こころの翼

夜薙煇

第1話

 君へ、届いているだろうか――


 その光景は、まどろんだ瞼の裏に広がる。

 春が近づいているのだろうか。

 遠く、西の山脈へ沈みゆく夕陽が白んでいる。黄金色の光の手を伸べ、宵闇に輪郭を暈す樹海を撫でて、白雪を湛える嶺の連なりを煌かせ、空を一時ばかり茜色に染めている。

 その遥か上方、藍の夜の下るふちに、黒い奇妙な影が漂う。

 天空をさまよう大地――かの遠い存在を、古の人々は<浮遊大陸(ゴウザ)>と呼んだ。

 その浮島の軌道は風に乗るでもなく惑い、地上の街や畑にうすい影を移ろわせていく。ちょうど上空の高みに迫れば、切り立った逆三角錐の岩盤を見せる。遠ざかれば、あのように空を濁す点となっている――

 だが、その瞬間。

 島の中心から、恐ろしく赤い、紅蓮の光輪が広がっていく。

 一瞬で、天空が燃え上がる。稲光のように幾度の明滅をともない、夕日を地の底へ墜とさんばかりに押し広がり、暮れゆく大地を深甚の赤に染め上げていく。

 音の絶えた光景に、浮島の影が砕けていく。周縁からずれ落ちる岩塊は漆黒の尾を引き、後を追うように天を下り、山並みの稜線の裏へ消えてのち、空の境を煙らせる。崩壊はその輪郭を縮めて岩盤を削ぎ落とし、いびつな巨塊を霰のごとく振り撒いていく。

 紅に焼けつくような空が、鉛色の粉塵にかき乱されていく。

 渦中に消えゆく浮島の縁に、小さな輝きが点った。

 薄桃色の光が水平に閃く。それは翼をかたどる。淡い光の両翼が、羽毛さえ散りそうに大気を打ち、降りしきる漆黒の流星の手を逃れるように、混濁する大気を切り裂き、大地を目がけて飛翔する。

 不意に、眼前を同じ色の幻が包む。

 温かいのか、熱いのか、心地よいのか、痛いのか――その感触を手繰り寄せようとする。

 それは夢なのか、記憶なのか。

 映像は、いつもそこで途絶えている。



 長く、はらはらと舞い降りる雪の合間に、煌々と白い光が差しこむ。

 そんな一日の始まりに僕が見上げたのは、衝き抜けるように高い青空だった。

 いつも太陽を覆い隠していた鉛色の雲の天井は、わずかな濁りも残さず流れ去っている。見渡せば、大地を這うように四方を囲う針葉樹の黒い森を除いては、ただ澄みきった青空がどこまでも、広がっているのだった。

 今朝までに降り積もった雪は、日差しに炙られて表面をわずかに溶かし、キラキラと鏡の粉をちりばめたように輝いている。そこへ毛皮のブーツを踏み出すと、身体がぐっと沈みこんだ。バランスを崩した僕が、思わず見つめた雪面の眩さに、音もなくふっと翳りが落ちる。

 視線を上げると、真っ白に照る太陽を背に、あまりにも暗い人影が立っていた。

 セイシェル伯母さんだ。

 長いなめし革のコートに包んだ身体は少女のように華奢で、全く着膨れして見えない。淡く白に近い金色の巻き毛は、ろくに手入れをしないせいでほつれて縮れ、その広がりを隠すように、貞淑な様子で一つに束ねられていた。

 彼女は四十にもならないのに、頬は蒼ざめて老人のようにこけ、瞼の下には濃い隈が浮いている。薄く強張った表情に唇は閉ざされたまま、眼差しは疎んじるように、あるいは白昼夢を見るように、いつも半ば伏せられている。

 それは何年来と変わらぬ姿だ。おぼろげな記憶の初めにある彼女は、丸みのある頬が薔薇色に染まる、美しい人だったというのに。

 セイシェルの二重瞼の間に、空色の瞳が現れる。その行方は僕の額を通りすぎ、背後の木の扉のあたりに留まった。厚みに乏しい唇がわずかに開いたが、何かを形作ることはなかった。

