72

タロ犬

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「まー私、不老不死なんでね」

 ハナと名乗る少女の口癖はそれだ。なにかあるとそれで強引にまとめる。不老不死なんか全然関係ないことでもそれで乗り切る。使い方が雑だ。言うまでもないが、もとより不老不死というのは冗談だろう。周りはもちろん本気にしない。当然の反応だろうし、彼女もそれを気にしない。

 彼女の遊び仲間である安藤啓吾もまた、その言葉をいつもはいはいと受け流している一人だった。たしかにハナは変なやつだが、面白いし博識だし、なにより可愛い。一緒に遊んだりダベったりして楽しいか否か。啓吾にとって重要なのはそこであり、それだけが正義だ。問題なんかなんにもない。彼女の「設定」などたまに茶化すネタでしかない。


「そういやどうなの? 最近、婆ちゃんは」

 いつものごとく二人してファーストフード店でだらだら過ごしていると、向かいに座ったハナが思い出したように話をふってきた。片手でスマホをいじりながらの、いかにもな世間話。啓吾もまた意味もなく窓の外を眺めながら、いかにも他愛ない話題という調子で答える。

「あー……ヤバイんじゃねぇかなあ」

 これだけでは何の話かよくわからないので補足すると、婆ちゃんというのは安藤啓吾の母方の祖母であるところの安藤千代子のことであり、つまり介護施設で暮らしている彼女の調子はどうかという話だ。啓吾は話のネタとしてちょくちょく家族のことを話すので、ハナもそのことを覚えていたのだろう。そして返答は「ヤバイ」一言。

「ヤバイって、どうヤバイのさ」

「最近ますますボケが進んで、たまに家族の顔も忘れて若い頃に戻ったみたいなさ。よくあるじゃん、そういうの。退行現象っていうか。ヤバイよ、お迎えも近いっぽい。ほとんど寝たきりだし」

「……そっか。それは結構、ヤバイねえ」

 ヤバイはヤバイにしても他人事でしかないはずなのに、ハナはなぜか神妙な顔つきでそう返すと、しばらく黙りこんでしまう。啓吾もなんだか続ける言葉が浮かばず「うん、ヤバイ」とだけ返す。ヤバイ、という単語の頻出率だけなら間違いなく若者会話なのだが、それにしてもなんと辛気臭い内容なのか。横目でハナを見やると、どこか達観した表情で小さく頷いている。たまにこういう歳に似合わない顔をするよなあと思うが、そもそも不老不死という「設定」を除けば、彼女の年齢を啓吾は知らない。

「おまえさあ、ほんとのところ、幾つなんだよ」

「ん……言ってなかったっけ? 啓吾の何倍も生きてるって」

「だからその設定抜きで。マジな話。ハタチは超えてないよな?」

 啓吾のみたところ十五から十八といったところなのだが、とにかくこのハナという少女、得体が知れない。住所不定、職業不詳、本名不明。しかし身なりはいつも小奇麗だし、金に困っているような素振りもみたことがない。それで言ったら貧乏フリーターの啓吾のほうがよほど金には困っている。知り合いは多いらしく、しょっちゅう呼び出されては消える。どうもそれらの家を転々としているようなのだが、本当のところは何一つとして謎だった。

「まー私、不老不死なんでね」

 それほど真剣とも真面目ともとれない口調でハナは答えた。そして、ひとり小さく頷いたあと啓吾のほうに向き直り、いたずらっぽく問いかける。

「じゃあさ、啓吾には私が幾つにみえる?」

「なんだそれ。年増女のめんどくさい質問みたいなのやめろ」

「十六だよ」

 はじめから返答には期待していなかったのか、啓吾の言葉を完全に無視してハナは自ら回答を口にする。

 思ったより若いな、というのが率直な感想だった。外見はたしかにそれでも違和感ない。が、妙に大人びたところを度々みせるので、もっと上なのではないかという印象があった。それすらも「設定」の賜物なのか。つい品定めするような視線でハナを見つめたまま「マジで?」とだけ啓吾は返す。

 しかし続くハナの言葉。

「その年齢でとまってる。身体の変化はね」

 ため息が漏れた。結局またその設定かよ、と啓吾は思う。珍しく真面目に自分の話をするのかと思えばこれだ。一瞬でも本気にしたのが浅はかだったと、啓吾はむしろ自分を責めた。

「ま、そう思うのも仕方ないけど、もうちょっとだけ聞いてほしいな」

 どう思ったのかは丸わかりらしい。ハナはテーブルに放り出されたままになっている啓吾の煙草を勝手に拝借し火をつける。「おい未成年」と一応気のない注意だけして、それきりハナの動きを見つめる。いつものことだ。もとより啓吾は止める気もない。ハナは景気よく煙を吐き出して一言。

「相変わらず軽いね」

「未成年にはちょうどいいだろ」

 未成年にちょうどいい煙草ってなんだよ、と自分に突っ込みながら啓吾もまたそれに火をつける。マルメンてそんなに軽いか? と思うが、缶ピー吸ってるような奴にはそりゃ軽かろう。

「もう七十年以上前の話なんだけどさ」

「はあ?」

 唐突な切り出しに思わず間抜けな声が漏れるが、つまりは設定の話だろう。そういえば「不老不死だ」という言葉のほかに、具体的な話を聞くのは初めてだった。ちょっと興味がある。とりあえず聞いてみようと啓吾は黙って先をうながすが、なにを思ったかハナは難しい顔で黙る。やがて、

