異世界に来てください。本物のビキニアーマーを見せてあげますよ

 「おいおいおいおい。お前ら、何してくれてやがんだい……」

 みょうに芝居がかった調子でその男は言った。

 彼はずんずんこちらに歩いてくる。

 そして、地面に転がっているダークエルフに目を落とす。

 「……って、おい! ほんとに何してくれてんだよ!?」

 彼がそういうのも無理はないだろう。彼の仲間らしいダークエルフは、クムクムに殴られたせいで無惨な状態になっていた。

 全身をつつむ頑強な鎧が、ベッコベコにへこんでいる。その姿は、おれのいた世界のものでたとえると、交通事故で廃車になったダンプカーとかに似ていた。

 「……素人じゃねえな。何が狙いだ?」

 男の目つきがさっと変わる。

 その大きな金色の目は、タカかあるいはフクロウか、そういう種類の鳥を思わせた。

 彼の全身は砂色の毛におおわれ、三角形の耳がせわしなく動いている。背丈はおれの胸ぐらいといったところだ。クムクムよりは少し高い。

 服はほとんど着ていない。腹にサラシのような白い布を巻きしめているのと、皮の腰巻を身につけているだけだ。そしてカタナである。

 「クムクムと同族……だよな?」

 「ああ。コボルトだ」

 クムクムがうなずく。

 「そこそこ強いな。まあ、わたしほどではないけどな」



 「し、シン先生……」

 倒れていた鎧のダークエルフがかすれた声を出す。

 「お、なんだ、生きてたのか。てっきり死んでるかと思ったぜ」

 シンと呼ばれたコボルトは、とくに喜ぶ風でもなく言った。

 「クムクムさん、とどめ刺せば良かったのに」

 アイシャがニコニコ笑顔で言う。

 「甘いですねえ。わたしだったら消してますよ」

 「どいつにやられた?」

 「そこのコボルトの女です……」

 「そうかよ」

 シンはきっと顔をあげて、クムクムを見る。

 「何してくれてんだよ、お嬢ちゃん……?」

 「美人のお嬢ちゃんだと?!」

 「んなことは言ってねえ!」

 シンは大声を出し、ダークエルフの鎧を蹴る。彼女は完全にとばっちりなので、おれは同情した。

 「こいつに何したか聞いてるんだよ!」

 「なぐった」

 「殴っただと?」

 「まあ、ちょっと杖でな……」

 「杖で殴った?」

 「わたしは魔法使いだからな、あの杖で」

 そう言いながら、クムクムはさっきダークエルフを殴るのに使ったウォーハンマーを指さす。先端に子供ぐらいの鉄塊がついた、彼女いわく「杖」である。

 「ウォーハンマーじゃねえか!」

 シンはキレた。

 「どういう了見だコラァ!」

 シンは、その身体からは想像もつかない大声を出した。

 おれは思わずすくみ上がってしまう。ヤンキーがいきなり大声でキレたりするのがおれはとても苦手なのである。いっぽう、クムクムは平気な顔をしている。

 「こいつが、わしのパンを台無しにしたからだ」

 クムクムがそう言うと、シンの動きが止まった。

 「パン……だと?」

 「この女が、わたしの食べていたコーンジャムパンを払って、食えなくしたのだ。パンに砂がついてしまったではないか」

 「パンに砂がついた……だとぁ?」

 シンの顔がみるみる怒りの形相になり、身体がぶるぶる震えはじめる。

 クムクムさん、怒らせすぎじゃないですか。まずいんじゃないか。

 そう思ったとき、シンはくるりときびすを返した。

 「………………じゃあしょうがないな……」

 そう言ってシンは、倒れているダークエルフに蹴りを入れる。さっきの蹴りより大きな音がした。

 「おうコラ! てめえ! 今のは本当かァ!?」

 「ほ、本当です……」

 「このお嬢さんのパンを食えなくしたのか!」

 「は、はい」

 「っざっけんんなコラあああああ!」

 シンがダークエルフを蹴る。

 「ぐわああああああああ!」

 バイクの衝突事故みたいな音がして、ダークエルフは鎧ごと吹っ飛んでいった。

 「このお嬢さんにパンを弁償しろッ! ダボが!」

 シンは怒鳴る。

 コボルトは食い物のことでキレる。とさっき聞いたばかりだったが、これほどとは思わなかった。

 「……美人のお嬢さんだ」

 クムクムがちょっとドスの効いた声で言う。

 「…………この美人のお嬢さんにパンを弁償しろッ! わかったか!」

 「は……はい」

 ダークエルフはいちおう生きているらしく、力なく返事をした。

 おれは深く同情した。



 「さて……パンはしょうがないが」

 シンはそう言って、アイシャを指さす。

 「そっちのウッドエルフの姉ちゃんはちょっとこのままでは済ませられんぜ?」

 「あはは、やっぱそうですかね」

 アイシャはへらへら笑っている。こいつが今回の諸悪の根源である。

 「あははじゃねえ! うちの人間、刺されてんだぞ!」

 シンが怒鳴る。

 非常にもっともである。

 うん。

 どう考えてもアイシャが悪い。

 「あははは! コボルトさんや。毒ぬった針で刺したぐらいでそう怒らなくてもいいじゃないですか。べつにあなたが刺されたんじゃないですから」

 アイシャはそう言って手をぱたぱたと振る。

 「よくねえよ! オレの面子丸つぶれだよ!」

 話から察するに、倒れているダークエルフとシンは、この隊商宿の用心棒のようであった。たぶん警察みたいなものがないから、そういうしくみがあるのだろう。

 「んなわけで、そこの姉ちゃん。武器を捨ててこっちに来てもらおうか」

 シンはアイシャを連れていこうとする。

 「そこのお……美人のお嬢さんと、他の連れは、悪いがすっこんでてもらえないかね。そこの姉ちゃんをしかるべきところに突きだす」

 シンは非常に筋の通ったことをいった。

 どう考えても、犯罪者はこちらであった。アイシャはイカサマ賭博でここの人々をだまし、怒った相手を毒針で戦闘不能にした極悪人である。

 「いやです!」

 アイシャは笑顔で拒絶する。

 「お断りします」

 「そうか」

 シンも笑顔で応じる。

 「じゃあ、斬る」

 シンはカタナをかまえた。

 彼の武器は、おれたちの世界でいう日本刀とほぼ同じであった。この世界のカタナは、ダークエルフたちがハイエルフを倒すために作ったものだが、異世界とは思えないほどそっくりであった。