 ――セレニティス、起きたの。

 そう言いたかったのだろう。吐息だけが、かすかに白く煙った。

 僕は同じ色の瞳を上げて、彼女の双眸を窺おうとする。

 ――セイシェル、おはよう。

 そう、声にならない呟きを返す。視線が絡まることはない。

 彼女には、毎朝こうして違える眼差しの意図が、伝わっていても、いなくても、たぶんどちらでもよいのだろう。その足取りは、間近で僕を切り株のように避けて、雪に半ばまで埋もれた階段を一つ、二つと踏み、痩せた手が家の戸を引いた。その身幅ほどに開いた隙間が、外の寒気を吸って、こぼれた巻き毛の一筋を巻き上げる。

 僕は、半身に振り向いたまま、彼女の背を眺めていた。

 濃い褐色をした板壁に、同じ色の扉が溶ける。

 小さな音色だけが、耳に余韻をひいた。

 家の中に帽子を置いてきたが、戻ってはいけない気がした。僕は手袋を嵌めた両手をコートのポケットに押しこんで、無言で足を踏み出した。

 セイシェルは病気だ。どこか一箇所が悪いのではない。きっと心に穴が開いたから、風船のように身体が萎んでしまったのだろう。

 ――その原因は、僕だ。

 唯一の同居人である、僕のせい。

 氷を当てるような大気に浸されて、頬の表が痺れるように、凍てついていく。ちりちりと痛み始める耳を庇おうと、肩を縮め、俯きがちに髪を被せる。

 歩を進めるたび、靴の下で湿った雪が鳴いた。その音色を確かめるように歩いていると、不意に子供たちの歓声が、静寂に張りつめた鼓膜を打った。

 黒茶けた木造家屋の裏手から、小さな影が次から次へと雪道に飛び出してくる。ようやく走れるようになったおさない子は足を取られつつはしゃぎ声を上げ、最年長の子は僕と同じ年頃の十二、三歳で、肩越しに木彫りのソリの紐を引いている。

 彼らはコートの胴体が丸く着膨れ、首まで覆う毛編みの帽子の紐を前できちんと結び、よく似た姿の一団となって、新雪を蹴立てて駆けていく。笑顔の少女が、見送る僕に一瞥だけを残していった。

 頑丈な造りの家並みは、水をはじく黒い塗装を施され、雪景色に点々とつづく。その所在を頼りに、深く埋もれてしまった道を歩いていく。時おり鋭角の屋根から、雪の塊がすべり落ちて、傍らに砕けた。

 日は、じりじりと空を上る。

 村の東はずれの共同薪割り場に着くと、毛皮のコートを着込んだ二人の男が、鼻の頭を赤くして斧を振り上げ、打ち下ろしては高い音を響かせていた。

 手前は筒帽子からくすんだ金髪の先のはみ出している、知った顔の中年の男だった。彼はこちらに気づくと、肩口に振りかぶっていた刃物を脇に下ろし、上体を起こした。

 まるで、話しかけられるのが迷惑だと言わんばかりに。

 僕は視線を地面に落とし、短く会釈をした。表情はもう、薄氷の張るように凍りついていた。

「おい、村長さんとこの、温室に行こうぜ」

 中年の男が思い出したように大声を出す。いま一人の若者も、雪焼けした顔に青い眼を背ける。彼らは散らばった薪をぞんざいに束ねると、何事か話しながら村のほうへ戻っていった。心なしか、雪を強く踏みしめる足音が、遠ざかっていく。

 僕は腰をかがめて、放り出されたままの手斧の重みを拾い上げた。次に、屋根つきの端材置き場のむしろの下から、太めの枝をいくらか引き抜き、縦に安定するのを確かめて、一本を切り株の台座に据えた。

 一息ついて、ぎっと歯を喰いしばる。両手を振り上げ、先に重心の寄った斧を、枝の断面めがけて垂直に振り下ろす。木も凍るのだろうか。炭を打ち合わすような高い音が響きわたり、真っ二つに裂けた枝が左右に弾けとんだ。

