第4話


 応接間に戻った途端、鋭い視線に貫かれた。

 毎日丁寧に磨いている本革のソファに、王様のようにふんぞり返ったマハが睨みつけてくる。

 非常に話しかけづらいが、仕方がない。

 ラシャは紙に書いてある文言を読み上げるかのように、とうとうと説明を始めた。


「申し訳ありませんが当家の主ガトゥールは、緊急の用向きのため、外出致しました。夕刻までには戻りますので、どうかお許しください」


 そんなことはどうでもいいとでも言いたげに、マハは軽く手を振り、ラシャの話を遮った。


「お前は使用人だったのか」

「そうですよ?」


 マハは気が抜けたように大きく息を吐くと、ソファに寄りかかり直し、頭の後ろで指を組んだ。


「あんまり堂々としていたから、この家の娘かと思った」

「えっ、そうですか……?」


 少しショックだ。そんなに尊大な態度を取っていただろうか。それとも図々しかったのか。


 ――もしかして、私、もうオバサンなのかな……。


 ふと不安になり、ラシャは部屋の隅に置かれた等身大の鏡をこっそり覗き見た。そこに映るのは二十歳の女に違いなかったが、疲れたような顔には、確かに少し若さが足りないかもしれない……。


「それで? 本物の娘はまだ来ないのか」

「あ、そうですね! 様子を見て参ります!」


 これ幸いと、ラシャは応接間をあとにした。

 ガヌドゥ家令嬢の私室は、屋敷二階の角にある。ノックをしてから扉を開けると、ラグスットは広い部屋の隅っこで、椅子に腰掛けていた。自分の部屋にいるにも関わらず、そわそわと落ち着かない様子だ。


「お嬢様」

「あ、ラシャ……」


 ラシャが声をかけると、ラグスットは顔を上げた。その表情が冴えないのも無理はない。彼女はこれから、なにもかも捨てて、駆け落ちしようというのだから。


「準備はお済みですね。たった今、旦那様はお出かけになりました。さあ、お早く!」


 ラシャはラグスットを椅子から立たせると、脇に置いてあった小さな手荷物を持たせてやった。


「ラシャ、私やっぱり……。みんなを置いてはいけないわ。迷惑をかけたくない……」


 ふんぎりがつかないのか、動きの鈍いラグスットに、ラシャは一通の封筒を差し出した。


「迷惑だなんて、誰も思いませんよ。はい、これ。使用人一同からのお祝いです」

「え……?」

「今回のこと、実はみんなに相談したんです。でね……。みんな賛同してくれました。これがその証」


 手渡された封筒をラグスットが開けると、中には一枚の書類が入っていた。文面を確認し、目を瞠るラグスットに、ラシャは微笑みながら念を押す。


「お店の名前は『プランラン』ですからね。間違えないでくださいね」

「ラシャ、これ……!」


 ラグスットに贈られたもの。渡された書類は「プランラン」という店の商品の引換券、その控えである。

「プランラン」は、この国の女性ならば知らぬ者はいないほどの有名なブティックだ。首都「ベンディジュアラ」の一等地に店を構える、高級店である。


「そこに、ジーンの知り合いが働いてるんですって。あなたの身長やサイズを知らせて、ウェディングドレスを用意してくれるよう早文を送りました。支払いは、みんなで出し合ったお金を送ったから、心配しないで。花婿さんの衣装も頼んでありますからね」

「ラシャ……!」

「指輪は、花婿さんに用意してくれるよう言ってあります。急いだだろうから、安物でも大きさが合わなくても、怒らないであげてくださいね」


 瞬きだけ繰り返して、言葉を発することができないラグスットの肩に、ラシャは手を置いた。


「あなたは今日、『プランラン』のウェディングドレスを着て、結婚式を挙げるの。首都『ベンディジュアラ』で」

「えっ……!」

「教会は来る者を拒みません。大々的な式はできなくても、神様の前で司祭様に認めてもらえば、それでもうあなたがたは夫婦ですから」


 ラシャはわずかに膝を屈めた。ラグスットは小柄だから、こうしないと目線が合わない。

 柔らかなウェーブを描く、肩まで伸びた髪。瞳はコーヒー色。

 幼いラグスットはこの大きな瞳をキラキラと輝かせ、ラシャのあとをついて回ったものだ。ラシャはそんな彼女が、可愛くて、愛しくて……。


「私たちのことは心配しないで。皆、腕に覚えのある者たちばかりですもの。万一この家がなくなったって、やっていけます。旦那様だって、結構しぶといお方ですわ。なんとかなります」


