4-8 君の名は
制服姿のままの中川英梨は、よほど急いでやって来たのだろう、すっかり息を切らしていた。この近所では有名な中高一貫校の制服だ。緑色のブレザーが、英梨にはまだ少し大きく見える。
「お母さんから聞いて、もう一回聞いて、知らなかったから、あったって」
「あの、もう少し落ち着いて……」
里佳は当惑していた。落ち着いて話してもらわないと何がなんだかわからない。弾む胸を押さえ天を仰ぐ英梨になんと声をかけたものか。
「そうだ。水飲む? 水」
「……、はい」
英梨は手渡された水を一気に飲み干した。
「あ、ありがとうございます。あー、生き返る」
英梨の出す思いの
コップを持ったままの英梨が勢い込んで話し始めたのは、一人の女性の戦後史だった。
英梨の曾祖母、水原八重子は三度結婚している。最初はまだ戦時中だった。出征する幼馴染と準備も何も整わないうちに慌ただしく。一緒に暮らすこと無く南洋へと向かった夫の乗っていた輸送船はあえなく轟沈。遺物は何も残らなかった。若くして未亡人となった曾祖母は、最初の夫の従兄弟と再婚した。長男のうえに病弱で軍務につくことのできなかった夫は実家である商家を継いでいた。物不足の戦時下、都会と比べてまだまだ豊かだったと言える近郊の物資の手配で商売を広げた夫のもとで、曾祖母は何不自由のない暮らしをしていた。戦後の混乱時期も夫はさらに家業を盛り立て、進駐軍とも取引するほどだった。家業を会社組織へと変える準備に奔走していた夫は持病を悪化させ、急死。残された曾祖母は再び未亡人となってしまう。子どものできなかった曾祖母は家から追い出される格好となった。充分過ぎるほどの手当はあったものの、初婚の前の実家に戻るわけにもいかない。途方に暮れた曾祖母に救いの手を差し伸べたのが、最後の夫、中川英梨の曾祖父、水原
「もしかして、その本屋さんって、新宿の、あのでっかい?」
里佳が聞いた。夢中になるとすぐに敬語が吹っ飛んでしまう。
「あそこです。うちは今、直接関係はないんですけど」
「そうだったんだ」
予想より遥かに大きなドラマの存在に、里佳は圧倒されていた。
「でも、肝心なのはここからなんです」
英梨が残りの水を一気に飲み干した。
英梨にとって曾祖母である水原八重子の三度の結婚の話は初耳だった。英梨の母、直子も、三度結婚したということは知っていても、実はあまり詳しくはわかっていなかった。埼玉に住む英梨の祖母、直子の母、八重子の娘の悦子に電話した。悦子はさすがに母である八重子の三度の結婚のことは覚えていた。しかし、最初の結婚の前の姓は、「確か……」というぐらいの薄い記憶で、「なんとか小路とか、そんな名前だったような……」と、そこまでしか出てこない。
悦子の弟、茂の家には八重子の写真や何かがあったはずだと悦子は言う。茂は三年前に亡くなっていた。直子の電話に出た茂の妻、照代は、確かに何かあったが、どこにあるかは探してみないとわからないと言う。義理の叔母である光子に見つけてくれるよう探しモノを頼んだ直子は、もう一度、自分の母、悦子に電話した。何か、子どもの頃に写真を見たような気がしていた。
悦子は、「よく覚えてたわねえ」と、直子の記憶力に感心した。悦子が結婚した時に八重子から渡されたアルバム、悦子の子どもの頃の写真が貼られたアルバムの滅多に開かない1ページに、水原八重子の若い頃の写真、八重子がまだおかっぱ頭で女学校に通うか通わないかの頃の古い写真が貼られていた。「裏に何か書いてない」と聞く直子。「裏に何か?」と言って写真を取り出そうとした悦子が声を飲み込んだ。古い写真は一枚ではなかった。その下に、悦子も見たことのない家族写真が貼られていた。そして……。
「その写真は、大おばあちゃんの子どもの頃の家族写真だったんです。その裏に、大おばあちゃんの家族の名前がはっきりと書かれていました。」
「すごいね」
里佳にはそれ以上言えなかった。まさに圧巻だった。
「続きがあります」
「ええー? まだ?」
「ここからが肝心なんです。大おばあちゃんの姓と本当の名前、写真の裏には八重子ではなく八重と書かれていました。昔はそういうことがあったって聞きました。大おばあちゃん、八重子じゃなくて八重だったみたいなんです」
英梨は真剣そのものだった。
「埼玉の茂おじちゃんの奥さんも色々と見つけてくれました。大おばあちゃんと最初の旦那さんの写真、これも裏には八重と書いてありました。私、やっと気がついたんです。学校の名簿」
「あっ」
里佳もわかった。
英梨は里佳の目を見て大きくうなずいた。
「もう一度、大おばあちゃんの本当の名前で問い合わせてみたんです。宝山音楽学校に」
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