渓谷の村で

青浦 英

1:集落

  もし、そこが、市町村区分で言うところの市に属していると聞いたら、百人中九十九人は笑うだろう。千人だったら八百六十人くらいが笑い、百三十九人くらいが黙って首をかしげるかもしれない。

 しかし仮屋川という所は、市に属していた。

 少しだけ正確に言うと、宮崎県西都市大字室木字仮屋川という行政的名称で表される。

 そこは行政上は市に属しているのだ。

 あくまで行政上は、だ。

 仮屋川が、ずっと昔には小規模の領主がいて、やや昔は一つの独立した村で、もっとも人口の多かった昭和十一年にはおよそ百五十人が住んでいたこともあり、市町村合併が繰り返された結果、西都市に属するようになったと、たとえ熟知していたとしても、それが信じられないような所に、仮屋川の集落はあった。

 以上のような仮屋川の歴史をほとんどの人よりは熟知している男、金井広実にしても、全く同様で、彼は周囲の山の風景を見渡しながら、ここが本当に市なのか、と呆れる思いでいた。

 実は、金井がいまいる場所は、まだ仮屋川の集落ではない。そこから川沿いに六kmも下流へ下った室木の集落にいる。住所で言えば、大字室木の中心部である。言い換えれば、室木の集落の段階で、ここが市なのか、と呆れているわけだから、ここからさらに山奥へ六kmも入った仮屋川に至ってはどうなる事やら、と言うわけである。

 室木の集落は、西都市の中心部から、一ツ瀬川、室木川に沿って十九km進んだところにある。

 ここは、西の方から流れてくる奥貫川と、北から流れてくる室木川が合流するところだ。西都市からは二六番のバスで来ると、ここが終点である。

 奥貫川の方へさらに進んでいくと、四km先に、大野木原ダムというのがあり、小さなダム湖が拡がっている。そのダム湖をさらに西に進むと西米良村という村があり、やや離れた場所に村の中心部がある。ずいぶん山奥の話のように聞こえる。もちろん山奥には違いないが、実は、この県の西部から整備された国道を北上すると、西米良村には一時間ほどで着くのだ。だから、県西部から行けば、それほど山奥という感じはない。

 つまりこの室木の集落は、ある意味で西米良村よりも山奥、県の山間部、その中央付近に位置するのである。

 金井広実が、周囲に迫る山を見回しながら、ため息を付いたのは言うまでもない。

 彼のいる場所は、室木のバス停の前である。二六番のバスはここで終わる。すぐそばに空き地があり、そこにさっきまで乗っていたバスが停まっている。ドアは開けっ放しで、運転手はと言うと、バス停横の小さな待合室の長椅子に寝転がってさっそく昼寝を開始していた。次の発車時間まで休むつもりなのだろう。三時間に一本もないような所だから寝坊する心配もないだろうし、バスが盗られるなんて発想はもちろん無い。

 ここから、さらに上流の仮屋川まで行かなくてはならない金井にとっては、交通の手段を探さねばならない。

 彼はバス停の所で周囲を見回した。

 タクシーは一台も停まっていない。

 当たり前かもしれないが、普通、ちょっとした田舎では、バスの終点のところにタクシーも二、三台いる。高齢者が病院へ行くためとかに使うから、需要があるのだ。しかし、非常に田舎になると、タクシーすらいなくなる。

 バス停の周囲には、道路を挟んで三~四軒の店があるだけで、あとは十数軒の住宅が軒を連ねているのみだ。果樹園や畑が若干あり、あとは山である。よくみると、山の中にもポツポツと家が見える。道路には車一台走っていない。家々の端の方に白い軽トラックが停まっているのが見える。

