偽物の勇者と偽物の魔王

しび

プロローグ ヴァージニア・アップルガース

 ひとつ、溜め息。

 ヴァージニア・アップルガースは辟易としていた。

 夜空に浮かぶ真っ白な月。

 その月面には、このランドヴァースを創造した神々が住まうという宮殿があって、いつでもどこでも我らを見守ってくださっている。

 ――そんなおとぎ話なり神話なりを両親のみならず、村の大人たちから教えられて真っ直ぐに育ったはずの彼女が、この世に神様なんていないと早々に諦観してしまうまで半年と掛からなかった。

「ああ……」

 腰にぶら下げた銀の長剣。愛用している白銀のブレストプレート。邪魔にならないように纏め上げたブロンドの髪。ひとつひとつ点検を行いながら、に近付く。

 内臓という内臓が裏返ってしまいそうな気持ちの悪さに耐えようとするも、いつまで経っても慣れることのない嫌悪感から吐き気を催してしまう。

 腐乱が始まっていた死体に子犬程度の低級な魔物どもが群がって、その死肉を貪っている。そのこと自体は不幸だと思うけれど、まこと残念ながら一歩でも街や村の外――人間の生活圏外においては、さほど珍しいことではない。魔王に操られた魔物が闊歩する領域を侵そうとすることのほうが愚かだと、誰もがそう思うだけのことだ。

「退いて!」

 とにかく、この程度であれば、剣を使うまでもない。獣とはいえ、目敏く弁えた魔物は目の前のごちそうを前にしても早々逃げ出したが、向かって来るものもやっぱり何匹かはいた。憂さを晴らすようにといえば、八つ当たりには近いのだけれど、文字通り蹴散らして、死体に近付く。

 奴らが食い散らしかけていたせいで、その損傷は激しいものだった。更に独特の据えた臭いが鼻を付く。そもそも正視出来ないし、出来れば今すぐここから立ち去りたい気分なのだが、多分、というよりも絶対に、今自分が投げ出してしまったらこの人はこのまま葬られることもなく、誰からも忘れ去られてしまう。

 そんな悲劇の上塗り回避という使命感だけが彼女を動かしていた。

「やっぱり……」

 あった。

 幸いにも損傷軽微だった左手首に痣を見つけた。

 痣といっても生前この彼――服装からしてそうだろう、多分――が負傷した跡とかそういったものではなく、どちらかといえば、タトゥーに近いものだった。槍を模した塔と狼のような獣を象った白き紋章だ。

 それは、ランドヴァースにおける【勇者】たる証。

 勇者とは、勇気ある者のことである。人々に認められた英雄である。あるいは、それが一般大衆の幸せのための犠牲者である。なんていうのは、今や昔。勇者が【勇者】と呼ばれる明確な根拠がこの紋章。

 誰がなんと言おうと、たとえ、生前誰からも見放された大悪党であったとしても、この朽ちた男性は【勇者】だったのだ。

 あるいは、世界から、俗世から切り離され、隔離された者だったのだ。

「どうしたの? ジニー」

 滅入りそうな気分もいい加減底に達しようとしたとき、親友であり奇跡たる癒しの施術を行使する僧侶でもあるパメラの声がした。

「パメラ」

 声にしてみて、もう、自分が泣く寸前であったことを理解するヴァージニア。パメラは数歩先にある遺体を一瞥し、表情を複雑に歪めながら、麻の買い物袋を揺らし駆け寄ってくる。

「あったの。白き紋章」

 生家があるミュニス村を追い立てられるように飛び出して、はや半年。人里離れた場所で見かけたのは、これで三人目。こうした【勇者】の成れの果てを。あるいは、近い将来の自分の姿を。

「やー。もうキツイすねー。色々と」

 ヴァージニアはパメラにしがみ付き、泣くまいと必死に嗚咽を堪える。

 でも、全ては無駄な抵抗で、決壊はそう遠くないと自覚はした。

「大丈夫。大丈夫だから……ジニーは、私が守るから」

 誇張された話ではなく、厳然たる事実。

 村を飛び出した際、この幼馴染みの少女パメラ・エウリカが付いて来てくれていなければ、世間知らずもいいところのヴァージニアはこの半年の間に朽ち果てていたはずだった。



「――落ち着いた?」

「ごめん。ありがとパメラ」

「どういたしまして」

 柔らかく微笑んだ彼女は麻袋の中から包み紙に包まれた丸い白パンと、皮製の水筒を取り出し手渡してくれる。まずは喉を潤すと、本当の意味で落ち着いた気がした。

 パメラにも手伝ってもらいながら、埋葬だけ済ませた【勇者】の墓が少し離れたところにある。墓石と言われなければ、何の変哲もない路傍の石だ。大変な使命感に駆られたところで、自分たちに出来る精一杯は本当にこの程度のもの。