 反った刀身に、波打つような紋が浮かんでいた。握りが金属でできているらしく、鍔がない。長ドスと呼ばれるようなものに似ているようだ。

 彼はカタナを上に持ちあげる。上段のかまえというやつだ。コボルトは小柄なので、カタナは身体に対してひどく長く見える。

 とはいえ、相対すると、ゾッとするような殺気を感じる。

 間違いなくこのコボルトは何人も実戦で斬っていることが、にぶいおれにも瞬間的に理解された。

 「美人のお嬢さん。下がってくれないか。巻きぞえにしたくない」

 シンはクムクムにいう。

 「いいぞ」

 クムクムはあっさり了承し、ぽてぽてと歩いてアイシャから離れた。

 「えっ、ちょっと、クムクムさん、冷たくないですか!?」

 「いや、だっておまえが悪いし……」

 「そうかなあ」

 「いや、悪いって。ちゃんと出るところに出ろ」

 「えー、いやですよう」

 アイシャはにこにこ首をふる。

 「裁判になったら、わたし有罪確定じゃないですかあ」

 「あ、いちおう自覚はあるんだ」

 おれは言った。

 「おい、そこの変な耳した兄ちゃん」

 シンはおれに呼びかける。

 「あんたはどうする? ……オレの邪魔するかい?」

 シンはかまえたまま言う。

 喋りながらでも、シンの構えはまるで絵のようにぴたりと動かない。構えたカタナの先が微動だにしない。

 「……ま、オレはそれでもいいけどな。斬っちまえば、それはそれでカタはつくわけでさあ」

 「めっそうもない」

 おれは言う。

 なんとなく緊張して時代劇みたいな口調になった。

 「どうぞどうぞ」

 おれはアイシャからそそくさと離れた。

 「うわー、冷たいなあ。汚い、さすが異世界人汚い!」

 アイシャはそう言っておれをののしる。

 「まあ、期待はしてないですけどね」

 アイシャはそうつけ加える。その通り。

 おれは、この世界ではいわばレベルが1の状態である。

 はじめは、この世界にきて異世界チート的なものを期待したが、それは勘違いだった。この世界では、この世界にもともといる種族のほうが強い。モンスターみたいなのもいて、これは超強い。

 だから、おれみたいな、ネトゲの世界でモンスターを狩ってバームクーヘン食うような生活をしてきた人間は、この世界では戦えないのである。

 そう、おれは戦えないのだ。

 通信教育でちょっとやった空手で、まじもんのカタナを上段にかまえた相手に戦えるか? 否、死ぬのは確定的に明らかである。寿命がマッハである。

 「人徳ないねえ、姉ちゃん……」

 シンはアイシャとの距離をじわじわとつめる。

 横から見ていると、シンが歩いても、カタナの先はまったく上下していないことがわかった。この世界にも剣道のようなものがあるらしい。しかも、完全に殺す技術としての剣道である。

