4-11 彼方の空

 母親の隣に立つ中川英梨の鼻が少し膨らんでいた。学校側からの提案は僥倖ぎょうこうと言っても差し支えないだろう。英梨が望んでいた以上のものだった。


 学校側は、特別に校内の見学を認めてくれただけでなく、空港からの送迎に車を出すと言ってきたのだ。条件は、今回の訪問を映像で記録すること。その映像を学校の宣伝やその他の用途に使用すること。長い歴史のある学校であっても生徒を集めるのに苦労する時代だ。特に宝山音楽学校のように特殊な学校であれば、生徒を集めるのに物語性のあるエピソードを利用したいと思っても不思議はない。


 幼い頃は八重と名乗っていた水原八重子の旧姓は、いかにも旧家を思わせるもので、宝山音楽学校の過去の在籍者の名簿の中でもひときわ異彩を放っていた。しかし、卒業の記録は残っていない。戦時中に限らず、昔の女学校では結婚を機に学校を辞める女性とは少なくなかった。水原八重子もそうしたひとりだ。


 もしかすると水原八重子は宝山音楽学校を卒業しなかったことをずっと気にしていたのだろうか。だから、宝山音楽学校の記憶を自分の子どもたちに話さなかったのだろうか。きらびやかな大スターの卵たちと同じ場にいた青春の日々。誰かに話したところでどうなるというのか。手に入れられたかもしれない別の未来。それを思う時、悔いがあったのだろうか。


 里佳にはほんの少しだけわかる気がした。自分が大学を辞めた時は何も思わなかった。けれど、数年経ってから、まだ卒業できるという夢を見る。あの時、辞めずにそのまま卒業していたら、今は今とは違っていたのかもしれない。どっちがよかったということではなく、考えたくない時があるということ。


 同時に、矛盾する部分を感じながらも、学校で過ごした青春の日々の輝きを人生の最後に再び味わいたいという気持ちも、やはりほんの少しだけわかる気がする。里佳にとってはほんの少し前の時間に過ぎない。けれど、今とその時とには、何か大きな段差がある。


 ハッとした。杏や英梨と話していて何かが違うと思うこと。水原八重子が取り戻したいと願っている日々。まだ、何者にでもなれると思っていた頃。


「では、こちらを」

 旅の説明と確認を終えた里佳は、チケットを入れた封筒を、母親の直子の顔を見てから、英梨に手渡した。


 英梨は両手で受け取った封筒を胸に押し当て、それからゆっくりと顔を上げた。少し上を向いたその視線は、彼方の空の、その遥か向こうを見つめていた。


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