 片手を伸ばして傍らから次の枝を取り、台座の上に立てる。突き刺さった斧の刃先を引き抜くと、また振り上げる。

 一定の間隔を刻んで、澄んだ音色が辺りに響いた。

 僕はしばし無心に、同じ手順を繰り返していた。

 やがて左右に散った枝の山を脇目に、朝にくべた薪の残りを思い浮かべていると、暇を持てあました思考が戻ってくる。

 薪割りを始めたのは六歳だった。僕はセイシェルに負けず肩幅は狭く痩せているが、六年もやっていれば、最中に考え事ができる程度には手馴れてくる。

 もし――もう少し成長して、体格が良くなって、手脚が伸びて筋肉もつけば、ずっと楽になるだろう。

 そうなれば、一度に割れる量も増えるだろうし、たくさん溜まれば、担いで近くの町に売りにいけるかもしれない――

 僕は枝の白い断面を見定めてから、ふと手を止めた。

 本当に、そんな日が来るだろうか?

 愚かな疑問なのだろう。だが、日々送る時間の流れは鈍く滞るようなのに、気がつけば数年も飛んでいるような心地がする。

 これが、僕の日常なのだろう。きっと、このまま春が来なくても不思議に思わないだろうし、たとえどんなに逞しく成長したとしても、周囲も僕も今と何一つ、変わらないのだろう――そんな気がしている。

 そして大きくなった頃、いつかまた、似たような疑問を覚えるのだろうか?

 遠くに、重みに耐えかねた枝が雪を蹴立てて、さらさらと降った。

 顔を上げれば、すぐ端から、押し迫るような針葉樹の森が広がっている。背の高いまっすぐな木々はみな末広がりの同じ姿を並べ、奥へ向かうにつれ褐色の幹の密度を増していく。枝に載せた雪の衣は、鴉の羽を結わえるような細い葉を押し潰し、枝という枝をしならせて、白、黒、白……と二色の層を幾重にも描いている。

 何かを追うように瞳を上げる。雪解けの露を結び、樹の頂は、輝いていた。

 その先端は、空へ吸い込まれている。

 光を孕んで鮮烈なまでに青く、澄みきって広がり、その窮みへと誘っていく。

 思わず閉じた瞼の裏にさえ、青は突き抜けていく。眩い日差しに射抜かれて、身体は光の一部に透けていくよう。思考の名残も意識と一緒に溶け、僕は、口ずさんでいた。

 La la……という発声を、一音、一音、高さを確かめるようにのせている。喉から浮かび上がるまま、それは一つの旋律をなしていく。

 気づけばHah Ah ……と、雄大な広がりを帯びている。

 胸を快い風が抜けていく。空気が振るえ、両腕を開けば、そのまま指先から大気に溶けていくような心地がして……

 木々の枝が鳴り、葉がさざめく。風が吹きはじめていた。

 不意に頬をかすめた一陣の冷気が、肌の感覚を取り戻させる。

 僕ははっと我に返り、緩んだ口元を両手できつく塞いだ。寒くもないのに身を縮めて、眼だけを動かして周囲を確かめ、首を竦めて、恐る恐る振り返る。

 人の気配が無いことを知って、ああ……と溜息を吐いた。そのまま膝から崩れ落ちそうだったが、僕は強張って立ち尽くし、後から込み上げる激しい震えに抗っていた。

 僕はまた――歌ってしまう。

 いったい、この衝動はどこから来るのだろう?

 僕は額を擦り、金髪の村人たちの顔を思い浮かべる。彼らの誰も、決して歌わない。

 忌まわしき<歌>。禁じられた行い。歌は禍を呼び起こす――

 それは、古の時代から広く大陸中に伝わる伝承で、耳にしたことのない者はいない。だから村人たちは歯切れよく、言葉を吐き出すように喋る。間違っても節などつくことがないように。

『黙れ。黙れ。歌うんじゃない!』

『お願い、もうやめて――わたしを困らせないで』

 罵声、悲鳴、怯え、落胆、不快、困惑……いつだったのか、幼い頃に聞いた言葉が、鼓膜に擦り込まれてなお疼きを上げる。

 ぐっと瞼を閉じれば、緊張し、爆発しそうな男女の声がこだまのように行きかう。それは暗闇の中に一人取り残されて、顔も見えぬ誰かに、あっちへ、こっちへと突き飛ばされるような心地がする。