「なんていうか、最終的に信じなくてもいいけど、とりあえず今の間だけでも真面目に聞いてくれると嬉しい」

「……わかった」

 冗談で茶化す雰囲気ではないようだった。どういうつもりなのかはわからないが、ハナは真面目に話をしようとしている。それはわかった。そして、それさえわかれば十分だ。不老不死という突拍子もない言葉ではなく、ハナという友達の言葉を信じるのならば、まったく難しいことではないと、啓吾は思う。

「ありがとう」

 ハナが柔らかく微笑む。思わず、不覚にも、どきりとした。優しく包み込むような眼差し。名誉のために言っておく。ジャリがうわべで出せる雰囲気とは思えなかったのだ。断じて「十六かそこらの少女」にくらっときたのではない。誰にともなく啓吾は心のなかで弁解した。ロリコンじゃないぞ。たぶん。

「いいやつだね、啓吾は」

 いまだ優しく微笑みながら、ハナはまだまだ長い煙草を灰皿にぐいと押し込んで消した。啓吾は不自然に顔を背け、わざとらしく盛大に煙を吐き出す。あまりにもヘタクソな照れ隠しだった。小学生かよ、と自分で思う。

「で、七十年前になにがあったって?」

「私が、歳をとらなくなった」

「、いきなり核心かよ」

 ハナは、ふっとわずかに笑って「そんなのは、核心でもなんでもないよ」と呟く。

「さっき言ってた、十六ってのは?」

「それも本当。だからまあ、私が生まれて今年で、えーと……九十年はまだ経ってないかな」

「よくわからないけど、それって若いのか」

「若いよ、自分以外で不老不死の人に会ったことないけど。物語に出てくる不老不死ってだいたい齢千年を数える、みたいなのばっかだし、私とか若いにも程がある。百歳すら超えてない」

 力説はごもっともだが、不老不死なのであれば若いもクソもないような気もする。啓吾にとってみれば千歳も百歳も等しくババアだ。仮に本当の話だとすれば、ハナの中身は数字のうえではまごうことなきバ──そこまで想像して、なんだか頭が食あたりを起こしたような感覚にとらわれた。目の前の少女が急激に萎れていく様を幻視する。張りのある肌がドライフルーツのように──これ以上想像してはダメだ。精神衛生上よろしくない。いま目の前にいるのは、どう見ても年若き美少女だ。啓吾は自分に言い聞かせる。平静平静。

 気づくと、いつのまにか煙草の灰をテーブルに落としていた。慌てて灰皿にねじ込む。平静という言葉が空しい。ハナはわかりやすいジト目で指摘する。

「啓吾、なに想像してるか顔に書いてるよ」

「そうか。なら読むな」

「ごめん。もう読んだ」

「そうか。ならすまん」

「啓吾、私の顔をよく見てよ。どうみても年若き美少女だろ?」

「自分で言うなよ」

「これでも外見には、ちょっと自信があるんだけどな」

 それが自惚れでないのは、啓吾にもわかる。ハナは間違いなく整った顔立ちをしているし透き通るような肌は果実のようだし艶のある黒髪は芸術品のようだし──見すぎじゃないか自分?──すこし褒め過ぎかもしれないが、つまりは折り紙つきの美少女だということに疑いの余地はない。というより、そんなひと目でわかることを疑ってはいない。

 信じがたいことと言えば、やはり、

「でも、七十年以上、その姿のまま、なんだよな?」

「……まあね。いろいろあったよ」

 素っ気なく、一言「いろいろあった」とだけハナは言う。次の言葉があるのかと啓吾は待つが、どうもそれで終わりらしかった。少し拍子抜けする。ハナがその「いろいろ」をこそ話そうとしていたのかと勝手に思っていたのだ。七十年以上も同じ姿で老いもせず生きてきたのならば、そりゃあ「いろいろあった」に違いあるまい。到底そんな一言では表せない人生だったはずだ、と啓吾は思う。

 つい興味が声になる。

「不老不死で七十年も生きれば、いろんなことがあるんだろうな」

 言葉以上の深い意味はない。つもりだった。ただ率直な感想の発露。

 だがハナはしっかりと啓吾の眼を見据えて、穏やかに、はっかりとした声で言った。

「たとえ不老不死でない人だって、七十年も生きれば、いろんなことがあるよ」

 ともすれば静かな怒りにすら思えたその声に、啓吾は困惑する。そんなにマズいことを言ってしまったのだろうか。突っ込んで聞いたつもりはなかったが、話したがらないことを無理にせがんだように聞こえたのかもしれない。あるいは「いろいろあった」嫌な記憶を思い出させてしまったのか。

 言葉を選びかねている啓吾より先に、はっとした様子でハナがフォローを入れる。

「あ、ごめん。ちょっとビビった? べつに怒ってるわけじゃないよ」

「それなら、よかった。話したくないこととか無理に話さなくてもいいからな」

 ハナは笑って「言われなくても、話したくないことなんか話さない」そして、

「じゃ、話したいこと話っそかな。まー聞いててよ」

 その冗談めかした物言いのなかに、どこかしら真剣な含みが感じとれる。ここからが本題だ。そういう確信があった。啓吾は気持ちの襟を正す。真面目に聞いてくれと言われ、わかったと答えたのだ。どんな突拍子のない話でも、まずは受け止めようと心に決める。どんな内容なのか、なぜ自分なのか、それはわからない。ただ、そんな話をしようと思う程度には、ハナは自分を信頼してくれているのだ。そのことが少し嬉しかった。こっそりと深呼吸を終えた啓吾は、あらためて目の前の少女に向き直る。いつのまにかハナは頬杖をつきながら、外を行き交う人々をじっと見つめている。

