第六章 真夜中の剣舞④




「……あ……ああ、あ……」


 地面に叩きつけられたクレアは、ひっと身をすくませた。

 異形の魔精霊が巨大な顎をギチギチと打ち鳴らす。

 嗤っているように――見えた。


 逃げようとするが、脚が震えて動かない。


 怖い。

 戦っているあいだは感覚が麻痺していた。

 でも、いまは――


「あ、あんたなんか、怖くないんだからっ、あ、あたしの下僕になりなさいよねっ!」


 その罵声に反応したわけでもないだろうが――宙に浮かぶ魔精霊が哄笑した。


 クレアは身を震わせ、思わず目を閉じた。

 歯の根が噛み合わない。

 得体の知れないものに対する本能的な恐怖が身体を縛っていた。


 ――と、そのときだ。

 クレアの手にしていた炎の鞭フレイムタンが、突然、消滅した。


 精霊魔装エレメンタルヴァッフェの展開を解除したわけではない。

 スカーレットがクレアの意思に逆らい、自発的に火猫の姿に戻ったのだ。


「スカーレット!? どうして……」


 クレアは、かすれた声でつぶやいた。

 自分は、とうとう契約精霊にも見放されてしまったのか――


 だが。

 炎を纏う火猫は低い唸りを上げると、地を蹴って飛びあがった。


「……っ!」

 

 その瞬間、クレアはようやく悟った。

 スカーレットは――


「だめっ――スカーレット!」


 絶叫のようなクレアの悲鳴が響きわたった。

 

 スカーレットは止まらない。

 凶暴に牙を剥き、魔精霊めがけて襲いかかる。


 鋼鉄さえも溶かす灼熱の炎。

 しかし、魔精霊には通用しなかった。


 刹那。魔精霊の歯が、スカーレットの胴体を容赦なく噛み砕く!


 断末魔の悲鳴が上がった。

 噛み砕かれた炎精霊が、渦を巻くように虚空に消滅する。


「……あ……スカーレッ……ト……」


 クレアは――全身の力が脱けたように、その場にへたりこんだ。


 理性では、逃げるべきだとわかっていた。

 スカーレットが作ってくれた最後のチャンスだということも。

 なのに、脚が小刻みに震えていた。立ち上がることさえできない。

 あまりにも深い絶望が、クレアの全身を麻痺させていた。


(あたしのせいで、スカーレットが……)


 焔の消えた虚ろな瞳に、涙があふれた。


(……あたし、ばかだ。カミトが止めてくれたのに)

(――勝てもしないのに、一人で突っ込んで)


 無様に敗北した。

 家族のように大切にしていた契約精霊も失った。


 魔精霊が、ガチガチと顎を鳴らしながら、ゆっくりと降りてくる。

 スカーレットを喰いちぎったばかりの、禍々しいその牙で――


「いや……だ……」


 涙が頬をつたう。

 喉の奥からひきつった声が洩れる。


「助けて……助けて――姉様!」


 絶望に目を閉じた、そのとき。


「クレアっ!」


 あいつの声が聞こえた。



     ◇



「おおおおおおおおおおっ!」


 雄叫びを上げながら、カミトは魔精霊に向かって突進した。

 右手に刻まれた精霊刻印が青白い輝きを放つ。

 

 ――冷徹なる鋼の女王、魔を滅する聖剣よ!

 ――いまここに鋼の剣となりて、我が手に力を!


 泥を跳ねあげ駆けながら、召喚式サモナルを詠唱する。


 手のひらに光の粒子が生まれ、剣の形に変化する――


 だが、これではだめだ。

 スカーレットほどの精霊を一撃で倒した魔精霊に、あんな短剣が通用するはずがない。


(――頼む、力を貸してくれよ、じゃじゃ馬精霊!)

(――俺は知ってるぞ、おまえの力はそんなもんじゃないだろ!)


 左手の傷が鋭く疼いた。


 まただ。開きかけた契約精霊との回路パスが閉ざされる――


 だが、カミトは構わずに、右手の精霊刻印に神威を流し込み続けた。


 強烈な過負荷。

 腕の神経に焼けるような激痛が走る。


(――すまない、。いま必要なのはおまえじゃない)


 そう――いま必要なのは過去ではない。

 いまここで、あいつを守るための力だ。


 右手の精霊刻印から激しい雷火がほとばしる。


 三年前のあの感覚がよみがえってくる。

 地面を蹴って加速するたび、全身の感覚が研ぎ澄まされていく。

 あの魔精霊の動きさえ、スローモーションのように見える。


(思いだせ、あの感覚だ――)


 相棒の闇精霊と共に舞った――剣舞ブレイドダンスの感覚。


(俺が――)


 カミトは、地を蹴って高く飛びあがった。



(俺が、最強の剣舞姫ブレイドダンサー――!)



 刹那。

 手のひらにひときわまばゆい閃光が生まれた。


 右手の精霊刻印から膨大な神威カムイがほとばしる。


 あの剣の封印精霊と回路パスが繋がったのだ!


 つぎの瞬間。カミトの手に、ひと振りの剣が握られていた。


 ヒトが振るうにはあまりに巨大な――〈魔王殺しの聖剣デモン・スレイヤー〉が。


 そして――


「――消え失せろ、顎野郎」


 振り下ろした鋼鉄の塊が、魔精霊の顎を粉々に粉砕した。



     ◇



 降りはじめた雨が、クレアの背中を濡らしていた。

 紅いツーテールは萎れ、素肌にぺったりとはりついている。


「クレア……」


 カミトは、地面にうずくまる彼女の背中に声をかけた。


「その……無事で、よかった」

「よく……ないわよ……」


 クレアは震える声でつぶやいた。


「あたしの……あたしの、スカーレットが……」


 振り返った紅い瞳に、涙のしずくが浮かんでいた。


「おまえ――」

「遅いのよ……ばか! あたしの契約精霊のくせに」

「ああ。悪かった……な」


 カミトは気まずく目を逸らした。


「どうしてよ」

「え?」

「あんた、そんな力があるのに、どうして最初から――」


 クレアはカミトの制服の襟をぐっと掴み――


「……」


 その手を、弱々しくおろした。


「……違う。


 ぽつり、とそんな声が洩れた。


「あたしが弱いから、スカーレットを守れなかった。あたしが弱いから――」


 ――姉様を、止めることができなかった。


「もっと、もっと、あたしに力があれば、こんな……」


 雨に打たれながら、クレアは虚ろな表情で繰り返す。


「おい、しっかりしろ!」


 カミトは、クレアの肩を掴もうとして――


(……あれ?)


 ふらっ、と身体が傾いた。


 視界が暗い。

 ……意識が急激に遠ざかっていく。


 どうやら、さっきの精霊魔装エレメンタルヴァッフェの一撃で、神威カムイを根こそぎ消耗したらしい。


(くそっ、なんて、燃費の悪い……精霊……だ……)


 胸中で毒づきながら、カミトは意識を失った。

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