第6話:白猫の素顔


 十月の祭りの件に関して、周囲の動きが落ち付きを取り戻してきた頃。最近になって、僕に対して他のクラスメイトたちが話しかけてくるようになった。立川さんや武蔵野さんのお陰だろうが、しかし福生さんは以前のように煙たがられているようであった。福生さんは相変わらず、授業中はずっとイヤホンで耳を塞いでいる。

 あのイヤホンで何を聴いているのか、それを訊いたことはなかった。後で訊こう、今日こそ訊こうと思っても、その後にはなんらかの出来事があって訊こうと思っていたことを忘れてしまうのだ。

 こうして立川さんが学園祭についての注意事項を説明している間も福生さんの視線は窓の外を見ている。すっかり冷え込んだ十一月の寒空を、ぼんやりとした表情で。

「福生さん、少しは人の話を聞きなさい!」

 そんな彼女から立川さんはイヤホンを引き抜いた。福生さんは口元を微笑ませたまま強気な表情の立川さんの方をゆっくりと見て、握っていた左手を軽く開き、その中をちらと見せた。それは立川さんのリモコンだった。

「な、なんで福生さんがそれを」

 顔を真っ赤にしながら小声で訊ねる立川さんに、福生さんは何も答えない。親指の腹で器用にダイヤルを調整しており、立川さんは小さく咳払いして、

「ちゃ、ちゃんと聴いてれば没収はしないでおいてあげる」

 赤い顔をやや緩ませて黒板の前へと戻って行った。なるほど、確かに『立川さんのリモコン』である。




「で、つまりどういうこと?」

 授業が終わった後、部室で文化祭について話し合っていた立川さんと武蔵野さんに僕は怖じることなくそう訊いた。そう、僕は福生さんのことばかり見ていたために、まったく立川さんの話を聞いてなかったのだ。

「……まさか青梅が聞いてないとは思わなかったわ」

「考え事してた。っていうかなんで立川さんいるの? すごく自然にいるから気付かなかったけど」

 質問を重ねると、立川さんは思い出したように手を打った。

「ああ、忘れてた。私、今日から生物部だから」

「そりゃまた唐突な」

「別に唐突ってわけでもないのよ、これが」

 立川さんは深く溜息を吐いて、部屋の隅でハムスターと戯れる福生さんちらと見た。

「ようは、監視役よ。福生さんが豚の丸焼きしないようにって、校長先生に言われたの」

「マジで? 自分はスッポン食ったのに?」

 棚上げとはこのことである。立川さんは頭が重そうに手で抱え、この日何度目か判らない溜息を吐いた。

「まぁ、電波の有効範囲内だからそれはそれでいいんだけどね、授業終わるとちっとも操作してくれなくて」

「その話は別にいいかな。それより、学園祭。たった二百人しかいないのにどうすんのこの学校」

「だから、各部活動で展示とかをするの。金銭のやりとりは厳禁で、しかもその部活動に関する内容でないとNG」

 まぁ、中学校の文化祭などこんなものだろう。僕が元いた中学校は、そもそも文化祭は存在していなかった。

「とすると、無難に『動物ふれあいコーナー』とかで済ますの?」

 そう訊くと、立川さんはきっぱりと否定意見を述べた。

「そんなやる気ないのじゃダメよ。きちんとしたのをやらないと内申に響くわ」

「さすがクラス委員。価値観違うわー」

 武蔵野さんはやる気なしと言った様子で、老朽化した灯油ストーブに火を入れようとしている。京子ちゃんはその様子を観察しながらも、真面目に考えているようであった。

「とりあえず、みんなから一通り出し物の意見を聞きたいんだけど、何かある人!」

 挙手を求められるが、ハムスターが回し車を回す音だけが虚しく響いただけであった。立川さんは小さく咳払いし、

「何もないの? ないなら『乗馬体験』にするけど」

「え、それいいじゃん! ポニーちゃん大活躍」

 武蔵野さんが食い付いたが、しかしどういう訳か立川さんは首を横に振った。

「ポニーちゃんじゃ足が細くて大人は乗せられないわ」

「えー、じゃぁ何に乗るの? イノシシ?」

「私よ」

 僕は思わず耳を疑ったが、すぐに立川さんの思考回路の方へ疑いを切り替えた。

「私が、馬になるのよ」

「何言ってんだこいつ」

 思わず本音が漏れる。立川さんの表情からして十中八九よくないことを考えている。そしてそのことを知らない京子ちゃんは、ただただ戸惑いの表情を浮かべていた。

「もちろん、鞭を打つ体験もできるわ」

「立川さんが鞭を打たれる体験をしたいだけなんじゃ……」

 とてもお見せできないような欲望に満ちた表情。それに触発されたのか、今度は武蔵野さんが顔を真っ赤にしながら元気よく手を上げた。

「はい!」

「はい、歩」

「ぶ、『豚の交尾ショー』とかダメかな……?」

 恥ずかしそうに提出された武蔵野案に、立川さんは一瞬だけ考え、

「……アリね」

「ないよ!」

 僕の反対意見は聞き入れられていないようである。生物部唯一の良心である京子ちゃんはすでに顔を伏せてしまっており、薄々と二人の本性について気付き始めているようであった。