 冷や水を浴びたような頭に、額は奇妙に火照り、小さな熾火を灯したような胸元を、指先が引っ掻いている。

 この気持ちは、どこへ行くのだろう――

 景色を取り戻すように、うっすらと開けた眼差しの間に、瞳が寄る辺を探す。

 森を拓いた雪原に、村の家々の屋根がぽつり、ぽつりと散らばる。森を越えた遠い西の彼方には、白銀の万年雪を湛える山脈が横たわり、南方へかけてぐるりと巡っている。

 そして、仰いだ南天の只中に、黒い浮島の影が留まっている。

 あの幻のような光景が、瞬きの狭間に甦る――

 昔、確かに空は赤く染まったのだという。だから、あれは記憶なのだろう。

 その後、遥か高みにあった<浮遊大陸>は明らかに下降をつづけ、太陽の軌道を外れて蝕も起こさなくなり、蛇行の果てに南方へ移った。

 大地という衣を剥ぎ落とし、小さな逆円錐となった島。

 その上空にいつも群がって、無数の鳥(アーセル)が乱れ飛んでいる。それは動物でなく、鳥の姿をして舞う薄桃色の光だ。頭は小さく尾は細長く、遠目には広げた翼ばかりが目立つ。普段は柔らかな桃色をしており、光の加減によって青緑、渋い藤色と微妙な風合いをまとう。太陽に透ければ、眩い金に輪郭をぼかす。それは真冬の凍える日に大気を漂う、微細な氷の粒が放つ煌きに似ていた。

 人の噂を聞けば、あの記憶の日以来、天空を群れ飛ぶ姿が目撃されるようになったのだという。

 鳥は禍を招く。人に大小の不幸をもたらす。

 なぜなら鳥が近づくと、禁じられたはずの歌が聞こえるからだ――

 どれだけきつく耳を塞いでも頭の中に響き、恐怖の余り気が狂った人もいるという。鳥の翼が掠めた土地は、竜巻に舐め尽くされたり、干ばつに見舞われたりして、打ち捨てられていくという。

 そして、僕がこの村にやってきた八年前のある日。

 村の入口で雪原に身を伏せた幼子の背に、あの鳥が翼を広げていたのだと、聞かされた。

 だから、僕は歌うのか――

 もうみなが自明のことと信じている。僕はあれに取り憑かれているのだと。

 ふいに、肌に冷たいものがとまる。雪だ。風に乗って、花びらのように儚い雪がちらほらと、流れていく。眼差しを伏せればつま先に、一片が届いて、水玉を結ぶ。

 今日は快晴だ、すぐに止むのだろう――とはいえ、気温は低い。耳は悴んだまま、汗をかいた身体に寒気を覚えて、僕は手早く薪を拾いはじめた。

 両手に持てるだけを荒縄で二束にして帰路につき、家の地下室に燃料分を積み上げる。再び村はずれの薪割り場へ行き、同じ作業に取りかかる。

 何度か往復を繰り返し、最後の木片を大きめの束に結びあわせる。ささくれた縄を両手につかんで持ち上げ、僕は歩きはじめた。

 日が高く昇るにつれ、雪はとけてぬかるんでいく。毛の裏打ちのあるブーツに水気が染みていく。足も冷え切った帰り道、僕は温い風を感じ、その出所を見やっていた。

 村の端にある、大きな建物――村長の温室だ。僕は横手に回ると、吸い寄せられるように壁に背をつけた。その温度を確かめて、ふっと溜息をついた。

『アハハハ……』

 誰がやったのか、近くの窓に隙間が開いており、そこから老若男女のにぎやかな談笑の声が漏れてくる。僕はにじりよって、中を窺った。顔に暖気が吹きつける。

 造りは人家と同じ木組みだが、内部は太い柱を配して、巨大な平屋根を支えている。

 みな自宅の雪下ろしも終わったのだろう。男連中は若村長を中心に昼間酒を酌み交わし、女は村長夫人を話し相手に囲んでいる。彼らの作る輪が不自然に隅に寄っているのは、中が一面の畑になっているせいだ。真冬だが順当に、等間隔に植えられた作物の青い葉が茂っている。