 その眼差しの深さに、心のどこかに残っていた最後の尻込みがつい口から漏れた。

「その、俺も覚悟は決めたけど、えっと、」

「友達と喧嘩別れしたきりなんだ」




    ◆




 戦争がはじまる年の夏。馬鹿に暑い昼下がりだったのを、今でもよく憶えている。

 それは、彼女たちに永遠の命が提示された午後だ。


 ハナと彼女は幼なじみで、小さい頃からずっと一緒に過ごしてきた。正反対の性格、抜群の相性。勝手にそう思っていた。その日も女学校の帰りに買い食いを提案すると、真面目な彼女はいったん反対したものの、けっきょくは付き合ってくれた。いつもそうだ。仕方ないなというふうに、彼女は自分の我儘に付き合ってくれる。そして最後には二人で笑っているのだ。ずっと、そんな日々を生きれたらいいなと、ハナは思う。そんな日々が永遠ではないと知っているからこそ。

 軍靴の響く世相だけではない。たとえそんなものがなかったとしても、時の流れが、変わる環境が、彼女たちを彼女たちのままにはしておかないだろう。自分も彼女も歳を重ね出会いや別れを繰り返せば、やがて「いまこのとき」は取り戻せない日々になる。ハナたちだけではない、誰にだって言えたことだ。だけどそれがなんの気休めになるのか、とハナは思う。いつかこの日々を自分から取り上げてしまう「変化」が、「時の流れ」が、ハナには死神のようにさえ思えた。あと何度か夏が過ぎれば、彼女と蝉の声を聞くことも、買い食いも談笑も、下駄箱の手紙も、ぜんぶが二度と来ない過去になる。

 それを嘆いたところで、どうすることもできないけれど。


 そう思っていた。そう思っていたところに、不老不死がちらつかされた。

 偶然に迷い込んだ逃げ水のむこう、いつもの日差しではない場所で、それを問われる。

 誰に? 尋常ならざる存在としか言えない。今となってはそれが何者だったのかなど、どうでもいいことのように思う。不思議と恐怖も驚きも感じられなかった。ただその存在の言葉ばかりが頭に響く。永遠の命を望むか。

 なにかの罠ではないかと感じた。それを与えてくれる存在が神でも悪魔でも構わないが、なぜそんなものをくれるのか、なぜそれが自分たちなのか。さっぱりわからない。彼女を見やると、やはり難しい顔をしている。そりゃそうだ。ありえない状況、ありえない選択肢、ありえない運命。やはり突っぱねてしまおうか。何もなかったことにして、昨日までと同じように明日からも過ごそうか。一度はそう思う。

 しかし、

 しかしそれでいいのか。この選択肢が嘘偽りない本物の幸運だったとして、これを逃せば後の人生で同じ機会は二度とないだろう。これさえあれば自分たちは変化や時の流れから解放される。嘆いてもどうしようもないと思っていたことが、そうではなくなる。古来から数多の権力者が欲してきてやまなかったものが、権力もなければ有名でもない平凡な自分たちの前に転がっている。それをみすみす蹴り飛ばすという決断は、どうしようもなく難しいことのようにハナには思えた。

 ──手をのばそう。そう決めた瞬間、

「いらないです」

 迷いのない、はっきりとした声。

 彼女の声だった。


「……それで?」

「めちゃくちゃ喧嘩になった」

 ハナは苦笑しながら啓吾の煙草に手を伸ばす。火をつけず指先でクルクルと回す。

「迷ってたのが、あの子の言葉で意地になった。私は欲しいって主張した。一緒にもらおうよ、って。今回もきっと最後には私と同じほうを選んでくれるって思ってた」

「普通に考えたら、不老不死なんかいきなり言われても躊躇するだろ」

「私だって私なりに躊躇したよ。あの子だって不安で躊躇してるだけだと思ってた」

 ようやく煙草に火をつけて、深呼吸かというような勢いで吸って吐く。ハナはたらふく蓄えた煙を芝居っ気たっぷりに吐き出してから、中空を見つめてぽつりと呟く。

「でも違った」


 ちゃんと生きよう、って彼女は言った。私は意地になってたし、彼女に否定されたのもショックでさ、また真面目ちゃんのお説教かと思ってまともに聞きもしなかった。いま思うとあのとき、びっくりするくらい彼女は冷静だったし、私はばかに熱くなってた。なんでわかってくれないの、ってことにばかり憤ってて、彼女の言うことをわかろうともしてなかった。だってさ、二人でこの道を選べば、私たちはずっと私たちでいられるんだよ?