 彼女が買ってきてくれた白パンを見下ろし、思う。あの【勇者】の彼が餓死でないことだけは祈るけれど、この地で力尽きる瞬間に感じたものは何だったのだろうか。

「あの、ジニー」

「ん」

「その、気分の悪くなる話かも、なんだけどね」

 聞き慣れた前置きに身が固くなる。

 話の続きは容易く想像が付いた。そして、その通りだった。

「パン買って来た、この先のセントヘレナ村のギルドで討伐レベル十八の依頼が出てて――」

「お断り」

「ジニー……」

 自分に良くしてくれる親友が悲しい表情を浮かべることには心も痛むが、それでもヴァージニアにとっては譲歩できない、譲歩する気もない類の話だ。

 ギルドに張り出される冒険者向けの依頼は概ねモンスター退治がほとんどだが、その際に付与される討伐レベルとは、人間の勝手な物差しによる目安のことだ。ただし、ここからがヴァージニアにとって面白い、もしくは面白くない話で、討伐レベルが十以下と、十一以上では全く意味合いが異なる。

 簡単に言うと、討伐レベルが十までの対象は、個体差はあるにせよ、先程の野犬のような低級な魔物から、せいぜいゴブリンやオークといった亜人族、ウェアウルフなどに代表される獣人族、いわゆるところの自然界の生物とひと括りにされるものに留まる。

 しかし十一を越えると、魔王の寵愛を受けた魔族や奇怪な魔法生物ゴーレム不死生物アンデッドがそこに加わり始めるのだが、それらは普通の人間――ここには、一般の冒険者も含まれる――には、傷ひとつ負わせることが出来ない。

 それらに対抗できるのは、白き紋章を持つ選ばれた人種【勇者】のみ。

 つまり、討伐レベル十一以上は十一であろうが十八であろうが、普通の人間にとってはさほど変わりのないもので、であり、先程埋葬を済ませた彼や、同種の紋章を左手首に抱えるヴァージニアだけが処理可能な依頼なのだが――

「絶対やーよ」

 もう人間なんて助けないと誓った。

 何に誓ったかは問題ではない。自分の心に誓ったのだ。

 討伐レベル十八なんて、上位魔族ジェネラルでも出張ってきたのだろうか。しかし、関係ない。だったら、村ごとあっさり滅びてしまえばいいとさえ思う。

「――パメラ。なんで、あの人、こんなところで死んでたの」

 こんなところとは、もちろん人里離れた山間ということでもあるが、それよりもパメラが食料を仕入れに行った村が目と鼻の先にある場所という意味合いが強い。

 そして、そんなことはパメラの口からわざわざ言わせるほどのことでもない。

「そのセントヘレナって村から追い出されたんじゃないの?」

 肯定こそしなかったが、パメラの表情が全てを物語っている。

 彼だってこんな辺鄙な場所で人生の最後を迎えたくはなかっただろうに。

「見たところ、死後数日って訳でもなかったし……ジェネラル級の魔族が現れて、あの【勇者】を追い出すんじゃなかった! って村中あたふたしてたんじゃないの」

 ヴァージニアが自虐にも似た笑みを漏らすと同時、パメラが困ったように苦笑を浮かべる。

「ジニー、なんで貴女はさも見てきたように言えるのかなぁ」

 まるっきり当てずっぽうという訳でもなかったけれど、でも容易に想像の付く光景だった。かつて、自分もやられたからだ。

 白き紋章を持つ【勇者】は、討伐レベル十一以上に指定される魔族に唯一対抗できる力を持つ者であると同時、様々なモンスターを惹きつけてしまうというを併せ持つ。ここに例外はない。

 その結果、どういうことが起こるのかというと、魔族が現れたときには「助けて、【勇者】様」なのだけれど、平時は門前払い、あるいは、食料等の補給だけさせて「早々にお引取りください」といった具合。それぞれの街や村で対応はまちまちだけれど、概ねそのような感じだ。

 そうして、故郷のミュニス村を追われたヴァージニアだが、この半年間、夜ベッドで眠った記憶は片手ほどもないし、食料の買い出しなど人里に用事があるときはパメラに任せきりで、こういった場所で息を潜めているのだった。

 村を出るとき、最後に見た両親の表情ももう思い出せない。

 親子三人で営んでいたりんご農園が酷く懐かしい。

(人間なんて勝手なモンだよ。分かってたことだけど)

 自分も含めて、だ。

 左手首――巻きつけた布で覆い隠す紋章を恨めしげに見つめる。

 ある日突然こいつが浮かび上がってきたからこんなことになった。こんなものが【勇者】の証だなんて最初に誰が言い出したのだろう。魔族に対抗できる唯一の手段として持て囃されるも、危機が去れば、人に在らざる異端な者として疎まれ、厄介払い。

(もう、疲れたな)

 こんな世界なんか、滅びてしまえばいいんだ。

 何も言わず抱き締めてくれる友人の腕の中で、ヴァージニア・アップルガースは意識を手放し、眠りに落ちていく。

 どろどろと生暖かい不快な悪夢の中を彷徨うに過ぎなかったこの半年。

 そこから彼女を救い上げてくれる黒き紋章を持った【魔王】たる少年との邂逅はもうすぐそこに。

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