 そして中央の地面には、水溜りほどの広さを囲む柵があり、内にはごく薄い直方体をした石が据えられている。まるで夕陽のように輝く赤色を漲らせ、ガラスのように透明で、身体の芯に火をつけるような熱気を放っている。石の周囲を緩い風が取り巻いており、荒縄で柵の四方に繋ぎとめられた状態で、地面からわずかに浮き上がっていた。

 あれは<熱風石(コルディサイト)>――そこにあるだけで熱と風を帯びて光を放ち、自ら浮かびあがるという<浮揚力>を宿した、赤く透明な石だ。

 数百年前、南の果てで小さな欠片が発見されて以来、採取がつづけられている。それは複雑で激しい力の塊――その利用法は、生活から軍事にいたるまで、多岐に渡って開発されている。

 これまでは図鑑でしか見たことがなかった。

 だが数年前のこと、西の街に出ていた若村長が大枚をはたき、ついに<熱風石>を持ち帰ってきた。

 初めは都会の風習と奇異の眼差しを向け、恐る恐るだった村人たちも、しだいにその恩恵に気づき、胸を躍らせるようになった。今は、冬の晴れた日には、この温室に集まるのが習いになっている。

 彼らは目を細め、口を大きく開けて笑っている。誰か、外の村から嫁をもらったのだろうか、子供が産まれたのだろうか……見覚えのない顔も少し混じっていた。

 嬌声の流れ出る風に、白い吐息が重なった。僕は足元に置いた薪の束を握りなおし、再び帰路についた。

 地下の貯蔵庫に薪をしまって玄関の戸をくぐると、うっすらと冷えた空気が押し寄せる。手狭な居間に、一つある暖炉には小さな火だけが灯り、温もりは隙間風とないまぜになっていた。僕は暖炉に新たな薪を組み上げると、筒で息を吹き込んで、火勢を盛り返した。

 傍らでは、揺り椅子にゆったりと腰掛けたセイシェルが、膝の上で白い羊の毛の編み物をしていた。僕は濡れた服と靴を脱いで暖炉の前に吊り、脇に敷いた織物の上に腰をおろした。

 ようやく人心のつく温度が空気を介して伝わり、かじかんで感覚の失せた手足の指先を、ゆっくりと溶かしていった。

 ぱちり、と薪が爆ぜた。セイシェルの手元だけが動き、いつの間にか、毛糸が長い帯に変わっている。

 時は、空気とともに淀む。隙間風が吹きこめば、同じ場所を巡る。それは、僕にも彼女にもきっと同じで、けれども僕にはその感覚が――セイシェルと共有できる唯一のものであるような、そんな気がしていた。

 編み棒を操る彼女の手の向こう、壁際に色褪せた画布が上端を縫いとめられている。

 僕はぼんやり眺めて、傾いた首を据えた。

 昔、セイシェルが黒鉛で輪郭を取っただけというスケッチだが、いつも――胸の底に言い知れない細波を立てる。喉に息が滞って、幾度目かの瞬きの合間に、見入っていたことに気づく。

 それは幸せそうに厚い瞼を狭め、満面の笑みを浮かべる、少女のような女性の肖像。面長な顔にはっきりと刻まれた大きな目に、小さな鼻。ゆるやかにカールした長い髪。厚みのうすい唇。面影がセイシェルに似ているのは、彼女の妹だから――そして僕の母だから。そして、今は亡き人だ。

 覚えてもいない眼差しが、見つめ返して、捉えて、離さない。その輝きだすような瞳は、きっと僕やセイシェルのような空の色を映しているのだろう。

 胸の奥が、静かに波を打ち始める。じわりと熱を持つ感触は、鬱陶しいようで、もどかしい。だが心臓の拍動にのって、静かなざわめきを身体中に満たしていく。僕は、その気持ちの正体を掴めない。誰に尋ねるべくもない。

 暖炉の熱気に炙られて、片頬に痛みを感じる。僕は、ふうと息を流して、膝を引き寄せた。

 そして、絵の女性の隣に寄り添うようにいま一人、描きこまれているはずなのだ。

 癖のない長い髪の誰か――だが、太い黒鉛で無造作に塗り潰されている。線の合間に輪郭をたどれば、男だということはわかる。それだけだった。母はなぜ死んだのか。隣にいる男は誰なのか。