 ──いや、わかってるよ、バカだっていうのは。そんなわけないってのはさ。でも、そのときの私はそう思えなかった。意地になってただけじゃなくて、どっか本気で不安だったってことなんだろうな。思春期少女のしょうもないユーウツだよ、いま考えるとね。でもそんなの、そんときの思春期少女が自覚できると思う? できないよ。私にはできなかった。

 だけど、彼女にはできてた。だから、いらないって言ったし、私をとめようとしたんだと思う。

 しまいには「いる」「いらない」の言い合いになって、もうどうしようもなくなってた。私は、なんでいつもは折れてくれる彼女が折れてくれないのかって、自分勝手にキレてたよ。若かったって言い訳するには、もう取り返しの付かないことが多すぎるけど。とにかくそのときの自分は、どうにかして彼女にも「うん」と言わせたかった。

 だから、ついに強硬手段にでた。


「わたしはもらう、って先に宣言した」

 自嘲的な笑みとともにハナは言い、それに対してかける言葉は見当たらなかった。どうせ結末はわかりきってる。予定調和の悲劇。だが滑稽な過去を懺悔する少女を馬鹿だと責める気にもならなかった。

「私が不老不死になっちゃえば彼女もそうしてくれるだろう、ってさ。信じてたんだ。自分の身を人質にした分際でね」

「言ってくれなかったんだな」

「あの子が、じぶんはいらない、って宣言した時の声、ずっと忘れることはないと思う。戸惑いを感じない、迷いのない強い声だった。優しいあの子のあんな声を聞いたのは、それが最初で最後」

 ハナの視線が七十年以上の昔を見つめているのが、啓吾にもわかった。怒りとも悔みとも思えない透明な表情。二人の道が決定的にすれ違ったその夏その午後その瞬間にも、ハナはこんな顔をしていたのだろうか。


 彼女はしっかりとハナの目を見据えて「ごめん」と呟いた。状況が理解できない。驚きも怒りも後悔もわいてこない。どうにか絞りだすように声が出た。やっと一言「なんで」

「だめだよ、やっぱり」

 何がだめなのか。永遠の命が? 変化を拒むことが? 自分と一緒に生きることが?

 永遠の命の否定することよりも。彼女が、ハナを選んでくれなかったという、その事実が悲しくてならない。そんなわけはないのに「だめ」がハナ自身を突き刺さす言葉としか考えられず、つまり自分は拒絶されたのだと思うと、ようやく腹の底から驚きでも後悔でもない感情が浮かび上がってくる。

「ばか……!」

 物心つきたての子供だって、もう少し気の利いたことを言うだろう。納得出来ない、もう終わってしまったことへの、幼い不満の言葉。いままで一度たりとも、彼女にそんなことを言ったことはなかったのに。生まれてはじめて、親友を心の底から恨み、罵倒した。

「ばかっ!」

「……ばかは、ハナだよ」

 小さな声で、すこしだけ震えた声で、すこしだけ潤んだ瞳で、彼女は言った。

 いつのまにか、いつもの日差しが戻っている。戻ってきた現実。そして戻ることのない関係を思う。夢や幻の類ではなかったという確信がある。それはとりもなおさず、ハナと彼女の時間がもう交錯することはないという意味だ。

「どうしてハナは、そんなことにこだわるの?」

 日差しの下の彼女の瞳から、一筋なにかが零れ落ちるのがみえた。

 なんでいま泣くのよ、とハナは思う。それを流すならなぜ「うん」と言ってくれなかったのか。そして、自分がなぜそんなことにこだわったのか、彼女は本当にわかってくれてはいないと言うのか。それが悲しくてならない。落胆が絶望に変わり、言葉になって溢れでる。

「ほんとに……ほんとにわかんないの?」

「わたしは、ハナといきたかった」

「……ッ!」

 自分だってそうだ。そう思ったから選んだのに。彼女の言葉が激情を呼ぶ。

 いまさら、それを言うか? 一緒に生きる覚悟もしてくれなかった癖に!

 もういい。もう知らない、とハナは思う。

「もう知らない。あんたなんて、皺くちゃの婆ちゃんになって死んじゃえ!」

「……っ! わからずや! わたしも、もう知らない!」

 もう知らない、と言い合った。

 それがハナと彼女の交わした、最後の言葉だ。

 変化を拒絶したハナと、「ちゃんと生きる」を選んだ彼女の時間は、もう交わることがない。

 別れたきり、この場所に居たくない一心で、ハナは誰に別れを告げるでもなく姿を消した。不老不死の身体は冗談でもなんでもなく、おおいに放浪の助けになった。この身体を楽しんでやる、という決意があった。それを選ばなかった彼女を後悔させてやる、と強く思った。


「それがもう七十年以上続いて、今に至るってのか」

 突拍子もない話だが、彼女の言葉には──そして今や彼女の身体にさえ──不思議な説得力があった。なにより、こんな作り話をしてなんになるのか。不老不死という設定だけのために話すようなことではあるまい。そして、彼女は冗談は言ってもこんなふうに人を騙したりする奴ではない、と啓吾は思う。同情の念がどうしても浮かぶが、ハナがそれを望むかといえば怪しい。

「……ところがまあ、何年も経つと心が折れてさ」

「なんだよ、続きがあるのか」

 話は終わりかと勝手に思って気持ちを整理しにかかっていた啓吾は、やや肩透かしを食らいつつ、また目の前の少女に向き直る。今の話もじゅうぶんに激白や懺悔と呼べるものだったが、さらになにか話したいことがあるらしい。先ほどの様子では、不老不死として生きた七十年を語るつもりはないようだし、やはり「彼女」絡みなのだろう。啓吾には予感めいたものがあった。

「世相も世相だから、逃避行みたいな生活だったしね。みんなそうだろうけど、楽しいことよりはキツイことのほうが多かったな。気づけばあの子のことが浮かぶしさ。なんであの子は私と生きてくれなかったんだろうって恨んだ次の瞬間には、なんで私はあの子と生きてあげれなかったんだろうって悔やんだり」

 ハナは笑い話のように話すのだが、到底笑える話ではない。笑いは笑いでも自嘲でしかなく、聞いているこっちが辛くなってきた、と啓吾は思う。手を伸ばしかけた煙草に、いつまでも手が届かない。喉が渇いてきたが何か注文する気も起きない。

