第六章 出立の朝

第六章 出立の朝①



 ――四年前。まだ幼かった少女の心が、完全に折られたあの日。



 祭殿の各所につぎつぎと火の手が上がっていた。

 黒い煙を吐き、轟々と燃えさかる炎。混乱する衛兵たちの叫び声。


 この日、精霊王を祀る祭殿で、帝国を揺るがす大事件が起きていた。

 火の精霊姫が突然、反旗をひるがえし、祭殿から最強の炎精霊を奪ったのだ。


 帝国の精霊騎士などはまるで相手にならなかった。

 荒れ狂う最強の炎精霊が、巨大な炎の魔剣を振るい、立ちはだかる精霊たちをたやすく薙ぎ払っていった。


 渦巻く炎と黒煙の中を、少女は一人走っていた。

 寝所に詰めていた〈神儀院〉の姫巫女たちはみな、すでに外へ逃げ出していた。


 だが、少女が走っているのは逃げるためではない。

 を止めるためだ。

 姉のように慕い、心から尊敬していた先輩巫女――ルビア・エルステインを。


(なにかの間違いよ。ルビア様が、こんなこと――)


 少女は息を切らし、祭殿の入り口へたどり着いた。

 火の精霊姫は――そこにいた。


 逆巻く烈風に紅い髪をなびかせ、その手には燃え立つ緋焔の剣。

 夜闇の中、炎の明かりに照らされた彼女の顔は、凄絶なまでに美しかった。


「ルビア様……」


 少女は息を呑んだ。

 彼女を止めるためにやってきたのに――

 その凄まじいまでの殺気の前に、立っているのがやっとだった。


 けれど、少女は勇敢に声を振り絞った。

 自分が彼女を止めなくてはならない。それが王家に生まれた者の義務だ。


「邪魔を――するな」


 火の精霊姫が無感情な声で告げた。

 灼熱の炎を宿す紅玉の瞳が、目の前の少女を射貫くように見下ろした。


「いいえ、ルビア様。ここを通すわけには参りません」


 その目を気丈に睨み返し、少女は精霊語の召喚式サモナルを唱える。


 ――汝、人の子の王に仕えし剣聖の騎士よ!

 ――旧き血の契約に従い、我を守る剣となりて我が下に馳せ参じ給え!


 少女の契約精霊は、オルデシア王家に代々仕える高位の聖精霊だ。

 勝てないまでも、時間を稼ぐことくらいはできるはず――


 ――そう、思っていた。


 だが。


「邪魔をするなと言った」


 刹那。火の精霊姫が手にした緋焔の剣を振るった。

 一瞬だった。紅い斬閃が閃き、召喚された聖精霊が灼熱の劫火に包まれて消滅した。


「そ……んな……」


 すとん――と、少女はその場に膝からくずおれた。

 息が苦しい。

 喉がひきつって喘ぐことさえできない。


 万全の信頼をおいていた契約精霊。

 幼い頃からいつも少女を守ってくれた最強の騎士が、あっけなく消滅したのだ。


「い、いや、助け……て……お願い……」


 絶望的な恐怖が、自信に溢れていた少女の心を粉々に打ち砕いた。


 王族としての誇りを一切かなぐり捨て、少女はただ涙を流して懇願した。

 そこにいるのは帝国の第二王女でも、〈神儀院〉のエリート姫巫女でもない。


 ただの無力な少女だった。


 火の精霊姫が静かに腰をかがめた。

 それだけで、少女の全身が震えた。


「フィアナ・レイ・オルデシア――私の前に二度とあらわれるな」


 彼女は耳元でそう囁くと、燃え立つ炎の中へ消えていった。

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