「福生さんは何かある?」

 部屋の隅へ視線を送ってそう訊ねると、福生さんはハムスターが回している回し車を指で強制停止して中を転がるハムスターを一笑した後、

「『動物解剖ショー』」

「やめようよそういうの。もっと平和的かつ常識的なのにしようよ」

「じゃぁ、『人体解剖ショー』」

 彼女にとっては、対象が普遍的か否かが『常識』に深く関わっているらしい。

「生物部が動物殺すのは良くないんじゃないかしら」

 立川さんは少しずれた視線で難色を示し、

「だから動物に手ぇ出しちゃダメ!」

 比較的まともな意見で武蔵野さんは拒否をした。これに対し福生さんは肩を竦めてはみたものの、あまり残念そうな顔をしてはいなかった。

「京子ちゃんは何かあるかしら」

「え? え、と……」

 三人の人類にはハイレベルな提案に追従しようとしているのか、顔を真っ赤にしてあれこれと考えている。そんな無理に付き合う必要はないのだが、しかしどんなアイデアが飛び出るのか少し気になるところである。気になるので、僕は止めなかった。

「えー、えっと……」

 頭から煙が上がっているのが見えてくるような、そんな悩み方であった。それは二分ほど続き、ややあって、

「ち、『乳搾り』とか……」

 かなり現実的な意見に、僕は安心どころか感動さえ覚えた。しかし、立川さんと武蔵野さんは険しい表情で顔を見合わせた。

「ウシ以外も……?」

「さすが青梅くんの従妹。でもさすがに私は母乳でないし、まだちょっと心の準備が」

「とすると、私か京子ちゃんが頑張って母乳出すしかないわね」

 耳を塞ぎたくなるような会話である。

「う、ウシの! ウシのです!」

 慌てて訂正する京子ちゃんだが、この二人はそれを解った上で弄っている、はずである。

「ウシだけ……」

「やっぱウシだけか……」

 解ってたと信じたい。

「……っていうか、ウシいないよねここ」

 ふと思い出したので思わず口にしてしまったが、それが再び二人を盛り上げる結果となってしまった。

「やっぱりウシじゃないじゃないの!」

「これはもう京子ちゃんが出すしかないよね母乳」

「え、ええ……!?」

 お見せできないような顔でいたいけな下級生に詰め寄る上級生二人。同性でなければ通報しているところだ。いや、同性でもすべきだろうか。

「っていうか、母乳なんて出ないですよ! に、妊娠しないと」

 ちらと視線がこっちを向く。僕はそれを助けを求めているのだと解釈したが、どうしてこの変態二人を止めることができるだろうか。

 立川さんは京子ちゃんの視線を追って僕の方を見て、それから何かを耳打ちした。すると、京子ちゃんは顔を真っ赤にして立川さんの口を塞ぎ、さらに何かを小声で返した。それらのやり取りは聞えることがなかったが、立川さんの表情からしてロクなものではないだろう。

「で、出し物は決まったかね、諸君」

 いつの間にか入口に立っていた日野先生に僕らは驚いて声を上げると、心外だとでも言うような目で一瞥してパイプ椅子に腰かけた。

「なるべく楽なものにしてくれよ? 私は君らの青春に付き合う気は毛頭ないのだよ」

「うっわ、教育者の言葉とは思えないよ」

「そりゃそうだろ、武蔵野。最近『生物部ヨガ』をやってないからか、どうにも体の調子が悪くてな……どうも臭いがキツいのが食べれなくなったし、やけに気持ち悪い。胸が張ってきたような気もする」

 どこかで習ったような症状だ。

「先生、こないだお祭りの後できたっていうカレシと上手く行ってるんですか?」

 武蔵野さんの言葉に、日野先生は腕組み考え、

「こないだ誕生日にホテルに行った」

「ちょっとそういう生々しい話を中学生の前でするの止めませんか」

 僕の指摘にも日野先生は堂々とした表情で真っ向から否定する。

「その意味が解るのなら隠す必要もなかろう」

「っていうか先生、そこまで解ってて体調不良の原因ホントにわかんないんですか……」

 あまりの鈍さに立川さんが真面目な顔でそう訊くが、自称生物部顧問はきょとんとした顔をしている。

「……まさか、変な病気が感染したのか?」

「青梅、ちょっとこの大人に性教育」

「やだよ。立川さんがやってよ」

「?」

 さんざんあれこれ押し付け合った結果、どういうわけかその矛先は福生さんまで飛び火した。福生さんは至極迷惑そうな顔をしてから、

「さて、何のことだかさっぱりわからないわ」

 爽やかな笑みでとぼけて見せた。

「なんなんだ……お前たち、知っているならちゃんと教えてくれればいいのに。大人をからかって遊ぶものではないぞ」

「からかわれてるのはこっちなんじゃないかって思ってきましたよ。普段の下ネタはなんだったんですか」

 呆れて溜息を吐く武蔵野さん。教えたくても恥ずかしくて教えられない京子ちゃん。ひどく頭を抱えて悩む立川さん。我関せずといった様子でハムスターいじりを続行する福生さん。

「……まぁいい。とりあえず出しものだ。立川、何か決まったのか」

「今のところ最有力候補は『乳搾り』ですね」

「誰の乳を搾る気だ」

 タイムラグなしでこの言葉が出るのに、どうして気付かないのだろうか。

 結局「絞る乳がない」という根本的な理由で乳搾りは却下となった。しかしその代替案はロクでもないものばかりであり、ついには日野先生から『ハムスターレース賭博』などの危ない単語が飛び出し始めた。

「さすがにお金賭けるのは論外なんじゃないですか?」

「安心するがいいぞ。物の売買は禁止されているが、賭博が禁止とは通達されていない」

 それはわざわざ勧告するまでもないからだろう。

「ならば青梅が考えたまえよ。健全かつインパクトのある出し物をさ」

 不貞腐れたような顔で日野先生がそう言って、皆の視線が僕に集中した。ハムスターと戯れていたはずの福生さんまでこちらを向いており、僕の責任は重大だった。

 個人的にはただ単に動物たちの紹介やポップを展示するだけでよかったのだが、それでは立川さんが満足しないらしい。しかし売買禁止ともなれば多すぎる動物を売ることもできない。