「それで、戦争が終わってしばらくした頃、一度こっそり地元に帰ったんだ。彼女のこともそうだけど、故郷がどうなってるか、まーこんな身でなんだけど気にはなるし。でも帰ってみて、ああもうだめだな、って思った」

「どうなってたんだよ、故郷」

「いや、土地は思ってたほど変わってなかったよ。でもね、友だちや知り合いは何人か死んでた。ウチの兄貴も死んでた。生きてた同級生はみんな年数分歳をとってた」

 少しだけ息を呑む。ハナは啓吾の顔を見つめ、大事なことを伝えるように言った。

「時間や変化ってのがどういうことなのか、そのときはじめて理解した気がする。そして、私にはそれがないんだ、っていうことも」


 彼女が無事で、今どこに住んでいるのかというのはすぐにわかった。しかしもう会う気も起こらない。会えるわけがない。彼女は時間のままに生きていて、自分はそうではない。その意味の重さをようやく理解した。永遠の命を「手に入れた」とハナは思っていた。しかし違うのではないか。自分は、時間と変化を「失った」のではないか。

 羨ましいかと問い、羨ましいなと返す立場なのは果たして普通の人々なのか、自分なのか。

 少女から大人になった彼女が、十六のままのハナを見てどう思う?

 十六の少女から変わらぬハナが、大人になった彼女を見てどう思う?

 とても会えない、とハナは思う。会うのが怖かった。残された遺恨なんてまるでなかったとしても、ただその変化に恐怖した。彼女の家の前まで辿り着いて固まり、それでも戸に手をかけようと伸ばしては戻し、家の中から物音を感じて転がるように逃げ出した。消えてしまいたいとさえ思った。そのままとにかく故郷から離れようという思いだけで足を動かした。故郷にはそれきり、戻ってはいない。

 時はうつろう。放浪暮らしにも慣れる。自分を助けてくれる存在にも出会うし、自分を受け入れてくれる存在にも出会った。

 だけどそれは、あくまでも異邦人としてだ。違う時間を生きる存在としてだ。彼らは、自らハナの人生の止まり木や腰掛けとして扱われることを自覚していた。当然だ。違う時間を生きるハナと彼らには、そういう関わり方しかできない。そしてその生き方は、他ならぬハナがあの夏あの午後、自らの意思で選んだ結果なのだ。

 ずっと親友だと思っていた彼女と、袂を分かってまで。

 それでも彼女のことは、人づたいで耳にする。あたりまえに大人になったと聞いた。あたりまえに結婚したと聞いた。あたりまえに子供を産んで母親になったと聞いた。あたりまえに年老いて祖母になったと聞いた。そして今や、あたりまえに人生の黄昏を迎えている。

 永遠に生きることを選んだハナには、彼女と同じ時間を生きることを選ばなかったハナには、どれひとつ叶うことはなかった。


 ──羨ましいか。

 ──羨ましいな。


 もう七十年以上、会ってはいない。会うことができなかった。

 彼女は変わっただろう。自分が十六の姿のまま、ファーストフード店でスマホ片手に黒みつ抹茶ラテを飲んでいる今このときにも、彼女はあたりまえに歳をとり、あたりまえに皺くちゃの顔で、あたりまえにベッドで寝ているのだろう。


 ──羨ましいか。

 ──羨ましいな。


 今や彼女のその老いですら価値に感じ、今や自らの肌の白さすら憎く感じた。

 あれはチャンスではなく、呪いだったのではないかと思う。人として「ちゃんと」生きることから逃げ、甘美かと思われた誘惑に堕ちた者への罰だったのではないかと思う。いまならばわかる。一緒に生きる覚悟を決められなかったのは、あの日あのときの、自分だったのだ。

 彼女は今、どう思っているのだろう。自分のことをバカなやつだと嘲笑っているのか。それとも自分のように、相手を羨んでいるのか。それとも――自分のことなど綺麗さっぱり忘れてしまったかもしれない。



「こんなヘンな友達、たとえ何年経っても忘れようがないだろ」

 励ましの意味も込めたことは否定しない。しかしそれは啓吾の正直な気持ちでもある。

 ハナは後悔している。自分が不老不死という道を選んだことを、なにより彼女とともに生きられなかったことを。痛いほどにその気持ちが伝わる。普段冗談を飛ばしながらゲーセンで遊んでいた少女が、そんな過去を抱えていたなどとは、そりゃあ誰も思うまい。その前に、こんな話を信じる奴すらいないだろう。しかし啓吾には、ハナという少女が真剣に話してくれたこの物語を、作り話だとは微塵も思えなかった。

「どうだろね。もーだいぶボケが進んじゃってるって話だから」

 ちら、とハナは啓吾を見た。予感が確信に変わる。つまり、そういうことなのだろう。いつのまにか残り少なくなったマルメンを無言でハナに差しだす。微笑しながらハナもそれを受けとり口にくわえる。啓吾がホストさながらにライターで火をつけてやると、少女は満足そうに煙を吸い込んだ。

 ハナは少し可笑しそうに言う。

「ありがとう。千代子の孫ちゃん」

「どういたしまして。婆ちゃんの親友」




    ◆




「もう知らない」なんて大嘘だったね、と寂しそうにハナは笑う。

「その孫とこうやって毎日遊んでるのに」

 途中から、そんな気はしていた。彼女がさりげなく祖母のことを知りたがっていたのも、それでぜんぶ納得がいく。自分が安藤千代子の孫だと知っていたから、彼女は自分と知り合おうとしたのだろう。

「ごめん」

 落ち着いた声の、彼女の言葉。頭を下げる。

 何に? 自分に? 何を謝る?