 ――私の、大切な「妹」。


「お嬢様は私たち使用人に良くしてくださった。――あなたはこの家の娘としての役割を、もう十分果たしました。あとはご自分の幸せのために、お生きなさい」


 ラグスットの柔らかな頬を手で包み込み、ラシャはいつもの頼もしい笑顔を浮かべた。


「これから先、色々と大変なこともあるでしょう。だけど、あなたの夫となる男性は、真面目な働き者だと聞きました。彼を信じて、支えてあげて。きっとあなたたちは、幸せになれるから」

「……ラシャ!」


 感極まったラグスットが、泣きながら抱きついてくる。ラシャは大事な妹分の細い体を抱き締めると、優しく背中を撫でた。





 裏庭ではラグスットの恋人である牧夫が、手筈どおりこっそり待機していた。ラシャは彼に、ラグスットを引き渡した。


「お気をつけて……!」

「ありがとう、ラシャ……!」

 

 ラグスットも牧夫も何度も何度もこちらを振り返り、やがて姿が小さく見えなくなっていく。ラシャは目に涙をためて、二人を見送った。

 ここまでは順調だ。しかし、油断は禁物である。

 気を引き締めて、応接間に戻ると――。


「遅い! 一体どういうことだ!」


 案の定、マハは苛立ちをあらわにしていた。

 大抵の商人は時間を無駄にするのを嫌うから、彼の態度にも納得できる。


「も、申し訳ございません……」


 それにしても、イライラと足を揺すり、悪態をつくマハの姿には、なかなかの迫力があった。ラシャはそんな彼を見て、小さな頃両親に連れて行ってもらった動物園の、トラを思い出した。

 不機嫌そうに唸っては、檻の向こうからこちらを威嚇していた猛獣。今のマハは、あの獣にそっくりだ。


「あの、ラスグット様は、ようやくお着替えが済んだとのことでして……。あとはお化粧をしてから、こちらにいらっしゃるそうです」

「どんだけ時間がかかるんだ! 舞台にでも立つつもりか!? ということは、まだ待たせる気なんだな!?」

「ええと、そうですね……。お嬢様は、少しのんびり屋でして……」

「く……!」


 マハの顔にさっと朱が走る。

 ――怒鳴られる。ラシャはぎゅっと目を瞑り、客人の厳しい叱責に耐える準備をした。が、しばらく経っても雷は落ちてこない。

 恐る恐る瞼を開けると、決まり悪そうな顔をしているマハと目が合った。


「お前に文句を言っても始まらんな。しかし、頭にくる!」

「…………」


 いっそ、当たり散らしてくれたほうが、気が楽だ。

 マハは優秀な商人らしいからそれなりに忙しいはずで、まさに「時は金なり」ということわざを体現する男だろう。そのような人物に、無意味な時間を使わせている――。

 報われればまだいいが、彼の花嫁になるはずだったラグスットは、ついさっき別の男と逃げてしまったのだ。


 ――私がしなければならないのは、ラグスット様が「ベンディジュアラ」で結婚式を挙げるまで――既成事実を作るまで、マハ・マカルカを足止めすること。


 使用人仲間たちとあれこれ計画を練っていたときは、ラグスットを幸せにするという使命感に燃えていたし、興奮もしていたから、深くは考えなかった。だが、いざ当のマハ・マカルカと接してみれば、彼を騙すのだという罪悪感が胸に迫ってきて、申し訳ない気持ちになってくる。