「……賭博でないならアリかもしれませんね」

 ルールをぎりぎりのところで回避する方法で考えていきついた結論がこれである。

「何らかの動物でレースを行い、どの動物が最初にゴールするかを当てる。当たれば豪華賞品プレゼント、でどうでしょう」

「それは賭博と同じじゃないか」

 不満そうな日野先生に、僕は首を横に振った。

「飽くまでもクイズです。倍率などがないので学校が禁止したい形の賭博にはならないかと。正解者が用意した商品の数に納まるまでレースを続ければ……」

 一同は顔を見合わせ、仕方なしとばかりに頷いた。実際のところ、皆考えるのに飽きてきていたのだろう。

「他に異論がなければこれで決定ね。青梅は責任を持って詳細を考えてくるように」

「ちょ、全部押し付け!?」

「まさか、人聞きの悪い」

 その微笑みはまるで腐った海のような笑みであった。

「全面的に信頼してるのよ」

 信頼。便利な言葉である。




■  ■




 立川さんに押し付けられた課題をどうやってやり過ごすか考えていた翌日の清掃の時間。廊下を掃きながら物思いに耽っていると、最近になって関わりを持つようになった男子の一人がひそひそと話しかけてきた。確か、僕の記憶が確かならば、昭島という名の男子である。サッカー部のエースらしいが、そもそもサッカー部は人数が全く足りていないために機能していないので、なにをもってしてエースを名乗っているのかは定かではない。

「なぁなぁ、青梅。お前、立川と仲いいよな」

 彼は声を潜め、周りを気にするようにそう囁く。僕は耳がこそばゆくて顔を遠ざけ、

「まぁ、悪くはないと思うよ」

「あのさ、ちょっと頼みたいことがあるんだけど、後で体育館裏で待っててくれない?」

 なんだかどこかで聞いたことのあるような言葉だ。ここの生徒は体育館裏に呼び出す掟でもあるのだろうか。

 とりあえず僕は待ち合わせを了承し、掃除を終わらせて、部室にいた武蔵野さんと福生さんに少し遅れる旨を伝えてから体育館裏へと向かった。

 相変わらず狭いそのスペースで空を見上げて待っていると、こそこそと昭島くんが挙動不審なまでに注意深く辺りを見回して体育館裏の狭いスペースに入り込んだ。まさか彼も僕を特殊性癖に付き合わせる気なのだろうか。

「わざわざ悪いな、青梅。実は折り入って相談があるんだが」

「り、リモコンならいらないよ」

 先制攻撃でそう言うが、昭島くんは小さく首を傾いで、

「リモコン? 何のことだかよくわからないけど、俺の頼みっていうのはな、その……」

 言いにくそうに口ごもり、落着きなく体が揺れている。ややあって彼は決意を固めたのか、深く息を吐いて一息に言った。

「実は俺、立川のことが好きなんだ。だけど俺はいつも怒られてばっかりだし、立川は真面目だからこっちから絡みに行きにくくて……だから、立川と仲がいい青梅に、ちょっと仲を取り持ってもらおうと思って」

「いいわよ。その話、引き受けましょう」

 昭島くんの言葉に答えたのは、僕ではなかった。どうやらこの流れはこの学校の形式美らしい。部室にいたはずの福生さんは昭島くんの背後で白髪を揺らし、なんとも愉しそうな表情で微笑んでいた。

「ひぃっ! ふ、福生!? いつの間に……」

 本気で驚く昭島くん。噂だけでなく、福生さんが彼らの前で何かをしたのではないかという疑惑が生まれた瞬間であった。

「どう、青梅くん。これってつまり、青梅くんの言うところの『愛』なんじゃないかしら? それを身近で観察するのはとても勉強になると思わない?」

「なんだか上手いこと言いくるめられてるような気もするけど、一理くらいはあるかな」

 小動物に対する愛護精神が効果薄であるなら、人間の恋愛感情を見て学ぼうというのは当然の流れといえよう。むしろ始めからそうしていれば、ハムスターが一匹死なずに済んだだろう。しかし、福生さんから進んでこのような提案をするというのは、とても嫌な予感がする。それは昭島くんも同じようで、なんとも不安そうに眉を傾けていた。

「ふ、福生も立川と仲いいの?」

 そう訊く昭島くんに、福生案は悪びれもせず頷いてみせた。

「それはもう。大親友と言っても過言ではないわ」

 過言である。

「どれくらい大親友かと言えば、誰も知らない秘密を共有しあってるくらい」

「まぁ確かに」

 僕の付け足した肯定の一言に、昭島くんはやや懐疑的ながらも食い付いてきた。

「……その秘密って」

「それは自分で訊いたらいいんじゃない?」

 福生さんはなんとも愉しそうに笑った。もし昭島くんが立川さんの秘密に触れたとしたら、それはきっと昭島くんの中の『立川さん』が終わりを迎える時だろう。まさかあの、怒りっぽいが真面目で統率力がある優等生の鑑のような立川さんが、そう振る舞っている時でさえ振動する大人の玩具を仕込んで性的快感に溺れていて、なおかつそれが周囲にバレるかどうかというスリルを味わっているなど、誰が想像できるだろうか。