 利用されていた、とは思わなかった。彼女と遊ぶのも話すのも、単純に楽しかったのだ。ハナが家族の話を無理強いするようなこともなかった。自分が祖母の孫だから近づいてきた、というのは真実なのだろう。だがそれは利用などというものではないと、啓吾は思う。彼女の祖母に対する、割りきっても割りきれなかった感情が、祖母に関係する人間をどこかで求めたということなのだと思う。そして、それが自分だった。

 ごく自然なものとして、その言葉が出る。

「会いに行くか?」

「え」

「でなきゃ、なんで俺にそんな話したんだよ。婆ちゃんとのことを黙ったまま、こうやってダベって過ごし続けてもよかったはずだろ。婆ちゃんの先行きがヤバイって話をきいて、それで話す気になったんじゃないのか。だったら、答えはひとつだ」

 ハナは難しい顔をして黙り、やがて俯いてしまう。どこか怯んだような色を、啓吾はその瞳に感じ取った。そりゃ、今更も今更だ。七十年間会えなかった相手に、おいそれと会いに行く決意なんかできるわけがない。戸惑いも後ろ暗さも申し訳無さも羨ましさも、いくばくかの恨みや怒りも、あるに違いない。それは他の誰にも思い知ることができない、ハナという少女しか持ち得ぬ感情だろう。

 だけどしかし、会いたいには違いないのだ。会ってどうするのか。なにを伝えるのか。そんなことは知りようもない。ただハナは祖母に会うべきだ。会わなければ文字通り未来永劫、彼女は後悔し続けることになるだろう。祖母である千代子もまた、同じ想いを抱いているのではないか。そんな確信が、啓吾にはあった。無理矢理にでも背中を押してやろう。そう覚悟を決める。

「痴呆がすすんでからは、もう見舞いにくる人もめっきり減ったよ。ウチの親だって忙しいし面倒だとさえ感じてる。でも、優しい婆ちゃんだったよ。俺は大好きだった。もちろん今もそうだ」

「いまさら……私に、会いにいく顔があると思うか?」

「知らねぇよ。ただ、きっと最後のチャンスだ」

 そして、言った。

「七十年経って、また後悔したいのかよ」

 俯いていたその顔が、はっと上がる。




    ◆




 施設に足を踏み入れてなお、ハナは複雑な表情をしている。無理もない。

 実のところ、祖母がなにをどう思っているかなど想像もつかない。そんな話はついぞしてくれたことがなかったのだ。ただ、あの祖母がハナを激しく恨んでいるなどということだけは絶対にないと思う。優しく、芯の強い人だ。ハナの話を聞いたからわかる。彼女は、十六の頃からそうだったのだ。彼女はハナを責めたり恨んだりはしない。ならば、いまハナの抱いているそれは自罰であり後ろめたさなのだろう。

「気楽に……とはとてもいかないだろうけど、心配しなくたっていいと思う」

 その言葉に、ハナは横を歩く啓吾を見上げ曖昧な笑みを浮かべた。普段から余裕なら売るほどあるあのハナに、こんなに余裕がないのは初めて見る。もちろんそれだけの事情があるからなのだが、それにしたって借りてきた猫とはまさにこれかと啓吾は思う。

「あー、言ったとおり、婆ちゃんボケが進んでるから、そもそも何も憶えてないかもしれないんだ。だから、そんときはただ、俺の友達として見舞ってやってくれればいい」

 ハナはまたも曖昧に頷く。ちゃんと聞いてるかどうかさえ怪しい。祖母の部屋はもうそこだ。いよいよ対面かと思うと、なぜか啓吾まで身震いがする。ハナの緊張がうつったと思う。自分くらいまともでなくてどうする、と啓吾は心のなかで自らを叱咤する。

 足取りこそ軽快とは言いがたいが、ハナは立ち止まることなく、黙って啓吾について歩いている。あとは会うのみだ。啓吾ももう、なにも言わなかった。扉。少女を一瞥だけしてそこを開ける。彼女にももう、見えているはずだ。先を促すと、ハナは恐る恐るといった様子で歩みをすすめる。

 そして二人は、ベッドの傍らに立った。

 ベッドに寝かされた祖母は、目を閉じ華奢な身体をゆっくりと上下させている。眠っているようだった。

「なんの覚悟もなく時間から逃げたのは、私だった」

 ぽつりと、ハナはつぶやく。ベッドの上から決して目をそらさず、しかしそこからどんな感情も読みとれない。十六の少女と、八十八の老婆。ベッドの上に横たわるのは、間違いなく自分の祖母である安藤千代子だ。だけど、それだけではない。そこには、ハナの失った、けして得ることの出来なかった七十年が横たわっているように思えた。皺だらけの顔。骨と皮だけの身体。死を待つその身。それこそが、祖母が七十年を「ちゃんと」生きた証なのだと信じた。自らの老いきった姿だけではない、それこそ安藤啓吾という存在もまた、祖母の生きた証のひとつなのだ。

「あのとき、千代子は私をとめた。一緒にいきようと言った。あの言葉は、正しかったんだと思う。果物みたいだった肌が皺くちゃになっても、跳ねるようだった身体がヨボヨボになっても、綺麗だった黒髪が真っ白になって抜け落ちても、歯が無くなっても腰が曲がっても、あの夏に千代子が持ってたぜんぶがなくなったことさえ、正しかったんだと思う」

