第五話 結編 プロローグ
結編 プロローグ
一寸先すら見えることない、暗闇の只中に、横倒しの僕は居た――いや、横倒しというのは感覚的な話で、もしかしたら僕は横倒しではなく、立っているのかもしれない。
でも、この場に置いて、そんな考えは無用のものだろうとも思える。
透明とすら錯覚できる暗闇の中に手を伸ばしても、闇に溶け込むように、手は黒く染まっていく。
横倒しに感じる状態から力を入れようとしても、体全体の力は空気が入っていない風船のように貧弱で、立つことすら許されない。
ひたすら光の差さない闇の中で、全てを受け流すかのように丸く凍った心は、閉じ込められている。
閉じ込められた心の外では、モノクロのフィルムのような、色褪せた映像だけがひたすらに垂れ流されていた。
僕は気づかないうちに、誰かに手を引かれて外を歩いていた。
瞳はその誰か、をまったく認識しようともせずに、体も抵抗しようとしない。何処にいくのかも分からないけど、どうでもいい。
それよりも、耳から入り込む音のほうが心に影を落とすみたいに重く、深く響いていた。
外は水気のある雑音が酷く、判断するに雨が降っているようだった。それが心を閉じた僕には、酷く憂鬱に感じられて、一層と外に感情や心を出すことを拒む。
意識が朦朧としたまま、僕と誰かは耳障りな雨音を身に染み込ませながら、歩き続けた。
……
…
「ついたわよ」
酷く疲れてるようでありながらも、元気を出そうと抑揚のある声が耳に入り込む。でもその声ですら、心に届くことはなく、ただ素通りしていく。
一緒に歩いていた誰かが止まった先では、黒と白を基調にした建物があって、入口付近では達筆な文字が書かれた紙が張ってある。
でも、僕の脳は達筆な文字を解読することができなかった。
脳に、文字を読むことを阻害する靄のようなものがかかり、認識することすら叶わない。
いや……実際は認識していても、書かれた文字を認めたくなかった。その一心だけが、無意識の視線に介在して、映像を自分の都合のいいものに加工する。
「中に入りましょうか」
哀しさを抑えられない、そんな声を聞きつつ僕は言われたことに従って、建物の中に入った。
モノクロな視線の先では、真っ黒な服を着た人が五人居た。それを見た瞬間に、閉じ込めていたはずの心が鼓動を早める。
この場所に近づいてはいけないと、脳が警告を繰り返す。
その正体が、今の僕には分からない。けれど、どうしようもなく不安になって、感情が押しつぶされそうになってしまう。
奥に居たふたりを除いた三人が、こちらに振り返って、会釈をする。
胸を圧迫する鼓動を落ち着かせるために、自分の中で何回繰り返されたか分からない、普段では絶対に考えないような呪詛の言葉を反芻する。
何が起こっているか、になんて興味はない。勝手に何もかも、過ぎ去ってしまえばいい。
このまま僕を取り巻く世界が終わってしまったとしても、今の僕は後悔しない。
呪詛が頭を往復する中、気がつけば、白菊の花で埋め尽くされた棺の中に入っている春華さんを視界の中に入れていた。
春華さんが視界に入った瞬間から、押さえつけていたはずの心は、彼女のことを考えようとする。
同時に呼吸をするスピードが速まり、目が震える。意識が揺れ動いて、遠近感がなくなっていく。
何を見ているのか、分からなくなるような感覚があるのに――それでも視界は見えない糸に縫い付けられたみたいに、春華さんを捉え続ける。
こんな狭い棺の中にいるんじゃ、まるで春華さんが死んでるみたいじゃないか。
「これで……春華ちゃんとお別れ……なのね……」
隣に居る誰かが、鼻をすすり、泣いてでもいるみたいに、嗚咽をもらしながら言った。
春華さんとお別れ?
何を言っているんだ。春華さんは、この棺の中で綺麗な顔をして眠っているじゃないか。
僕が学期末試験の前に見た春華さんより、よっぽど顔色もよくて、健康そうに見える。
そう考えながらも、手は勝手に拳を作り、頬に湿ったものが流れるのを不思議に思っていた。
これは、触れなくても分かってしまう。
目から頬を流れていくのは、涙だ。
涙は感情の奔流を物体として表すもので、心の中で感情の揺れ動きがあれば、自分の意思とは関係なく現れてしまうものなら、僕は感情の揺れ動きがあったということだ。
僕は、泣いているのか。
さっきから心音は高まり続け、意識が何度も圧迫されるような感覚を覚えている。
春華さんが居る棺から離れても、それは収まることなく続く。
そうして、気づけば僕をここまで連れてきた誰かが、真っ黒な服を着た、ふたりの人と会話をしていた。
でも僕は、会話を聞くことはしなかった。いや、正確に表すなら、聞けなかった。
自分の心を深い思考の奥に隠して、この場から逃げ出さないようにするので、僕は精一杯だった。
忘れようとしている大切な記憶を必死に思い浮かばせないようにして、精神を保とうとしているのに大切な記憶は、暴れ狂う炎のように、押し寄せて凍らせた心を溶かそうとする。
それでも、なんとか感情を押さえつけていたものは、ふとした言葉で押さえつけられなくなった。
「あなたが南条 智くんよね」
相手にしてみれば、何気ない言葉だったかもしれない。それでも、僕が動揺するには十分なものが、放たれようとしていた。
「ごめんなさい、突然名前を呼ばれても戸惑うわよね。初めまして、私は春華の母です。いつも南条 智くんのことは、春華から聞いていたのよ。
あなたのことを話すようになってから、いつも詰まらなさそうにしていた春華は、生き生きとしていたから、一目だけでも会ってみたいと思っていたの。
南条くん、でいいかしら。……本当にありがとう、春華の傍に居てくれて。あなたのおかげで、きっと春華は幸せだったわ。死ぬ前に……楽しく笑えたんだから、きっとあの子もあなたに感謝してる」
熱を帯びる感情を乗せた言葉が、僕の心を乱暴に溶かしていく。
ただの感謝の言葉のはずなのに、目の前に真実が突きつけられる。
一度、全てが燃やし尽くされてしまえば、そこに残ったのは凍った心でもなんでもなく、逃れることのできない不条理な真実だった。
――あなたのおかげで、きっと春華は幸せだったわ。
……違、う。
――楽しく笑えたんだから、きっとあの子もあなたに感謝してる。
違う! 僕は春華さんに何もできてない!