 昭島くんは福生さんをじぃっと見つめ、それから頭を抱えて呻り、ややあって、

「……わかった。頼むよ福生。俺、卒業までに立川と恋人同士になりたいんだ」

 決意を固めた目をしてそう言った。グッド、と福生さんはなかなかの発音でそう言って、不気味な笑みを浮かべた。


 かくして、久々に福生さんの『レッスン』が始まった。ロクな結果が待っていないと知りながらも、僕は福生さんがどこへ向かうのか見てみたかったのだ。




「と、いうわけで昭島くんが文化祭の間だけヘルパーとして入部することになったわ」

 僕と福生さん以外の生物部メンバーは一様に「一体どういうわけなんだ」というような顔をして昭島くんを見つめ、日野先生は実際にそれを口にした。

「別に人数増えるのは構わないけどな、これだとますます生物部ヨガがやりにくくなる」

「やらないでください。やっても脱がないでください」

「そうは言うがな、青梅兄。やっぱり脱いだ方がいいんだ。むしろ脱がないと意味ないんだ。だから脱ぐんだ」

「そういうのはトイレでやってください」

 日野先生は「その手があったか」と感心したように呟いて文句を飲み込んだ。肝心の立川さんは突然の戦力増強に驚いているようで、勝手に物事が進められたことにたいする不快感も少々織り交ぜながら、

「まぁ、いいんじゃない」

 一応の了承を得た。これには昭島くんの頬も思わず緩み、福生さんに肘で突かれてすぐに真面目な顔に戻した。

「そういうわけで、宜しくお願いします!」

 改まって同級生に敬語で挨拶をする昭島くん。こんなに純真な気持ちでいるのに、まるで騙しているような気がしてきて、さすがの僕も良心が痛んできた。ような気がする。

「それじゃぁ、早速仕事をしてもらおうかな」

 立川さんはそう言うと、ロッカーから金属製のバケツとブラシを取り出し、それを昭島くんに手渡した。てっきり文化祭の準備をするものだと思っていたので、文化祭が全く関係なさそうなその備品に、昭島くんは目をぱちくりとさせていた。

「郷に入っては郷に従え、って言うでしょ? まずはイノシシとポニーのブラッシングからね」

 ナチュラルな笑顔で仕事を押し付ける立川さんは、確実にサドの気もあるだろう。利用できるものはなんでも利用する。恐ろしい女子である。

 それでも昭島くんは文句ひとつ言わずにバケツとブラシを持って家畜小屋へ駆けて行き、部室にはわずかな静寂が訪れた。

「……っていうか、普段やってないよね、イノシシのブラッシング」

 あまりにも自然と口にしたので気付かなかった事実について訊ねると、立川さんと武蔵野さんは顔を見合わせ、

「使える者は親でも使う」

「ボランティア精神は大切よ、青梅」

 口々にそう言って、僕はゆっくりと口を閉ざした。




■  ■




 文化祭の準備と言っても、大したことをするわけではないので忙しくもなんともなかった。ハムスターレース用のコースは昭島くんが意外な日曜大工スキルを発揮して一日で作製し、景品などについての手配も昭島くんと立川さんが行った。

「青梅くんもなかなかワルだねぇ。新人引っ張ってきて全部仕事を押し付けるなんて」

 昭島くんの働きぶりを見ながら、武蔵野さんはゾウガメにキャベツをやりながら他人事のようにそう言った。

「まぁ、幸せそうだしいいんじゃないかな」

 僕も他人事のようにそう言うが、武蔵野さんは昭島くんの入部の理由を知らないという体なので、深く言及はできない。もっとも、武蔵野さんは言われずとも昭島くんの入部の理由に勘づいているようであるが。

「ところで青梅くん、福生さんはアレ、なにしてるのかな?」

 武蔵野さんが指差す先には、金魚の水槽へ何かを混入しようとしている福生さんの姿があった。スポイトに保管されているそれは、紛れもなく『福生スペシャル』である。なんでも配合を根本から見直したとかで、目指すは『苦しまず死ぬ』というものらしい。

「福生さーん。ここで『福生スペシャル』は勘弁して」

「ここじゃなきゃいい?」

 無垢な笑みでそう訊かれるとつい「いいよ」と快諾しそうになるが、余所でもどこでも駄目なものは駄目である。

「無駄な殺生は生物部のやることじゃないって」

「無駄だなんて失礼ね。ちゃんと『福生スペシャル』の毒性を検証するのに役立ってるわよ」

 頬を膨らませて怒った素振りを見せるが、威圧感も説得力もなにもなかった。

「そもそも、『福生スペシャル』が完成したとして、どうするの? 何に使うの?」

 これは出会った時からの疑問、ではない。最初はただそれが猫を殺戮するための毒薬だと思っていたが、最近になってそれは『過程』でしかないのだと気付いたのだ。福生さんはそれを「実験」だと言っていた。ということは、『本番』がいずれどこかで行われるはずなのだ。

 福生さんは途端に白けたような顔をして、『福生スペシャル』を懐に戻した。ゆっくりと目を閉じ、何かを堪えるように唇を固く結んでから、

「そうだわ、青梅くん。他の部活の準備も見てみない?」

 全てをリセットしたような清々しい表情でそう訊いた。僕はその豹変に唖然とし、答えかねている間に福生さんによって部室の外へと連れ出されてしまった。




 生徒の数に比べれば部活の数は多い方だとは思うが、どの部も少人数であるために大掛かりな出し物などは予定されていないようであった。僕と福生さんはそのささやかな作業風景を見て回り、最終的に敷地の端の木陰へ腰を落ち着けた。