 「人徳はないですけど……」

 アイシャはふり返り、ミフネを見る。

 「さあ! 行け! ミフネちゃん! キミに決めました!」

 アイシャはそう言って、シンを指さし、ミフネをけしかける。

 「自分で戦えッ!」

 その場にいる全員が一斉につっこんだ。倒れているやつもふくめて。



 「さあミフネさん! サクッとこいつ殺っちゃってください!」

 「あのなあ……アイシャ」

 ミフネは呆れた顔で言う。

 「いくら私とお前の仲でも、犯罪の擁護は……」

 ミフネもアイシャをかばうのを断ろうとしているようである。

 「私は軍人だぞ? ここでは軍人は貴族なのだ。ノブレス・オブリージュというものがあるのだ。軍人がむやみに民事に介入しては、民が迷惑することこの上ないだろう」

 ミフネは非常にもっともなことを言った。

 あんがい常識人である。この世界にも常識というものはちゃんとあるようで、すこしおれは安心した。

 「その通りだ」

 ナジェもうなずく。

 「だいたい、ミフネ様は二個大隊を従える将であるぞ。それをアゴで使おうなどとは、思い上がりも甚だしいぞ。ウッドエルフ」

 「使えないですねえ、もう……」

 アイシャは腹黒そうな笑顔を浮かべる。

 「あのこと、バラしますよ」

 「…………」

 ミフネは無言になる。

 「まあ、誰だって叩けばホコリは出るものですしねえ」

 「………………」

 ミフネは何も言わない。

 「ミフネ様、どうされたのですか?」

 ナジェがミフネの顔をのぞきこむ。

 「あの、ミフネ様?」

 「……ナジェ、武器を貸せ。それと、アレだ」

 「えっ」

 「このコボルトを始末せねばならぬようだ」

 ミフネはシンをじろりと見る。

 アイシャはそそくさとミフネの後ろに隠れた。

 「た、戦われるのですか!」

 「是非もない」

 「なぜそのような!」

 ミフネは苦虫を噛みつぶしたような顔になる。

 「言っちゃっていいですか?」

 アイシャはミフネの後ろでニヤニヤしている。

 いったいどんな汚い手を使ったのだろうか。人徳がなくても、他人の弱みを握っていればなんとかなるときもある、という最悪の教訓を、アイシャはおれに与えてくれた。

 「ナジェ、これは命令である」

 ナジェは不審そうな顔をしながらも、ウォーハンマーをミフネに渡した。

 「アレもだ。このコボルトはカタナを使う。斬撃耐性が必要だ」

 「わかっております」

 ナジェは口のひろい大きなビンのようなものを、荷物からとりだした。



 「……事情はよくわからないが」

 シンはミフネを敵と見なしたようだった。

 「……いいのかな?」

 シンはじわじわ動いて、ミフネとの距離を調節している。カタナの先がぎらりと光る。どうやら、ミフネから見て逆光になるように立ち位置を変えているようだ。抜け目がない。

 「弱いやつが相手だったら、おれも手加減はできるけどな、腕が立つやつが相手だと、そうもいかねえ。斬るよ」

 「お前こそ、いいのか?」

 ミフネはおだやかな口調で言う。

 「時間を相手に与えていいのか? 殺すなら早くかかってきたらどうだ?」