 ――マハ様も、ラグスット様と結婚できなかったら、ご家族に叱られたりするのかなあ……。


 だからといって、今更計画は変更できない。――マハには悪いが。

 うなだれたラシャの、頭から爪先までを、マハはじろじろと眺め回した。


「ったく、こちらとしては、嫁なんて、お前でも構わんのだがな。ガヌドゥの名前さえ持っていれば」

「お、お戯れを……」


 ラシャが愛想笑いを返すと、マハは更にずけずけと、突拍子もないことを言い出した。


「お前、うちに来ないか? 給料ははずむぞ」

「は?」

「よく見れば、なかなか可愛らしい顔をしているし……」


 そして、マハはまたあの値踏みするような目つきを、ラシャに向けた。

 妾にでもしようというのか。ラシャはかっとなり、声を荒げた。


「結構です! 私が体を売るような女に見えますか!? 冗談じゃないわ!」

「……?」


 ――しまった。

 言ったあとすぐに我に返り、ラシャの血の気は引いた。

 ラグスットが逃げおおせるまで、時間を稼ぐ。そのためには、なるべく穏便に対応するべきなのに。

 なぜだろう。この男の言葉だけは、うまくやり過ごすことができない。つい真に受けて、そしてムキになって答えてしまう。


「あ、す、すみません……」


 慌てて頭を下げるが、マハはきょとんと目を丸くしている。しばらくしてようやく合点がいったのか、あ、と彼は小さくつぶやいた。


「いや、その……そういう意味じゃない。いや、俺が悪かったんだな。お前を代わりに、なんて言ったから」


 マハは咳払いした。


「お前はすばしっこそうだし、頭も悪くない。その明るい色の髪も目を引くから、店の看板娘にもなるだろうし。あ、そういう扱いも嫌なら、撤回するが……。なんにしろ、気を悪くしたなら謝る」

「え……!」


 今度はラシャが理解する番だ。どうやらマハは、従業員だとか、あくまで仕事を手伝わせる目的でラシャを誘ったらしい。下半身の世話をさせようなんて、そんないかがわしいことは考えていなかったようだ。


 ――そんな誤解をする私のほうが、いやらしいわ……!


 大体、今をときめく大店の息子が、ただの使用人、しかも自分程度の女を妾にしようなんて思うはずがない。女なんて選び放題、よりどりみどりなのだろうから。

 ラシャの頭の中にひょいとジーンが現れて、「これだから高齢処女は妄想がひどくて困るわー」とバカにする。ぐうの音も出なかった。自惚れも甚だし過ぎる……。


「ごっ……! ごめんなさい、ごめんなさい!」


 恥ずかしくてじっとしていられず、ラシャはぺこぺこと何度も頭を下げた。


「お前は自分の能力に自信があるのだな。だからこそ、誤解とはいえ、俺の誘いについて、真っ向から怒ったのだろう」

「いえ、その、あの……! 本当にすみませんでした……!」


 ラシャはしどろもどろで詫びるが、マハは気にしていないようだ。


「お前はその若さでこの家を仕切っているようだし、ガトゥールにも頼りにされている。実力を自覚し、己を安売りしない。――俺は、そういう奴が好きだぞ」


 そう言って笑うマハの顔からはふてぶてしさが消え、歳相応に若く見える。突然心臓が早鐘を打ち、ラシャは慌てた。


 ――うわ、なに、これ……。


 あれほど嫌な奴だと思っていたのに、なんだろう、この胸の高なりは。


 ――落ち着かなければ。


 息を整えていると、ノックの音が聞こえた。扉を開けると、同僚のメイドがワゴンを携え、立っている。ラシャはワゴンを受け取ると、室内へ運んだ。

 運ばれてきたそれを見た途端、マハの顔からは笑顔が消えた。


「なんだ、それは」

「少し時間が早いですが、ご昼食をと思いまして」

「長丁場になるということか……。まあ、いい。確かに腹は減っている」


 マハが渋々承諾すると、ラシャは彼の目の前にあるローテーブルに、皿を並べ始めた。

 本日のメニューは五種類のカレーに無発酵のパン、窯焼きチキン、サラダとなっている。いずれもこの家の厨房を預かる、バフラの得意料理だ。


「ご説明させていただきます。カレーは、羊肉、牛肉、豚のひき肉を煮込んだもの。あとの二つは野菜を使ったものですが、それぞれ味つけを変えてあります。この窯焼きのチキンは、この辺りではお祝いごとの際に食べられる料理です。鶏肉をヨーグルトとスパイスに漬け込み、土窯で焼きました」