「青梅くん、何か楽しそうな出し物はあった?」

 そう訊かれ、僕は首を傾いで、

「そもそもなんの準備してるのか判らないとこの方が多かったからね。サッカー部はPK体験みたいだったけど」

「あれはいいアイデアだったわね。なんの準備もいらないもの」

 サッカー部ではひたすらにキーパーがブロックの練習をしていたが、人数不足の幽霊部とはいえ素人相手に本気で受け止める気でいるらしい。

「もしかして、福生さんってお祭り好きなの?」

「ええ、そうね。騒がしいのはあまり好きじゃないけれど、普段から見慣れた景色が普段と違う装いを見せるというのはなかなか好きよ」

 以外にも素直に認めた福生さんは、にわかに活気付く校舎を遠巻きに見つめていた。言葉どおりに楽しそうでありながら、どこかに寂しさを抱えたようなその表情。何を憂いているのか、それを語ってはくれない。何か核心に触れようとすると、彼女はそれを拒むのだ。その拒んでいる心の奥底に、僕は彼女の現在を形作る『何か』があるのではないかと思っている。

 とは言っても――――

「訊いたりとかできないよなぁ」

「うん?」

 うっかり口をついた心中に、「なんでもない」とやや慌てながらそう言ってはぐらかした。

「それより、そろそろ戻ろうよ。昭島くんに押し付けるのは悪いし」

「あら、そういうことなら戻って二人を邪魔する方が『悪い』んじゃない?」

  福生さんのなんとも愉しそうな顔に、僕は昭島くんの頼みに福生さんを巻き込んだ事を深く後悔した。明らかに「何か起こそう」という意思が見て取れる笑顔なのだ。

「きっと今頃動物たちに混ざって交尾でもしてるんじゃない?」

「ま、まさかそんなことは……」

 ない、と言い切れない自分が情けなかった。立川さんの変態的嗜好がどこまでを許容するのかは理解の届かぬところではあるが、さもありなん、と思ってしまったのだ。

「それとも、青梅くんは『そんなこと』してるの見たいの?」

「そういうわけじゃないけど……とにかく、一度戻ろう。そこで、その、なんかしてたらまたぐるっと回ろう」

 僕の提案に、福生さんはまた別の笑顔で答えた。

「そうね。なんかしてたらいいわね」




 プレハブの入口の窓からこっそり中を窺うと、どうやら立川さんと昭島くんが何かを話しあっているようだった。昭島くんのその表情は真剣そのもであり、緊張が見て取れる。

「あらら。仲好くなるためのびっくりどっきりイベントをこっちで仕込もうと思ってたのに、もう我慢できなくなったのね」

「びっくりどっきりって……」

 福生さんの知識年齢を疑うが、それを理解している僕自身も大概である。

「音聞こえにくいわね」

 そう言って、福生さんはゆっくりと部室の扉を開いた。ほんの少しの隙間を開けて、そこに耳を押しつける。こうなれば一蓮托生、と僕も耳をつけて中の会話に耳を澄ました。

「で、何が言いたいの? 言いたいことがあるならハッキリ言って」

 立川さんの鋭い声に、昭島くんは口ごもらせる。彼はどうやらここで勝負を仕掛けるようだ。僕はてっきり、これを機にじっくりと関係を深めるとばかり思っていたのだが、どうやら思い違いがあったらしい。

「あの、さ。その……立川、好きな人とかいる?」

 及び腰になって探りを入れ始めた昭島くんに、福生さんは小さく舌打ちをした。

「歯がゆいわね……もう押し倒しちゃいなさいよ」

「福生さんはもっと物事の順序とか考えた方がいいと思う」

 再び聞き耳を立てる。立川さんは怪訝そうな顔で首を傾げて、

「いないけど……それが何よ」

「あー、えっとさ……その、立川は恋人とか欲しくない、かな、って」

 そこでやっと立川さんは昭島くんの意図に気付いたようだった。しかし、恥ずかしがるような素振りも見せず、ただ表情を険しくして小さく咳払いを一つした。

「……まず、告白ならハッキリとしなさい」

「え、ごめん」

「それで、その答えに関しては、ノーよ」

「え……」

 まだ告白すらしていないのに、完全な拒否。昭島くんはこの世の終わりを見たような顔をし、福生さんは口に手をやって笑いを堪えている。

「なんで駄目なんだよ? 理由くらい教えてくれないと納得できない」

「そうね……じゃぁ聞くけど、昭島は私が私の顔面を思い切り殴るように命令したら実行できる?」

 昭島くん完全硬直。何を言っているのか理解できないだろう。それは仕方ないことだ。僕もあのリモコンを渡される前に聞かされればああなっていただろう。

「で、できるさ」

「本当? この眼鏡を割ってフレームをへし折って、私の鼻の骨も頬骨も自分の拳も砕く覚悟で、全身全霊を込めて腰のひねりも加えたその時出せる全力の力で私の顔面を躊躇なく殴れる?」