 ハナは眠り続ける祖母を見つめ、うかされたように続ける。

「それに、やっぱりわかったよ私には。七十年経ってお婆ちゃんになっても、千代子だってすぐにわかった。たとえ千代子が私を憶えてなかったとしてもね」

 祖母が、うっすらと目を開いた。

 ハナはなにも言わない。ただ祖母を見つめ続ける。隠し切れない不安が、その表情にはあるような気がした。

「婆ちゃん、きたよ」

 啓吾がすこし顔を近づけ、祖母にただそう伝える。隣の少女について、自分からなにを言うつもりもなかった。その必要があるとすればハナ自身の言葉でなければ意味がない、と啓吾は思う。

 そして祖母は啓吾の顔をじーっと見つめたあげく一言。

「あなた、どなた?」

 シリアスな雰囲気のなかで不本意ながら啓吾はがくっときた。本当に身体がちょっとがくっと下がった。

 やっぱそれかよ。孫の顔もおぼえてねぇボケ老人丸出しであった。本当このノリでその反応はないだろと思う。もっとも、啓吾とハナが勝手に熟成した雰囲気でありノリなのであって、祖母の知ったことではないのだが。啓吾は気まずいながら隣のハナに向き直り弁解する。

「あー……いや、こんな日も多いんだ。言ってたとおり、ボケちゃってさ。まだ孫なんていないつもりなんだよ。頭んなか若い頃に戻っちゃって、」

 言って、思わず言葉を止めた。それを口にしてようやく、啓吾は自分がなにを言ったのか、それがどういう意味を持つのかに気がつく。

 頭んなか若い頃に戻っちゃって。たったいま自分はそう説明した。それは、つまり、

 祖母の視線がゆっくりと、啓吾から、その隣に立ち尽くす少女へと向けられていく。

 ハナの、隠すべくもない感情の入り混じった表情。なにも言わない。なにも言えない。その唇が動きかけてはとまり、しかし何度もなにかを言おうとして、小さな息ばかりが漏れる。祖母はハナを見つめ続ける。ハナも揺らぐ瞳で祖母を見つめ続ける。意を決したようにハナが唇を噛み締め、今度こそなにかを口にだそうと


「……ハナ」


 祖母の、千代子の口から、小さな声が漏れた。

 ハナ、と、そう言った。間違いなく。

「ごめんね……っ」

 つぎの瞬間にはもう、ハナは千代子を抱きしめている。ベッドに横たわる親友に、覆いかぶさるように。脇目もふらない。いま啓吾がここにいることさえ忘れたように千代子を抱擁し「ごめん、ごめん」と何度もつぶやく。涙も拭かずに。気づけば千代子も、細い骨と皮だけの腕で、精一杯ハナを抱き返している。ベッドに寝たきりの、皺だらけの「少女」が言った。

「ハナ、一緒にいきよう?」

 ハナだけではなく、啓吾までが息を飲む。いま千代子は、あの夏にいるのだと強く信じた。

 一瞬のあと、ハナは強く応える。

「……うん。一緒にいきよう……!」

 一緒に大人になって、一緒にお母さんになって、一緒にお婆ちゃんになろう。

 それだけのことが、二人には叶わなかった。あの日の千代子の言葉の意味を、ハナは心の底からわかったのではないか。そんな気がした。七十年越しの言葉。だけどいまここは、あの夏のあの日差しのなかに違いない、と啓吾は思う。いまここは施設のベッドでもなければ、千代子は八十八の老婆でもない。そんなわけがないのだ。

 啓吾には、二人の少女が見える。十六歳。あの日。見間違いなどであるはずがないと思う。ずっと一緒だった仲良しな二人の少女が抱き合っているのを、はっきりとこの目で見たと思う。あの日、千代子に「うん」と言えなかった自分を、ハナはようやく許せるのだと信じる。


 七十年止まっていた彼女の時間は、動き出すことができるのかもしれなかった。




    ◆




 墓前に向日葵を生けたいとハナが言い出したが、季節がそれを許してくれなかった。時の流れを無視できるのはハナその人だけであって、向日葵は夏に咲き夏に散るのみだ。なるほど彼女が祖母に花を供えるなら向日葵はアリなのだろうが、しかし墓前にあんなもん供えていいのだろうかという思いも少しある。

 だがどのみち、そんなのは夏になってから悩めばいいことだ。今日のところは普通の仏花と線香で我慢してもらおう、と啓吾は思う。

 二人して墓前に手を合わせる。ハナが線香代わりに煙草を置こうとしたので阻止した。どこのヤンキーだ。

 もう葬式が済んだのも随分と前のことで、祖母の死については一息つけた感があった。ハナは葬式にも通夜にも姿を見せなかったが、後日ふらっと現れると分厚い香典袋を啓吾に握らせた。出処を家族から誤魔化すのにめちゃくちゃ苦労したけれど、ほんのちょっぴりなら掠めてしまってもいいんじゃないかという誘惑がはたらいたけれど、それでもなんとか真っ当にそれを処理し、かくして立派な墓が立つに至る。それにしても、どこからそんな金が出てきたのか。やはりハナは只者ではない、と啓吾は思う。

「ちっとも拝んでるような顔じゃないね。雑念だらけだ」

 ハナは啓吾の顔を見てそう笑い、わざとらしく「さて、と」なんて言いながら立ち上がった。

「いろいろ、ありがとう」

 いつかにみた、あのときのありがとうと同じ眼差し。なるほど九十年近くも生きれば、礼ひとつ言うにも雰囲気が出るわけだと思う。いちいち深みのあるありがとうを言うやつだなと思うと、少し可笑しい。