感謝されるようなことも! 春華さんを幸せにするようなことも! 何も出来てない!
これから、これからだったんだ!
もっと、もっと長い時間を春華さんと一緒に過ごして、楽しくも平凡な日常が過ぎていくって確信していた。
春華さんが前を見て幸せを思い描けないのなら、僕が一緒に春華さんを幸せに、笑顔にしようと思ってたんだ……。
僕が春華さんと一緒に居たいってだけじゃなく、その先の願いとして幸せにしたいなんて願ったから、罰が起きてしまったのだろうか。
目の前に、逸らし続けていた暗闇が広がっていく。
「ありがとう」
いつの間にか進んでいた春華さんのお母さんの話は、締めくくりと言わんばかりに"ありがとう"と精一杯の感情を込めて述べていた。
言霊の篭ったものは、僕の中に鋭い刃として滑り込み、感情を抉り広げた。
僕は、春華さんにもらってばっかりだったんだ。
だから"ありがとう"なんて言葉をもらう資格がない。
なのに、目の前に居る人は笑って、春華さんが幸福だったと言い張る。
ひたすらに怖かった。
僕は何もしてないのに、お礼を言われていることが。
春華さんが死んでしまった、という事実がとてつもなく恐ろしく、怖くて。
僕は、逃げるように走り出していた。
全てを振り切って、外に出てからも前を見ずに、ひたすら雨の中を走り続けた。
……
…
気がつけば家に帰って、自分の部屋のベッドで毛布を全身に被せ、暗闇の中で蹲り、僕は泣いていた。
春華さんが死んだという事実は、有り余る慟哭として襲いかかり、慟哭を処理する手段が泣くこと以外に見つからなくて、ひたすらに嗚咽していた。
「うっああぁぁ……どうしてっ……僕はずっと春華さんと一緒に居たかっただけなんだ……っ」
一緒に居たい。
たったそれだけの、きっと皆が普通に抱く思いが遂げられないなんて、どうしてなんだ。
春華さんが死んだのは、誰かのせいなんて言うつもりもない。
偶然、運命、必然――死んだ理由を表す単語なんて、古今東西にいくらでも溢れている。
母さんから聞いた話では春華さんの死因は病死らしく、それは本当に誰が悪いわけでもないもので。
だからこそ行き場のない感情が言葉として溢れ出て、止まらなかった。
「……なんでっ、いなくなっちゃったんだ……っ。物語の感想だって……伝えるつもりだったんだっ……そうしたら……きっと春華さんは笑ってくれるって……笑顔を浮かべてくれるって……君の笑顔が見たくてっ……なのに……いなくなっちゃうなんて……春華さん……春華さんっ」
彼女が戻ってくるわけでもないのに、ひたすら声が届くようにと名前を呼び続ける。
どんな姿でもいい。彼女がまた僕の目の前に現れてくれれば、それでいい。
伝えたいことが、山ほどあった。
一緒に見たい景色が、たくさんあった。
共に居たいと思える時間が、いくらでもあった。
考えれば考えるほど、やりたかったことが浮かんできてしまう。
僕はあり得ない可能性にすがり始めていた。また逃げ出そうとしている。
春華さんに話しかける勇気を持ち、彼女と一緒に居たいから居ると言った逃げない、一歩を踏み出した僕は、忽然と消えてしまっていた。
春華さんと出会う前から、あの時こうすればよかった、と後悔を積み重ねていた僕を捨てきったと思っていたのに、そんなことは全然なくて。
少しだけ強く、逃げないようになれたと思っていたけど、僕は自分が呆れるほどに、弱いままだった。
その事実が僕を再びどん底に突き落とし、同時に春華さんがいなくなったという真実を突きつける。
こんな苦しみを背負うくらいなら、この世からいなくなりたい。そんなことすら考えてしまう。
そうだ、僕なんていなくなっても誰も――。
「智くん」
毛布の外から頭に響くような、柔らかで温かい声が毛布の外から聞こえた。
「あれ、反応がないわね。掛ける言葉を間違えた、かしら。それとも聞こえてない? 一応もう一度。元気だった?」
春華さんが死んだと聞かされたときや、真実を突きつけられたときとは別に、鼓動が早まる。
絶望に震える鼓動ではなく、それは彼女が毛布をあげたら居るのではないか――期待に震える鼓動だ。
この暗闇から出たら、僕は春華さんに会える?
期待が都合よく膨らんでいく。
僕は今まで泣いていた顔を忘れて、無我夢中で毛布を跳ね除けて、外の世界を見た。
「やっと聞こえたのね。気づくのが遅いよ、智くん」
幻想的に窓から差し込む、眩く透き通る月光に照らされて、彼女――北条 春華は、以前となんら変わりなく、哀しげな瞳と嬉しげな瞳を携えてそこにいた。
結編 プロローグ 終わり
結編「智の一歩」part1に続く
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