「……やれって言うなら、できる」

「あれ絶対嘘よ。そんなこと言うはずないってタカ括ってるんだわ」

 福生さんは肩を震わせ笑いながら小声で解説してくれた。それにしても酷い顔である。悪党のそれである。

「なら、殴りなさい」

「え?」

「殴りなさい。全力で、よ。仮にも運動部でしょ? 軽いビンタみたいなのだったらあんたの股間にワニガメぶら下げるわよ」

「いや、ちょっと……今?」

 冷や汗を流す昭島くんに、

「今よ。ナウ」

 冷たい視線の中に興奮を隠している変態クラス委員、もとい立川さん。どっちに転んでも彼女にとっては美味しいに違いない。過酷な環境での生存に適した進化だろうか。

 昭島くんはなんとなく拳を引いてみるが、しかし殴る気はさらさらないようであった。

「どうしたの? ほら、早く。全身全霊よ。意味わかる? 一切の手加減無用。撲殺するつもりで殴りなさい」

「でも」

「さぁ!」

 背中を押すその声にも昭島くんは手を出せず、振り上げた拳をゆっくりと下ろした。

「無理だよ……俺にはできない」

「それは愛がないからじゃない? 愛があるならなんでもできるでしょ?」

「愛があるから殴れなかったんだ!」

「詭弁ね。愛があるなら、私に与えることができたはずよ。だって、拳なんて愛がなくても与えられるもの。失う物も何もない簡単なものさえ与えられないのは、愛がないから」

「そ、そんなことない! 第一、愛があろうがなかろうが、いきなり殴れって言われて恨みもない人間を殴れるやつなんていないって!」

「いるわよ。ねぇ?」

 立川さんは、これまた福生さんに負けず劣らずの悪い笑顔でこちらを向いた。どうやら気付かれていたらしい。

「なんだ、気付いてたのね」

 福生さんは颯爽と引き戸を開けて部室へ踏み入れた。立川さんはその瞳をじぃっと見つめ。

「福生さんなら、殴れって言ったら殴ってくれるわよね?」

 立川さんのその問いへの返事は、言葉ではなく強烈なボディブローであった。さすがの不意打ちに立川さんは目を見開いて口から唾液やなんやかんやが迸り、床に膝から崩れ落ちて転がった。

「な、福生てめぇ!」

 昭島くんが福生さんに掴み掛かるが、福生さんは歪な笑顔を浮かべている。

「昭島くん、それ見なさい」

 そう言って福生さんは転がる立川さんを指差した。昭島くんはその先を見て、そしてすぐに目を逸らした。

「た、立川! な、なな、なんで」

「なんでパンツを穿いてないか? 鋭い質問ね、昭島くん。どう、立川さん。答えられる?」

 そう訊かれたが、いい具合に鳩尾に入ってさすがに答えることはできないようで、立川さんは捲れているスカートを直そうともせずに腹部を抑えながら首を横に振った。

「なら私が答えてあげる。ほら、昭島くんよくみなさい。立川さんのアソコ、濡れてるでしょ?」

 そう言われても昭島くんは視線を床に向けたままで、やがて前屈みになりながら蹲ってしまった。

「立川さんはね、鳩尾殴られて興奮してんのよ。予想していた顔面じゃなくて不意打ちのボディがキマってイってるの。一言で言えば変態よ、変態! ドが付く変態! ド変態!」

 立川さんの体が小刻みに痙攣している。痛みのせいではないだろう。

「そう、昭島くんが告白しようとしていた『厳しいけど真面目なクラス委員』はここにはいないのよ。ここにいるのは、自分を本気で殴れる男しか認められない変態一匹。あちこちで盛ってオナニーする困ったエロメガネサル。今こうして罵られながらも興奮してんのよ。無様よね。こうはなりたくないわ」

「そ、そんな……」

 額を指でつんと押された昭島くんはそのまま後ろに倒れて尻もちを搗いた。その股間は大きく膨れ上がっていて――――福生さんの視線はまるで汚物を見るようにその股間に向けられていた。

「あなたも相当ね。お似合いなんじゃない? 自分が恋した相手がノーパンノーブラで過ごす色情魔のド変態だったって知って興奮してるんだもの。ほんと、気持ち悪い」

 しかし、昭島くんは別にマゾではないらしく、涙を浮かべて俯いてしまった。僕はこの地獄絵図が自分の青春なんだと思うと途端に頭が痛くなってきた。

「な、なんだよ、人のこと変態変態って……お前だってそうだろ! この猫殺しの人殺し!」

 昭島くんが苦し紛れに口にした言葉を、福生さんは清々しい顔で耳に入れた。僕はてっきり激怒したりするのではないかと思ったが――――まるで、そう、待ってましたと言わんばかりの表情だった。

「ええ、そうね。変態とは聞き捨てならないけど……たしかに私は猫を殺すし、人も殺したわ。ついでにハムスターもね」

 僕は言葉が出ない。清々しい表情とは裏腹に、どす黒い何かが福生さんの口から零れ出ているような気がしたのだ。

「私はつい数年前にクラスメイトを一人殺したわ。両親もね。知ってるでしょ? 有名だもの。そうよ、噂は本当。私が殺したわ。これでどう? 結構かしら? おなかいっぱい?」

 福生さんの顔が、ゆっくりと昭島くんの顔に寄る。互いの鼻先が突き合わさるのではないかという距離で停止して、福生さんは小さな声で言った。

「だったらどうしたっていうの? 私を凹まそうとした? そう言えば私が傷ついて口を噤むと思った? 浅はかにも程があるわ。そんな凡庸な考えが異常者に通じると思ってんの? 私は全部受け入れてる。本当のことを並べられても事実確認にしかならない。はい、そうです。その通りであります。みんな知ってることをそのまま肯定するだけの事務的なやり取りよ。冗談じゃないわ。私はあなたたちとオフィスごっこするためにこんなクソ溜めみたいな場所にいるんじゃないのよ。そんなこともわからないの? 私があなた達と楽しいスクールライフ送ってるように見えた? ほら、そこの痴女見なさいよ。彼女が真面目に勉強してるのが、ここで事実確認遊びをするためかしら? 違うわ。断じて違う。ただ惰性で通って、ついでに性的快感を貪ってるに過ぎない。あなたはどうなの? ただセックスの相手探してるだけなんじゃない? その持て余したナニで貫いて孕ます相手を漁りに来てるんでしょ? 上辺だけが好みの立川さんを内面まで好きだなんて法螺吹いて、家に引きずり込んでヨロシクやるつもりだったんじゃないの?」