 「おれは辻斬りじゃねえ。構えてないやつに斬りかかったりはしねえよ」

 「怖いんじゃないのか?」

 「ぐっ」

 「おい同族、やめとけやめとけ」

 クムクムがシンに呼びかける。

 「こいつ、超強いぞ」

 「何だと……」

 「お前も聞いてただろう。ミフネは……このダークエルフは、その辺の破落戸とは違うぞ。やめとけ。死ぬぞ」

 シンはムッとした表情をする。

 「コボルトはコボルトにウソはつかん。同族のよしみで言うが、やめとけ」

 「……そうもいかねえよ」

 シンは少しだけ迷った様子を見せてから、やはり戦いを選んだようであった。

 「いい度胸だな。褒めてやる」

 ミフネは淡々と言う。

 「……約束してやろう。どんな形であれ、貴様が勝ったら、アイシャは……このウッドエルフはお前にやる。奪った物も含めてな。好きにしていい。なぐさみものにするなり、娼館に売るなり、好きにしろ」

 「ひええええー!」

 アイシャがミフネの後ろで悲鳴をあげる。

 「ひどくないですか?」

 アイシャは同意を求めるようにこっちを見る。

 「こっち見んな!」

 「なんで、ちょっとイカサマしてこの隊商宿を乗っ取って、もとの主人を毒針でブッ刺したぐらいで、そんなぐっちょんぐっちょんの扱いを受けなくてはいけないのですか!」

 「もういいアイシャ黙れ!」

 「コボルト、覚悟はいいか?」

 ミフネは言った。

 ナジェが先ほどとりだした容器のフタを開けた。

 「失礼します」

 そう言いながら、ナジェはその中身をミフネの頭にかけた。

 それは透明な液体だった。水ではない。粘性があるようで、するすると糸を引くようにミフネの頭にたれていく。

 油だろうか?

 いや、たしかに油のようだが、それにしても妙にヌルヌルしていそうである。

 ナジェは手慣れた動作で、ミフネの全身にその油のようなものを塗りつけていく。その光景はなにかに似ていた。

 ダークエルフのミフネは、いわゆるビキニアーマーを着ている。露出度がメチャクチャ高い、そもそも鎧としてどうかという外見のやつである。

 ねろねろの液体におおわれたミフネの肌は、ギトギトと油っぽく光っている。

 ただでさえ痴女っぽい格好であるのに、全身がヌルヌルベトベトになったせいで、もう性的としか言いようがない。

 あ、あれだ。

 思い出した。

 その液体が似ているもの。

 油っていうか……。

 ローション。

 うん、ローションだ。化粧品のローションじゃない方のローション。

 「さて……」

 ナジェが鎖をとりだし、ミフネの手甲とウォーハンマーを手早くつなげる。

 全身ヌルヌルの状態になったミフネは、武器をかまえて立ち上がる。

 「……はじめるか。死を与えてやる」

 シンは構えを上段から中段に変えた。

 「びびっているのか? 来い」

 シンは動かない。

 「ダークエルフアーマーと戦うのは初めてか? 絶望的だぞ、それは……」

 ミフネのほうからシンに距離を詰めていく。

 全身ヌルヌルだが、彼女は普通に歩いていく。鎧のブーツにスパイクのようなものがついているようだ。

 