「ふむ、いい匂いだ。遠慮なくいただこう」


 マハは姿勢を正し、几帳面に頭を下げると、早速食事に取り掛かった。

 パンをちぎる長い指。素早く咀嚼しては、次々と食べ物を頬張る大きな口。じろじろ見ては失礼だとは思ったが、ラシャはマハから目が離せなかった。

 空腹だったのか、それとも若い男ならこれくらいは普通なのか、マハの食べっぷりときたら、ラシャの知る誰よりも勢いがあった。しかしあくまでも礼儀正しく、見苦しくない。


 ――よく食べるなあ。


 脇に控えているラシャの視線にも気づかず、マハは料理に夢中になっている。


「これ、美味いな! こんなに美味しい鶏料理を食べたのは、生まれて初めてだ!」

「……ありがとうございます」


 手放しの賞賛と無邪気な笑顔に釣られて、ラシャも微笑みを返す。

 仲間の仕事を褒められて、悪い気はしない。バフラの料理は、そのとおり天下一品なのだ。

 マハは他の皿についても、いちいち賛辞を送った。美味いとか、辛いのがいいとか、いくらでも食えるとか。

 マハだって金持ちなのだから、それなりに贅沢なものを食べているはずだ。しかし彼の口から出るコメントは、美食家の気取ったそれとはかけ離れていて、実に素朴だった。

 語彙こそ物足りないが、舌で感じたことをそのまま飾ることなく、率直に述べている。マハのそんな態度に、ラシャはかえって好感を持った。

 ――いや。マハに習って素直に平易な表現で述べるならば、「美味しい美味しいと言いながら、ぱくぱくご飯をがっつく男は、物凄く可愛い」と、こういうことだろう。


「おかわりもありますから、たくさん召し上がってくださいね」


 いつしかラシャは本来の目的を忘れ、次々と料理を胃に収めていくマハを、にこにこしながら見守っていた。

 給仕しただけの自分がこんなにも温かい気持ちになるのだから、料理を作った人間はさぞかし――。

 そう思っていたら、案の定だった。

 綺麗に空になった器を下げるため、ラシャが廊下に出ると、そこには瞳を潤ませたバフラが待ち構えていた。

 バフラはどうやらマハの食事の一部始終を、扉に耳をつけ、伺っていたらしい。


「……バフラ」


 ラシャが恐る恐る声をかけると、バフラは滂沱の涙を流し始めた。


「感動したよ、あたしゃあ!」


 目の前の老女は、そのまま踊り出しそうな勢いで叫んだ。


「旦那様を見てきたから、金持ちっていうのはいけすかない奴らばっかりだと思っていたけど、そうじゃないのもいるんだね! 美味しいものを美味しいと素直に言える! 知ったかぶりだったり、気取ったところがない! あの坊っちゃんは、いい子だよ、あんた!」

「ええと……。まあ、そうね……」


 マハは意外といい奴。ラシャもその点に異論はない。

 それにしても普段はドライな皮肉屋であるバフラが、こんなにも熱く感動しているなんて、予想外だった。この家の厨房で働くことで、よっぽどストレスをためていたのだろうか。

 確かにこの家の当主のために食事を作る日々は、シェフにとってさぞ張り合いがないことだろう。

 ガトゥールは、大変な偏食家で悪食なのだ。好物といったら、油たっぷり、砂糖たっぷり、塩気たっぷりのものばかり。バフラがいくら繊細な味つけを施しても、味が薄いと怒り出す始末である。ある意味、料理人泣かせな男なのだ。

 ラシャはワゴンを引きながら、バフラと廊下を歩いた。角を曲がり、玄関正面の大階段まで来る。


「ば、バフラ。あのね……?」


 黙ったままのバフラに不安を覚えて、ラシャはおずおずと声をかけた。途端、バフラは決然と顔を上げる。


「やっぱり、ラグお嬢様には、あの人と結婚してもらおう!」


 きっぱり言い放つと、バフラは来た道を戻り始めた。


「あの坊やが、新しい旦那様になるのならば……! あの子相手なら、料理のし甲斐があるってもんだ! 今ならまだ間に合う!」

「ちょ、ちょっと! 待って!」


 ――いけない!


 ラシャは慌てて追いかけるが、バフラは六十を越えた女性とは思えないほどの健脚だった。そこらの陸上選手顔負けである。

 だがラシャだって、足には自信がある。ワゴンを置いて走り出し、スタート時の遅れを取り戻してバフラの横に並ぶと、暴れ馬を落ち着かせるかのように、声を張って諭した。


「バフラの気持ちはすっごく分かるけど! ラグ様には、心に決めた方がいらっしゃるのよ!」

「!」


 バフラはぴたりと立ち止まり、塩をかけて揉んだ野菜のように、しなしなと萎れ始めた。


「そうだよね。そうだったよねえ……。肝心のラグお嬢様に、結婚のご意志がないんじゃねえ……」

「……バフラ」


 ラシャは一気に老け込んだ女シェフの背中を、ぽんと叩いた。


「悪かったねえ、ラシャ。私も耄碌したもんだ。分かっていたことなのに……。もうこんなわがままは言わないよ」


 力なく笑うと、バフラは大階段の近くへ引き返し、ラシャが置き去りにしたワゴンを引きつつ、トボトボと厨房へ戻って行った。

 いつもはしゃっきりと伸びた背が、丸まっている。

 ラシャは胸が痛くなった。





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