 昭島くんは言葉が出なかった。これだけ悪意が込められたセリフを、晴れ晴れとした顔で言っているからだ。まるで顔と声が別々かのような、吹替えを間違えた映画のような――――奇妙で、得体が知れず、それは僕が知っている福生さんではない。いや、この時、僕は福生さんの心に触れたのだろう。初めてその汚濁の表層に指先を漬けたのだろう。だから、僕はつい口をついてしまった。彼女のその言葉にどうしても納得できなくて、ちょっかい出したくなってしまったのだ。立川さんと違ってそれを望んでいないと知りながら。

「でも――――福生さん、確実に気にしてるよね」

 その時の福生さんの顔は、恐らくは仮面の一番奥のものだった。怨敵を睨むような目。その目に食われるのではないかと思わせる鋭い眼光。それでも僕が言葉を続けたのは、なんの危機感も持っていなかったからだろう。

「気にしてるから昭島くんを責めてるんでしょ? 気にしてなかったらそんなムキになることないでしょ」

「……」

 福生さんは答えない。小さく瞼を閉じ、数秒天井を仰いで、

「……そう、ね。そうかも知れないわね」

 そう言ってゆっくりと立ち上がり、僕の脇を抜けてプレハブを出ていってしまった。それからややあって昭島くんもプレハブを抜けだし、部室には僕と立川さんだけが残った。

「……何アレ。割と本気でビビったわ」

 そう言ったのは立川さんだった。立川さんは腹を抑えながらゆっくりと体を起こし、深く息を吐いて呼吸を整えてから椅子に座りなおした。

「あんな風な福生さん初めてよ。びっくりしておしっこ漏らしちゃった」

「そういう報告はいらないから」

 僕はあまりにも気が重くて、とりあえず立川さんの尿を拭くためにモップを探した。そうしている間も福生さんの顔を忘れることができず、その日はずっと福生さんのことだけを考えていた。




■  ■




 その翌日。僕は昨日のことを半分くらいは謝ろうと思って登校したのだが、その日は授業が始まっても福生さんは姿を見せなかった。教師と大半の生徒は特に気にする様子もなかったが、僕は一日中そのことが気掛かりだった。

 授業が終わって下校の時刻になると、部室へ向かおうとした僕を立川さんが呼び止めた。僕は起こした腰を再び椅子に落ち付け、立川さんが突き出したプリントの束を手に取った。

「それ、福生さんに届けておいて」

「うん、いいけど。でも家知らない」

 そう言うと、立川さんは僕の持つ紙束の裏を指で突いた。裏返すと、一番裏にはコピー用紙が差してあり、真っ白な表面に赤色のペンで簡単な地図が書いてあった。その目的地と思われる星印の隣には「103」と書かれていた。

「アパート暮らしなんだ」

「そうらしいわね」

「立川さん行ったことある?」

 立川さんは首を横に振る。とすれば、この地図は教師が書いたのだろう。

「その辺、この村でも割と治安悪いから気を付けてね」

「あ、ここにも治安悪いとこってあるんだ」

「治安が悪いっていうか、オブラートに包んで言うと『変な人』がいっぱいいるところ。まぁ、まず子供は近寄らせないわね」

 福生さんの家ということでやや好奇心が勝っていたが、今の話で天秤は行きたくない方へと傾き始めた。誰が好き好んで危険な場所に行くのだろう。

「何年前だったかな……確か、小学生があの辺りで誘拐されて、井戸の中で発見された事件があったわ。脚に漬物用の重石を結ばれて投げ落とされたんですって。その前に散々『色々』されたみたいだけど」

「……は、犯人は捕まったよね?」

 そう訊くと、立川さんは小さく肩を竦めて見せた。

「一度はね。でも、責任能力なしってことで無罪放免。精神病院に入ったとか遠くに引っ越したとか色々噂は聞くけど、実際のところはわからない。ただ一つ言えるのは、あの辺は他の集落とは離れていて、厄介者を住まわせるのに都合がいい立地、ってこと。後は言わなくても理解してくれる?」

 嫌なほど理解した。

「つまり、『素質』がある人がまだ眠ってるわけだ……」

「そういうこと。磨けば光る原石がごろごろと。露出、徘徊は日常茶飯事。触る触らせるはよくあること。それ以上も、稀に。正直、あの福生さんとはいえよくあんな所に住んでるわよね」

「これ、僕一人で行かないと駄目かな。なんかものすごく頭痛いんだけど」

 せめてもの慈悲を求めるが、被虐趣味と嗜虐趣味趣味を持ち合わせた変態女神さまは笑顔でこう告げられた。

「四足歩行のお供を連れていけば?」




 立川さんの話を聞いたからか、その地域は他の場所とは全く違う雰囲気を感じさせていた。まばらにある建物はどれも傷んでおり、窓が割れたままに板が打ちつけてあるだけというものもよく見られる。すれ違う人は不機嫌そうに僕を見つめるか、そもそも僕が目を逸らしたくなるような人しかいない。イノシシを連れてきて本当によかったと安堵する一方で、このイノシシが逃走したら新たな厄介の種になるのではないだろうか、という危惧もあった。