 始めにしかけたのはミフネった。

 彼女は片手で、軽々とハンマーを振り抜いた。

 シンはそれをよけた。

 ハンマーが空を切る音がここまで聞こえる。

 いっぽう、シンは攻撃をよけながら、ミフネのふところにもぐりこんでいた。

 「危ない!」

 シンのカタナが、ミフネの胴をなぐ。

 おれは思わず目をおおった。ほとんど防具を着けていないミフネの胴に、カタナの一撃が炸裂するそう思った。

 もちろん、ミフネはよけようとする。上体をブリッジのように反らし、後ろに倒れこむ。しかし、カタナの動く経路から完全に逃れられるほどではない。

 シンはカタナを振りぬく。

 


 おれはおそるおそる、目をおおう手をはずした。

 意外な光景が目の前にあった。

 「……くそッ」

 シンが後退していた。ミフネから大きく飛びのいて距離をとっている。

 「マジかよ……オレとしたことが」

 彼は血を流していた。肩口のあたりの毛に赤いものが広がっている。

 それほど重傷でもなさそうだが、シンはひどく慌てているようだ。

 「くそ、しゃあねえな……」

 シンは自分の肩口にカタナを当て、目を閉じてすうっと引く。

 「ぐうっ……」

 シンはうめき、歯をくいしばって肩口をつかむ。

 彼の出血が激しくなる、血をしぼり出しているようだ。

 「お、手練れだのう」

 クムクムは感心したようにシンを見る。

 「すぐに毒だと判断して、血を抜いた」

 「毒?」

 クムクムはミフネを指さす。

 ミフネのブーツの先から、刃物が飛びだしている。

 初めて会った時に見たことがあった。ミフネがブーツに仕込んでいたものだ。いわゆる暗器であった。そういえば毒を塗っていた。

 「ふつう、ダークエルフは武器を隠さない。それから武器に毒は塗らない。それらは不名誉につながると考えているものが多い。ウッドエルフが毒と小型武器を好んで使うから、それへの反発心もあるみたいだ」

 クムクムはシンを指さす。

 「だから、ダークエルフと戦うときに毒を恐れるものは少ない。だが、あの男はすぐに毒で攻撃されたことを理解して、血を抜いた。あの状況での動きでは最適解だ。あれで、やつがそうとうの使い手だとわかる。だが……」

 「あー……くそ……くっそ……」

 シンはそのままひざまづき、地面にくずれ落ちる。

 「ふん。もう終わりか」

 ミフネの声がする。

 ミフネは生きていた。しかも無傷だった。

 「あー……きわどかった。ギリギリだったな」

 ミフネは、いわゆるブリッジのかっこうをしていた。全身がベトベトでビキニアーマーでブリッジなので、そうとういかがわしい外見である。

 驚いたことに、その身体には傷ひとつない。

 「え、なんで斬れてないの?」



 「……液体の被膜による防御だね」

 エコー先生がこっちに来て言った。

 「たしかに、鋭利な刃物には有効かもしれないね」

 「どういうことですか?」

 「カミソリみたいな鋭い刃物の表面は、まっすぐに見えても、拡大してみると、実はミクロのレベルではノコギリのようになっている。だから、油みたいなものがつくと、ノコギリの目が埋まるような効果が発生して切断力が落ちる」

