4-7 三度の結婚

 小柄な女性が里佳に深々と頭を下げた。


「いえいえ、そんな」

 恐縮した里佳も負けじと頭を下げる。


 小柄な女性は中川英梨の母、中川直子なおこだった。


「英梨と祖母が本当にお手数かけてしまって。申し訳ございませんね」


「いえいえ。私の方こそ、英梨さんのご希望に添えなくて申し訳ございませんでした」


 中川直子とは花山さんから水原八重子の件を持ち込まれて何度か話していた。最初のうちは祖母の話を信じていた直子だったが、途中からは明らかに妄想を疑っていた。そして、思っていた以上に大変な車椅子での旅の現実を知って、直子の気持ちは早い段階で冷えていた。


「祖母の話が本当の話だったらどんなによかったか」

 英梨の頑張りが水原八重子の思い出話のすべてをボケてしまった老人の夢のようなものに変えてしまったことには、さすがに直子も一抹いちまつのやるせなさを感じていたようだ。


 里佳は何も言わずに斜め下を向いた。本当に、残念な結末だった。


「祖母は若い頃は美人で、三度も結婚してるんですよ」

 中川直子は問われているわけでもないのに、そんな話をしていた。


「最初の旦那さんは結婚してすぐに戦争で亡くなって、次の旦那さんはお金持ちだったそうなんですけど、戦後に病気でやっぱり若くして亡くなって。それからウチのお爺さんと結婚してるんですよ。お爺さんも、もうだいぶ前に亡くなりました。それなのにねえ。そんな人生なのに、年を取ってしまうと……」


 言いたいことは里佳にもよくわかった。どんな人間でも年老いけてしまうかもしれない。それまでの人生がどれだけ波乱万丈でも彩り鮮やかでも、曖昧な記憶に埋もれ見つからなくなってしまう。それを思うとまたやるせなさが里佳を襲う。現実も夢も区別のない世界の中で行きていくこと。それは果たして本当の人生なのだろうか。長く豊かだったはずの人生の最後が嘘の記憶で塗り替えられてしまう。そんな結末のためにヒトは長く行き続けるのだろうか。考えるだけで胸が詰まる。


「もう、本当に……」

 中川直子も言葉に詰まっているようだった。鼻声になっている。取り出したハンカチで鼻を押さえた。もう、これ以上は話すこともないのだろう。


 里佳は引き出しから英梨の書いたメモを取り出した。丁寧な字でまとめられたメモには、学校側とのやり取りが記録されていた。


「こちら、」


「英梨が書いたメモですね。あの子、あんなに頑張って……」

 母としての直子は娘を不憫に思っているのだろう。惚けてしまった水原八重子を責めるのも酷だが、直子が少しだけ祖母を恨んでいるであろうことは想像できた。


「あら」


 渡したメモをじっくりと見ていた直子が、急に声を上げた。トーンが違う。疑問に思っている声だ。


「なにか?」

 恐るおそる聞いてみた。


「ええ。あの子、大おばあちゃんの名前」

 直子の視線がメモの一箇所にそそがれていた。


 里佳も視線の先を追う。メモには、「大おばあちゃんの旧姓、武藤。武藤八重子」と書かれている。


「どうかされましたか?」

 自分に落ち度がなかったか、里佳は今、不安でしょうがなかった。


「ああ、この名前……」

 中川直子は里佳のことなどまったく気にも止めていなかった。


「お名前が?」


「違うのよ。違うの。祖母の旧姓……」

 真剣な表情になっていた。


「祖母はね、三度結婚してるの。最後の姓、三回目の結婚のあとが水原、その前、二回目の結婚の時は武藤、その前、最初の結婚の時は……、なんだったかしら。それでね、その、最初の結婚の前、祖母がまだ結婚する前の旧姓……」

 中川直子はもう一度手元のメモを見つめた。


「英梨はこの名前、武藤八重子で学校に尋ねたって言ってたのよね」


「はい。いえ、あの、名前までは具体的に伺っていないんですが」


「それで、その名前は卒業生の名簿に見つからなかったって」


「あ、はい。それは間違いなく」


 眉間に皺を寄せた中川直子は、急に里佳の存在を思い出したかのように表情を和らげた。


「あら、ごめんなさい。英梨がね、もしかすると勘違いしてたのかしらね。わかった。私ももう一度調べてみます。色々ごめんなさい。じゃ、これで、失礼します」


 見送ろうとする里佳を振り返ることもなく、中川直子は慌てふためいて出ていった。


 里佳にはまだ事情がよく飲み込めていなかった。

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