特別な街 3
どうやら僕をここに連れてきたのはソルさんで、“この街”が特殊なせいで僕は記憶が曖昧であるらしい。
「ここは特別な街」
カウンターに肘をついた姿勢のままでソルさんが言った。ほのかに憂鬱そうな視線は僕を通り抜けて、多分、店の入り口も飛び出して。
「本当は僕らの名前も要らない。だけど誰かが呼ばないと、僕らの存在は簡単に溶け消えてしまうからね。――だから僕とルナが呼ぶ限り君は“ピエリス”であって、消えることはない」
いつの間にかソルさんの肩に立ったルナさんもうなずく。やっぱりこのふたりはお似合いだ。
この街はさ、と蜂蜜色の双眸が僕に焦点を結んだ。
「商店街みたいなものでね。他にも色々売っている。“風捕り網屋”、“夢喰い屋”……、他にも、精霊のための舞踏曲を作れるのは三軒向こうのお爺さんだけだし、少し行ったところにある染め物工房では、虹の色から海原の色まで自由自在さ。どれも“屋”とついていても、お金で買うことはできないんだけどね。時間はたっぷりあるだろうから、暇潰しに見に行ってくるといい」
面白そうだなぁと僕は思った。時間がたっぷり、というところが気になったけど、暇潰しに事欠かないだろうことは想像に易しかった。
僕は少し引っ掛かっていたことを尋ねてみる。
「さっき、この店はどこまでも広がるって言いましたよね」
「ああ、言ったね。……なんなら試してみるかい?」
僕は笑顔のソルさんに「はい」と返して、カウンター脇を通り過ぎて奥へと進んだ。ちらと横目で盗み見ると、椅子に脚を組んで座ったソルさんは、どうやら白っぽい上下の上から薄青の長い衣を羽織っているらしかった。
花に囲まれ、真っ直ぐに進む。左を見ても右を見ても花、花、花。たまにむせそうに強い香りがするものもあるけれど、どちらかというと、延々と続く同じような景色に目が回りそうになる。どうやら無限というのは嘘ではないみたいだ。少なくとも今の自分には確かめる気力はない、かも。
戻ろう。踵を返して――息を呑んだ。
“見えない”。
真っ直ぐに辿ってきたはずなのに、すぐそこに曲がり角がある。慌てて前に向き直ると、ついさっきまで続いていたはずの道は消えて、行き止まり。
「特別な街にある花屋は、特別なんだ」
どこからかソルさんの声。距離を歩いてきたにしてはすぐ傍から聞こえるような、遠くから響いているような。
「それとも特別な店が集まって、特別な街になったのかな」
「ソルさん、」
思わず呼ぶと、
「毎回ソルは遊び過ぎだわ」
呆れたようなルナさんの声まで。
「不可思議を体験してみるのも悪くないさ。ピエリス、戻りたいかい?」
「はい」
「ならば強く願ってごらん。願って、一歩を踏み出してごらん」
言われた通りに踏み出す。戻りたい。一歩、一歩。辿った覚えのない、なかったはずの曲がり角を曲がる。
すると唐突に視界が開けて、見知った場所に出たかと思えば。
「お帰り、ピエリス」
ふたりがいるカウンターの前。ルナさんの優しい笑顔にひどく安心する。ここはやっぱり不思議な花屋だと、僕は身をもって知った。
「さて、それじゃあ仕事も体験してみようか」
何が起きてももう驚かない……と断言はできないけれど。それでも恐怖は感じなくて、わくわくした気持ちと緊張が半々という感じ。
やっと立ち上がったソルさんは、思いのほか背が高かった。動く度にさらさら揺れる金色の髪は、何度見ても麦穂の絨毯が風に靡くよう。見惚れそうになりながら、促されて鏡の前に立つ。
「何かあったら、あたし達を呼ぶんだわ」
ルナさんが羽ばたくと、銀色の粉がかかった鏡が淡く光り出した。
その光景にどこかもやもやした感じを抱いたのだけれど、それを言葉にする前に両肩に大きな手が置かれる。
「大丈夫、君なら出来る」
背中に、耳元に、ソルさんの温かさを感じる。ふたりの言葉にも不思議な力があるみたい。こんなに前向きな気持ちになれるのだから。
「鈴の音が合図だからね」
「はい」
「うん。ではピエリス――“アド・マイオーラ”」
背中を後押しされたのか、自分から踏み出したのか判然としないけれども。
眩しい光に包まれて、ともかく僕は初仕事に出掛けたのだった。
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