 「むずかしい話ですね」

 おれはエコー先生の話がまったくわからなかった。

 「もっと簡単に説明してください!」

 「カミソリでヒゲをそるとき、そのまま刃を当てると皮膚が切れて血まみれになるが、石けんをつけるだけで切れにくくなるだろ」

 「あー」

 「ようするに摩擦の問題だ。ノコギリにおがくずがくっついて切れにくくなるのと同じ現象がミクロで起こっている」

 「そうそう。そうなんですよね」

 諸悪の根源であるアイシャがこっちに歩いてくる。

 「死体を解剖するときも、脂肪が刃物につくと切れ味が落ちちゃうんです」

 アイシャは楽しそうに死体解剖について話す。

 「だから死体をバラバラにするときなんかは、肉包丁みたいな刃先に工夫された刃物を使わないとやりづらいんですよねー」

 「楽しそうに解剖の話するなよ」

 「軟体生物には、攻撃を受けると粘液を放出して身を守るものがいる。ナメクジとかね」

 エコー先生はミフネを見た。

 「ナメクジって……」

 「そうバカにしたもんじゃない。ぼくたちのいた世界でも、身体にオイルを塗って戦う格闘技がたくさんあるだろう。ムエタイだってそうだし、オイルレスリングはヨーロッパ大陸では古くからある」

 「なるほど……」

 そういえば、もとの世界で、格闘技が好きな知人がそういう話をしていた。

 身体に油をぬるメリットは大きいという。

 たとえば相手につかまれにくくなる。相手に身体の一部をつかまれるのは格闘では危険なので、それだけでも意味があるという。

 それから、攻撃が身体の上をすべって芯をはずしやすくなるという。

 それから、身体がテカテカしてリング上で見栄えがするという。ワセリンを塗った筋肉の美しさについてその知人は半日ほど熱く語っていた。

 「ダークエルフのあの防御用オイル、すごいんですよ」

 アイシャが言う。

 「ただの油じゃなくて、血管を縮める薬草とかが入ってます。負傷しても、傷口に油が作用して出血を止めます。ウッドエルフの薬草知識を応用したのです」

 「そう……これが」

 ミフネは起きあがって、布で身体をふいている。

 「お前がビキニアーマーと呼んでいるものの正しい使い方だ」

 全身ヌルヌルローションプレイ状態のミフネさん、ドヤ顔であった。

 「防御用のオイルを塗るのが前提の装備だ。おまえも刃物で襲われたら、服を脱いで油をかぶれ、それだけで傷が浅くなるぞ。まあ、死ぬときは死ぬがな」



 いっぽう、シンのほうは完全にうごけなくなっている。

 「コボルトは毒には弱い……身体が小さいからな」

 クムクムが彼を見ていう。

 「血の量が少ないからな、同じ量の毒が身体に入っても、何倍も効いてしまう。もういいだろう。ミフネ。こいつを殺したってどうにもならないだろう。こっちが悪いんだし……」

 「よかろう」

 クムクムはシンを抱きあげてこっちに運んでくる。

 「エコー先生、彼を見てやってくれ」

 「わかった。……脈拍が安定してないな」

 シンは苦しそうにうめいている。いちおう息はあるようだ。

 エコー先生は彼の肩についた毒をなめる。

 「これならリドカインがあれば……この世界にはそんなものないな。いちおう訊くが、きみのいた世界から薬とか持ってきてないよね?」

 エコー先生はおれを見る。

 そう、おれはいちおう異世界から来たのだ。

 「ジャガイモとダクトテープしか……」

 おれは言った。

 「全裸でこの世界に来たので」

 「……いちおう訊いただけだ。どうしようかな……何か使えるものは……せめてカリウムを補給しないと」

 エコー先生は使える薬品が少ないと以前ぼやいていた。よくわからないが、たしかに大変そうであった。

 「えー、助けるんですか?」

 アイシャは首をかしげる。

 「いちおう、解毒剤はありますよ。解毒剤というか、別の毒ですが、いっしょにすると中和します」

 アイシャは小さな小ビンをとりだす。

 「いくらで買います?」

 「いい加減にしろっ!」

 クムクムが小ビンを奪いとってエコー先生にわたす。

 「今回はお前が全部悪い! ていっ!」

 「ぐはっ」

 「ていっ、ていっ」

 「ぐはっ、ぐはっ」

 クムクムの拳がアイシャに叩き込まれる。

 すごい、パンチがまったく見えない。

 アイシャはあっというまにノックダウンされた。

 「まったく、わたしが非力な魔法使いでよかったな。でなければ、殺しておった」

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