コラージュ

々々

1話 反逆

 兎は老兎であり、老兎であるからには足を痛めていて、当然、写真家であった。


 足を引き摺るようになってどれほどの時間が経ったのか、兎はよく覚えていない。


 けれどその足で二度と、あの頃のように、鮫の背中を走り回るようなやんちゃもできなければ鳥のように自由に空を跳び回ることができないことも知っていた。


 なんてことはない。

 これまでの兎たちがそうであったように、やはりこの老いた兎も、歳には。積み重ねられた年月には勝てなかったというまでのことだ。


 兎は別段そのことを、悔やんでも恨んでもいなかった。

 いや、兎にとっては、悔やむことでも恨むことでも、そもそもなかった。


 兎は老兎であり、老兎であるからには自分もまた自然の一部であることを理解していて、今はただただ流れる月日に身を預け、首から下げた黒く小さな写真機で、風景を切り取り続けているのだ。


 兎の写真の腕前は、実際の所、大したことはない。


 いや、むしろ、平凡な構図。ありきたりな題材。のっぺりとした色合い。いつも少しだけぶれる焦点。他にも数えあげればきりがないほど、一般的で、平凡で、特筆することもない、取るに足らないものであった。


 けれど、そんなことは兎にとってはさしたる問題ではなかった。


 兎は老兎であり、老兎であるからには視力も徐々に衰え、赤目がちのその瞳が写す世界は朧がかったような風合いになり、それもまた自然をとらえる兎の心持ちの一つに他ならないからである。


 加えて、今やこの地上には、兎の写真の出来などを気にする生物は、少なくとも兎の手の、目の、耳の届く範囲にはほとんどなく、唯一の友である蛙はただただ下戸下戸ゲコゲコと鳴くばかりで、鳴き声の如く下戸である蛙とは、酒を呑もうにも盛り上がらず、せめて大蛇うわばみさえこの地に残っていてくれさえすればと、一人哀しく盃を逆さにする毎日であった。


 つまり、兎は寝過ごしたのである。

 競い合う亀すらいないのにもかかわらず、哀れなる兎は老兎であり、老兎であるにも関わらず眠りが深く、この地を離れる箱舟に乗るたった一度の機会を寝過ごし、地上に残ったのである。


 いや、或いは、老い先長くない身を思い、自らの身よりも若い命を、先のある未来をと思い、潔く身を引いたのやもしれぬ。


 しかしその感情を忘れるほどの月日が経ち、その感情を忘れるほどは月日を生き、今はこうして、一人、写真機で世界を切り取り続けているのである。


 ずり、ずり、ずり。

 ずり、ずり、ずり。


 世界は相変わらずの夜であり、空には不気味なほどに青白い、大きな円を描(えが)く月が、天に開いた穴のようにぽっかりと、地上を照らしている。


 若かりし頃は美しく絹のようであった漆黒の毛皮の面影は最早なく、白髪が斑に交じり、毛並みも乱れ、引き摺る足には土が付き、けれどそのような瑣末な事象には目もくれず、兎は、ずり、ずり、ずり。と、歩みを進める。


 人が告げずとも、暦が読めなくとも、風が、川が、草が、土が、月が、自然が、兎に告げるのだ。

 時は近い。月は満ちる。

 餅をつけ。酒を盛れ。祭りの時だ。舞え。舞え。舞え。と。


 すなわち、中秋の名月である。


 そして、老兎は、足を引き摺り々々々々、写真機を片手に、一つの決意をするのである。


 月へ飛翔してみせようと。


 老いた足。老いた耳。老いた目。決して届くことのない月。


 けれど、兎は決意するのである。月へ飛翔してみせようと。


 この足で大地を蹴り、この耳で大気を裂く音を聞き、この目で月の地表を見てやろうと。


 或いは、本能のどこかが。自然の何かが兎に、次の中秋の名月が最期だと。もうそれほどにお前は老いているのだと、兎に語りかけているのやもしれぬ。

 けれど、その動機が何であれ、兎は決意をしたのだ。

 足を引き摺り、耳を垂れ下げ、赤目に映るその月がいくら霞んでいようとも。


 兎は老兎であり、老兎である前に、一匹の兎である。武器は、己の老体と、首から下げた黒く小さな写真機。


 よってこれは、兎による反逆史である。取り残された兎の、最後の意地なのだ。

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