一つ目の鉢:森の白い帽子 1

 鏡をくぐって仕事をしに来たのはいいけれど。

「ここ、どこだろ……」

 堪らず呟いてしまった。だって誰もいないのだもの。笑顔にするべきひとが、誰も。

 見回せば暗緑の木々。見上げた青空は小さくて、いつにも増してどこか遠い。息を吸うと苔の湿った匂いと一緒に、鋭く冷えた空気が鼻の奥を刺した。

 やっぱり、どう考えても。ここは“森の中”らしい。

 茂みを別にすれば視界は悪くないけど、僕はどちらかといえば開けた野原の方が好き。ソルさんに連れて来られる前からそうだったのかな。

 ぶるりと震える。目下の問題はこの寒さをどうにかすることだ。薄手のブラウスに膝丈のズボンだけじゃ少し――かなり、寒い。

 とにかく動こうと思った。いざとなったら助けてくれるようなことをルナさんも言ってたし、歩いたら体も温まるだろうし。……

「?!」

 ――音がした。

 がさがさと茂みを掻き分け、パキンと小枝を折る音。何か来る……?

「そこに誰かいるのか?」

 届いたのは低い声、でも敵意は微塵も感じない。

 その方向に返事をしようとした瞬間……茂みが割れて、黒髪の男性が姿を見せた。

 僕は中途半端に口を開けたまま固まってしまう。男性はソルさんよりも歳上に見えた。(ソルさんが何歳なのかは知らないけど。)でも不審げに眉根を寄せた蒼白な顔は雰囲気があまりにもソルさんと違い過ぎて、まったく、笑顔なんて拝めなさそうな感じがする。このひとの花を咲かせるのが仕事だったら、困るなぁ。

「坊主、誰だ?」

 ひょいと茂みを飛び越えて、真っ黒なローブが翻る。僕は下がりたがる足を叱咤して、神経質そうな細面を見上げる。

「ピエリス、です。仕事を頼まれて、ここに」

 寒くて手がかじかんできた。降ってくるのは鈍色の眼差しで、それもまた寒さを助長しているような。僕は男性の目ではなく、両耳から垂れた小さな蒼い耳飾りを見つめることにする。

「仕事? どんな」

「花を咲かせてくれって頼まれているんです。多分、あなたを喜ばせたら、咲くと思うんですけど……」

 どうにも自信がない。

 こんな説明で大丈夫だろうかと恐る恐る顔を見ると。

「おお、もしや坊主、ああ、そういうことか」

 厳格かに見えた空気はどこへやら、相変わらず血色は悪いけれども、彼はひとり手を打って何事か呟く。

「手伝いを寄越したわけだな、なるほど。クアットゥオル・アンニ・テンポラ……催促にしては遠回りな」

 そしてくつくつと笑ったのだ。このひともソルさんとは違うタイプの美丈夫だから、笑顔もとてもきれい。だけどこの笑顔は仕事とは関係ないらしい? まだ鈴の音が聞こえる気配はない。

 と思うと男性が僕を呼んだ。その表情は打って変わって優しいもの。

「坊主、私の捜し物を手伝ってくれ」

「捜し物ですか?」

「ああ。というか、それが恐らく坊主の仕事だろうな」

 それなら丁度いい。けど何故このひとがそんなことを知っているんだろう。

「あの、もしかして、以前どこかでお会いしましたか?」

「え? ……ああ、いや。私と坊主は滅多に顔を合わせることはなかったが……まぁ坊主とは、初めて会うのかもしれないな」

 僕はまた軽く混乱する。知人のような口振りだったかと思えば、『初めて会う』の言葉。

 首を傾げる僕の体を、暖かいものが突然包んだ。我に返ると、屈み込んだ黒い剣士服姿の男性と、僕の肩にかけられた同じく黒いローブ。

「そんな格好じゃ寒いだろう。貸してやるから、それを羽織っているといい」

「でも、あなたが寒くありませんか?」

 肌触りのいい布は絹とも少し違って、それほど厚くないのに冷たい空気を通さない。これも“特別”なのだろうと思った。

 とはいえ、正直に言ってありがたいものの、申し訳なさが先に立つ。男性は口元をほんの少し弛めて首を振ってくれた。

「構わない。このくらいの寒さ、私は慣れっこだからね。それと……私の名前はヒェムスという」

 僕は……と言いそうになって、思い出す。そうだ、僕はもう名乗っていたんだ。坊主としか呼ばれないからすっかり忘れていた。

 自分に苦笑いしながら、頭を下げる。

「ありがとうございます、ヒェムスさん」

「ああ」

 今ではもう、ヒェムスさんを怖いと思う気持ちはなくなっていた。厳しそうな印象も薄れて、僕は彼の笑顔をもっと見たい気がしていた。ちょっと怖かったのは、きっと最初に会ったのがソルさんとルナさんだったからだな、と僕は勝手に納得する。

「ところで、何を探せばいいんでしょうか?」

 するとヒェムスさんはバツの悪いような顔をして、俯き気味に頬を掻いてみせた。

「帽子を、探して欲しいんだが」

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