4話 暗室

 暗室の中は独特の酢酸めいたにおいと、赤暗い沈黙に支配されているのだが、兎にとってはもう慣れたモノで、ついついと手際よく作業が進められていく。

 なにせ、一秒のずれが生じればそれだけで写真の仕上がりに天と地ほどの差が出る作業である。


 けれど兎にとって写真は、今や自分で眺めるためのモノでしか無く、たとい唯一の友人である蛙にソレを見せた所で、吐瀉吐瀉と鳴かれてしまうのが関の山だろう。


 ネガの現像を終え、乾燥させる。

 隣にもずらりと、これまでのフィルムがつるされている。


 兎はその中の一つへ適当に手を伸ばすと、印画紙に光を焼き付け、現像液につける。

 この瞬間が、兎にとってはどれだけ回数を重ねようが変わらない、一種の快楽の時であった。


 何もない白い紙に徐々に浮かぶ切り取られた白黒の景色。

 それは花であったり、月であったり、木々であったり、蛙であったり、意識して撮ったモノから無意識に撮っていたモノまで、それぞれの瞬間が、克明に映し出されるのである。


 適当に手にした写真は類に漏れず、月の写真であった。

 白と黒で構成された、月。


 一枚では飽き足らず、二枚、三枚と月のネガを選び、印刷。

 やはりどれも平凡で平坦ではあるが、それぞれに趣を変え、兎の前に姿を現す写真たち。


 兎はついと老眼鏡に手を伸ばし、乾かしている最中の月を、舐めるように見つめる。

 なにせ兎には、もう、コレしかないのである。

 武器は小さな写真機と、自らが切り取った月の姿見。

 こうして拙い手で切り取った月の写真から、わずかでも手がかりを探すより他にないのである。

 月へと至るわずかな痕跡を。道のりを、小さな穴を。


 けれど、兎はそこからは何も見つけることができない。

 その後も数枚印刷をし、部屋につるし、赤目がちな目をさらに真赤まあかにして。


 それでも、月は変わらず一瞬の隙も見せず、いや、むしろ兎を嘲笑うかのような、それとも慈愛するかのような穏やかな瞳で、小さな紙面の中、静かに納まっているのである。


 やがて、大抵の場合そうであるように、兎もまたどこか不思議なくらいの疲労を感じ、ああ、今日はこれまでかと呟くと、小さく寝息を立て始めるのであった。


 赤暗い部屋の中には白黒の、嘲笑うような、慈しむような瞳の月が、いくつもいくつもつるされていた。

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