 五歩ほどで渡れる小さな橋を越えると、そのアパートはあった。何度地図に目を落としても間違いはない。

「……ここ、人住んでるのかな」

 というのも、アパートはどう見ても二階建てなのだが、その二階の廊下へ続く鉄板製の階段は朽ちて落ちていたのだ。もしここに福生さんが住んでいるという情報がなければ、僕はこれをただの廃墟として素通りしてしまっていただろう。壁も蔦が絡まっているし、周囲には廃棄されたタイヤやゴミ袋が詰まれている。平時であれば絶対に近寄らない場所だ。

 周囲を見渡しても、やはりそれらしい建物はない。そもそも、土地があり余っているこの村にはアパートというものがほとんど存在していないのだ。

 僕は恐る恐るアパートへと近寄り、103号室の扉の前に立った。扉の左隣にある郵便受けからはダイレクトメールが溢れており、その真下に置かれたバケツには淀んだ水が溜まっている。饐えた臭いを放つそれの中にはボウフラか何かよく判らない虫が湧いていて、僕は思わず目を強く瞑ってしまった。目を開いてもそれはまだそこにあった。夢ではなかったのだ。

 カビの生えたインターホンのボタンを指先で押すと、きちんと現代的な電子音がささやかに鳴り響いた。

「ごめんくださーい」

 言葉も添えてみるが、返事はない。もう一度鳴らしてみるが、やはり返事はない。

「……留守なのかな」

 そう思ったがもう一度だけ、とインターホンを押す。すると、中からどすどすと床を踏み鳴らして近付く音が聞えた。直感的にだが、それは福生さんのものでないなと思った。

「おい、うるせぇんだよ。一度鳴らして出なかったらさっさと失せろやこのボケ」

 扉を開けながらの罵声に、僕はなんて言葉を返していいのか判らなかった。やはり恐怖は感じなかったが、恐怖を感じないことに対しての危機感は感じていた。

 半開きの扉から覗く男は、年齢的には五十台後半といったところだろうか。脂っぽい肌。広い肩幅。筋肉質な腕と、似合わない金色のネックレス。お近づきになりたくない人ランキング堂々の一位獲得を目指せるその風体が、彼の立ち位置を物語っていた。

「あの、福生さんの分のプリントです。宿題の範囲も書いてあるので」

 まだ言葉の途中であったが、男はプリントを奪い取るとすぐにドアを閉めてしまった。直後に鍵を掛ける音がして、その後は物音一つしない。

「……あの」

 思わずイノシシと顔を合わせるが、イノシシは何も教えてはくれなかった。

 福生さんの様子も確認できなかったが、この状態では仕方ないと踵を返すと――――

「青梅くん……なんで、ここに」

 ――――いつかと同じ、顔の痣とビニール袋一杯の酒を持った福生さんがそこに立っていた。あの時は僕は何も判らなかったが、今なら判る。全ての辻褄が合う。ジグソーパズルが噛み合うように、全てにおいて納得できる。

 福生さんのその顔は青ざめていた。具合が悪いから、ではないだろう。

「青梅くん、会ったの?」

「え?」

「あの人に会ったの?」

 小さな声で、しかし語気は強くそう訊かれる。僕は小さく頷いた。

「ねぇ、福生さん。その痣って」

「青梅くん、帰って」

 福生さんは僕の横を通り抜けて扉の前に。僕に顔を見せないようにか、不自然にうつむいていた。

「青梅くん、お願いだからもう帰って。帰ったら従妹ちゃんとでも遊んで、今日のことは忘れて」

「でも」

「忘れて。誰にも言わないで。青梅くんはここになんの用事もなかったし、あったとしてもつつがなく終えた。いい?」

 僕は納得はできなかったが、その必死さに思わず頷いた。福生さんはそれを見ていないはずだったが、それでもきちんと伝わっているようだった。

「なら、帰って。明日はちゃんと学校行くから。だから、今日は帰って。そして二度とここにはこないで」

 いい? その確認に、僕は頷くことしかできない。頭の中がゆっくりと渦を巻き始めたが、それでも何かをすることはできない。僕にできることなど何もない。

「また、明日」

 僕はそう言うのが精いっぱいだった。福生さんは返事もせずに扉の鍵を開けて部屋に入った。その直後に聞えてきた男の怒号は、おおよそ言葉とは思えなかった。




 イノシシを学校に戻してから家に真っすぐ帰って、部屋のベッドに倒れ込んだところから記憶はなかった。気付けば僕はきちんと寝間着を着ていて、なぜかその隣で京子ちゃんが静かな寝息を立てていた。

「――――またか」

 頭の中は不思議なほどにさっぱりとしている。台風が過ぎ去った後の青空のように、曇り一つないように。

 ここにくるまではこんなことはなかった。正体不明の気絶と、その後の清涼感。吐き気があるならまだしも、むしろ気を失う前よりも調子が良いのはどういうことか。

「っていうか、もしかして京子ちゃんが着換えさせたのか?」

 思考の方向が一気に変換されてからは、元の方向へ戻ることはなかった。ふと違和感を感じてズボンを半分下ろしてパンツを確認するが、それは朝穿いていたものとは別のものであった。

「ということは」

 その先は考えないようにしようと思ったが、そう思った時にはもう考えてしまっていた。わざわざ僕を全部脱がせて着換えさせた献身的すぎる京子ちゃんの様子を。

 もう何から考えてよいのかわからない。考えることが多すぎて、何から手を付ければいいのか判らない。

 とりあえずもう一回寝よう。そうして目がさめればきっと、またいつものように戻っているのだと、そう信じて。



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