「なにさ、そんなにおかしいこと言ったか?」

「いや。そっちは逆に雑念の抜け落ちたような顔してるよな、と思って」

「そう? ま、実際、ながーい人生に、ようやく一区切りついた気はするからね」

「婆ちゃんのことも区切りがついたから、俺ともそろそろお別れか」

 ハナは少し驚いたような顔をした。

 それは思ってもいなかったことを言われた、というより、思っていたことを言い当てられたという感じで、やがて「なんだ知ってたのか」というふうな表情に変わる。やっぱりか、と啓吾は思う。祖母が死んで御役御免、と単純に思って言ったわけではない。だけど少し考えればわかることだ。ハナは一箇所に留まれない。いつか去る身なら、区切りのついた今がいちばんの去り時なのだろう。潮時、と言い換えてもいい。

「そんなに私とお別れしたい?」

 意地悪そうな笑みでハナはからかってくるが、どうにも乗る気になれない。

「茶化すなよ。これでもけっこう、繊細なんだ。いろいろ言いたいことも、ある」

「……ごめん。言いたいことって、なに。今のうちに聞いとくよ」

 言いたいこと、それはなんなのだろう。啓吾は自問する。頭のなか、胸のなか、腹のなか、とにかく身体じゅうにもやもやと散らばった気持ちを必死でかき集めて、なんとか言葉のカタチにしようとするが、なかなかうまくいかない。ハナは啓吾の言葉をしばらく待っていたが、やがて、

「べつに、今すぐにはいなくならないよ」

 そう言って微笑んだ。

「だから、今しばらくいつものように遊ぼう」

「それから、お別れか」

「うん。だから、それまでに言いたいことがあるなら整理しといてくれ」

「どうしても、」

「うん?」

「どうしても、どっかに消えなきゃだめなのか?」

 やはり自分は寂しいのだろう、と啓吾は思う。隠すべくもないそんな気持ちが素直な言葉となって、ハナを引き留めようとする。彼女がその気なら、不老不死だろうがうまく定住だってできるのではないか。

「だめだ」

「なんでだよ」

 ハナは困ったように少し笑い、駄々っ子にものを聞かせるように言う。

「啓吾がもうちょい歳くったら、私と並んで歩くのも難しくなるよ? こんなご時世だしねえ」

 そしていたずらっぽく、

「啓吾をロリコンに目覚めさせちゃったら悪い。責任もてない」

 冗談めかして笑った。見てくれは自分より下の少女に、まったく大人のあしらわれ方をされているのが悔しい。もっとも、中身は大正から生きてる人生の大先輩だ。啓吾は思う。壁掛け電話からスマホまで使いこなすような相手に貫禄で勝てるわけがない。

「まー冗談は置いといて、」

 すっ、と真面目な顔になり落ち着いた声でハナはつぶやく。

「ずっと一緒にいれば、私がつらい」

 啓吾は、その言葉の意味を理解した。少女が、ちょっと寂しげに言葉を続ける。

「永遠に生きるってのは、そういうことさ」

 啓吾からかける言葉は、見つからなかった。自分の抱く寂しさなど、ハナの抱える寂しさの何分の一なのだろうと考える。あとから生まれた者が、育ち、老い、死んでゆく。彼女はそのさまを見続ける。十六の姿のままで。たとえば彼女と共に生きたいという奴が現れたとする。そいつは彼女を大切にするだろう。ときには守ってやろうとするだろう。だが、やがては彼女がそいつを守る立場に変わり、最後には必ず彼女がそいつを看取るのだ。必ずだ。彼女は絶対に、残された者であり続ける。

「あんまりヘンな顔するなよ。啓吾、千代子に似て、けっこういい線いってるんだから」

「お、おう」

 彼女の軽口になんとか応えてみせようとしたが、まるで気の利いた台詞が浮かばなかった。これじゃドン引きしてるみたいだ。

 ハナが溜息混じりに、仕方ないなという調子で言った。

「啓吾は啓吾で、ちゃんと生きて、できれば長生きしてくれ。心配しなくても墓参りくらいはするよ」

「あのなぁ、今から墓の話なんてするか普通」

「残念ながら私には普通だね」

 今度は啓吾がため息を吐く。ようやく調子が戻ってきたと思う。いつまでも湿っぽい話をしているような仲ではない。もっとしょうもないことを話さなくてはだめだ。自分とハナは、いつもそうして過ごしてきたのだから。これから別れの日まで、きっとそうして過ごすのだから。

 啓吾の様子にようやく安心したのか、ハナは大きく伸びをして言う。

「じゃ、とりあえずお腹へったし、どっか行こう。どこがいい? いつものファッキンがいいな。グルメバーガーカマンベールチーズソース」

「決まってるんじゃねーか。なら聞くなよ」

「まー私、不老不死なんでね」

「それ全然関係ないよな」

 にかりとハナが笑う。背中に、一度だけ祖母の墓を振り返る。風に揺れる仏花と線香の煙。さっきは雑念だらけだったので、心のなかで手を合わせる。ちゃんと生きよう。ハナに向けられた言葉だったが、それを婆ちゃんの遺言にしようと思う。ちゃんと生きよう。ナイス文句だ。

 ずんずん先を行くハナを追いかけながら、啓吾は心のなかでその言葉を繰り返していた。

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72 タロ犬 @tarodogs

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