 セイシェルは答えなかった。答える暇もなかったのだ――母を亡くした後、引き取って育ててくれたセイシェルに、僕は十分な不幸を招いた。

 そもそもが鳥といういわくを背負ってこの村に現れた僕は、彼女にとってどれだけ手に負えない存在だったろう。挙句、分別の無かった幼い僕は、時おり気の向くままに、家の隙間から歌声を響かせた。

 お願い、静かにして――とセイシェルは怒り、時に涙を浮かべて僕をたしなめた。

 だが、噂は小さな村中を駆け巡り、彼女はたぶん、それまでに築いた若くて綺麗で、愛想がよくて、絵がうまい娘――という立場を全部失った。

 それでも彼女はまだ、気丈で溌溂とした女性だったはずだ。行商人から次々に本を買っては売り、また新しい本を買って、僕の頭に言葉や絵や、ほかの事を詰め込もうとした。どんなに疲れているようでも、けっして、厳しく教えることをやめなかったのだ。

 それが途切れたのは、いつだったろう――思い当たる答えは一つしかない。

 僕が彼女のもとに来てしばらく経った頃、誰かがこの家を訪れた。

 僕は部屋を出ることを許されなかった。ずっと静かで、滅多な物音もしなかった。だが訪問者が去った直後、セイシェルは烈火のごとく怒り狂い、普段はしないのに手当たり次第に家具を引き倒し、物を壁に投げつけ、掛け布を引きちぎった。その時に壁の絵も塗り潰したはずだ。

 顔をくしゃくしゃにして喚き散らす彼女の前に、僕は踏み出した。

『悲しいの?』

 そう訊いた。なぜ、僕はそんな事を言ったのか――途端、彼女の顔から表情が抜け落ち、みるみるうちに血の気が引いた。

 それからだ。彼女は少しずつ、萎んでいく。言葉数が減り、よそよそしくなって、自分の事もうわの空になっていった。畑仕事も羊の世話も手につかなくなってからは、見兼ねた村長の弟が――むかし彼女に気があったという――麦や乳、干し肉を差し入れてくれている。

 彼女はそれをただ受け取ることはせず、生活のほとんどを編み物に費やして、彼にセーターや靴下などわずかな品物を納めている。

 僕もまた分別がつき、誰とも話さなくなった頃には、なぜ僕の白金の髪は母やセイシェルのように巻いてはいないのだろう――と、尋ねるのをやめていた。あのソリはどんな乗り心地がするのだろう――とか、日々に些細な疑問を覚えても、白いままに層を成して降り積もっていく。絵の中の二人に対する疑問も、幼い頃の記憶とともに、もうどこか手のつけられない場所に埋もれてしまった。

 相変わらず、冷えた隙間風は身を驚かせる。薄っぺらな画布がふわりと浮いて、僕は胸元に手を運んだ。確かな拍動が、伝わる。それは僕の意識をはなれて熱を帯び、波を刻みつづける。

 鎮まれ。緩やかに繰り返す呼吸のように、平穏が戻ればいい。

 彼女が教えてくれるように――

 僕は揺り椅子に眠るように目を伏せてもたれる、セイシェルを見つめた。その手元ばかり小刻みに動く。

 ――もしも――

 暖炉の熱気が届くのか、視界が不確かに揺らぐ。

 ――いつか彼女に、小さな<熱風石>を買ってやれたらいいな……

 僕は瞼を落とした。


 そのとき村の上空には、複雑に入り組んだ西南の山脈を越え、東部大森林めがけて低空飛行で前進する小型熱気船団の一隻が、まさに辿りつこうとしていた。

 最初に抜きん出た高速で飛来する黒い影を見定めたのは、村の外で、無邪気な遊びに興じていた子供たちだった。彼らが駆け戻って大人たちに報せるころには、すでに屋外で作業していた数名が愕然と空を見上げ、粒のような影が球体の輪郭も露わに接近するのを、ただ見守っていた。

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