかった理由が分かった。そして今になって話しかけてきた理由も。

 誰が優月に反感を持っているのか、一緒にいて大丈夫なのは誰か、それをあらかじめ把握しておく為だ。

 さらっと言っていたがそれ相応の労力を要したはず。それがどれほどのものか想像することもできない。ただ、非常に大きな手間をかけさせてしまったのは明白だった。

(わたしのせいで……そんなに大変なことを……)

 労力だけの問題ではない。龍次にとってはみな友達で間違いないにも関わらず、探りを入れるようなことまでさせてしまった。

 このような献身けんしんを他にも知っている。涼太にも面倒をかけっぱなしなのだ。

 世話をするどころかしてもらうがわで弟離れできていないのに、誰も彼もから助けてもらおうなど図々しいにもほどがある。せめて涼太の温情に報いてから――。

「わ、わたしは……これ以上龍次さんに迷惑かけたくないです……。で、ですから……その……」

 こんな蚊の鳴くような声では、何を言っても助けを求めているようにしか聞こえないだろう。それではいけない。

 ここで話していても心配され続ける――、そう判断した優月は校門から飛び出した。

「――! 優月さん!」

 本来、優月の運動神経では走ってもすぐ追いつかれるところなのだが、どうやら霊力は脚力の強化にも使えるらしい。

 身体の打たれ強さとは違い霊力そのものを消費して効果を得ている為、瞬発力しかないということで校外に出るとすぐ人目につきにくそうな細い路地に入り込んだ。

 人知を超えた力の無駄遣いで身を隠し、今後どうすればいいのかと思案する。

(はぁ……。こんな風に逃げられて……龍次さん気を悪くしたかな……。でも、一緒にいたらみんな嫌がるだろうし……)

 答えは出ない。迷宮か樹海か、出口が見えずどこへ向かえばいいかも分からない、そんな場所に踏み込んでしまった気分だ。

 逡巡しゅんじゅんしながら歩いているうちに路地裏まで来ていた。そしてその時――。

「優月さん――!!」

 突然呼びかけられた。

 龍次にではない。

 声の発生源は自分の右手にある。

「――喰人種の気配です!」

「わざわざ人気ひとけのないとこに入ってくれて助かったぜ。――いい奴だなお前」

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