「どうかしたのかい」

 軽トラックを見ていたら、真後ろから声をかけられた。

 振り向いてみると、おばあちゃんが一人立っていて、こっちを見ていた。

「あ、どうも、こんにちわ」

 彼が挨拶すると、おばあちゃんは、はい、こんにちわ、と挨拶を返し、

「どうかしたのかい」

 と再度訊ねた。

「あ、いえ、実は、仮屋川へ行きたいのですけど、バスがここで終わってしまったものですから」

「ああ、そうね。仮屋川へ? 仮屋川ならまだずいぶん先だねえ」

 とのんびり答える。金井はこのおばあちゃんによって何かしらの解決法がもたらされるという期待を捨てた。

「ん、どうした?」

 と今度は中年の男性が現れて、声をかけてきた。金井の方をうさんくさげに見る。

「ああヒトシさん、じつはね、この人が仮屋川へ行きたいっていうとるんよ」

「仮屋川へ?」

 ヒトシと呼ばれた男は、再度、金井の方を見た。金井はややとまどいながら、どうも、と言う風に頭を下げる。

「仮屋川へか。ここから上流へ五・六kmはあるなあ。ま、道は一つしかないから迷うことはないが」

「ヒトシさん、あんたんとこの車で送ってあげたらどうね」

 男は困った表情を浮かべた。

「そうしてあげたいんだが、わしは今から用事があるからな」

「あ、いいんですよ。五・六kmなら歩いていきます。まだ昼前だし、歩いても夕方前までには着くでしょう」

「いいのかい? 誰か車を持っている人でも探してこようか?」

 都会暮らしの金井は、何となく人付き合いが深まるとどうして良いか判らなくなるため、遠慮したくなった。

「いえ、大丈夫です。健康にもいいですし、歩いていきます。あ、どこか食べ物を売っている店とかありますか? 途中で食べたいんで、おにぎりとかサンドイッチとかだと良いんですけど」

 言うまでもないがコンビニはない。昔は食べ物も売ってたかも知れない古ぼけた商店は閉まっていた。

「なら、わたしが作ってあげよう」

 そう言って、おばあちゃんは、彼が断ろうとするのにも気づかず、すぐそばの自宅へ連れて行き、手ずからおにぎりを握ってくれた。アルミホイルに川魚の酢漬けと卵焼きを一緒に入れて包み、おにぎりと共に彼に渡した。

「どうも、ありがとうございます」

「ところでおまえさんは、仮屋川に泊まるのかい? あそこには旅館とかはなかったと思うが」

「えーと、仮屋川の人に泊めてもらうことになっているもので」

「ああ、そうなん。でもそれなら、そこの人は迎えにこんのかい。電話番号判るなら、電話を貸してあげようか?」

 と、電話を指し示した。なぜか昔懐かしの黒電話でなく、最新のFAXやブラウザ機能の付いた豪勢な電話である。このおばあちゃんが使うんだろうか、と金井は思った。ネットはこんな山間部でも普及しているのだ。

 もっとも、携帯があるのだから、借りるまでもない。

「いやそれが、何か忙しいとかで、迎えには来れないと」

「向こうがそう言ったのかい? 冷たいねえ。そういや最近、あそこの連中とあまり親しく交流しとらんなあ。新年の祭りにも参加せんかったし」

 話が長くなりそうな気配がしたので、金井は少し早口になった。

「いえ、いいんですよ。もともと今回は、私の方からおじゃましたいと話を持ちかけたものなので」

「そうかい」

 金井は玄関から外に出た。

「仮屋川になんのようなんだい? 込み入ったことを聞く訳じゃないんだけども」

「歴史の調査なんです。僕、一応研究者なんで」

 おばあちゃんは理解したわけではなさそうだが、納得はいったようだった。こんな辺鄙なところに来るよそ者と言ったら、研究者とかそう言うものだろうと思ったのだろう。

「そうかい、それはたいへんだねえ」

 そう言って、道まで見送りに出てきてくれた。

「それじゃ。お弁当ありがとうございます」

「いいんだよ。気を付けてね」

 という挨拶を交わして、金井は室木の集落から上流へと歩き出した。しばらくおばあちゃんは見送っていた。



 室木の集落を少し離れると、すぐに左からは山がのしかかるように迫り、右には深い谷間が現れた。

 道はやや広めの一車線のみだったが、舗装もそれほど古くはなく、途中の大小のトンネルも明かりがついていて整備されていた。

 しかし、通る車は一台もない。

 異様なほどに静かで、聞こえるのは、川の流れる音と蝉の声だけだ。それらの音はもちろんそれなりによく響いたが、それでもなぜか、異様な静けさを感じるのだ。

 人工の音に満ちあふれた都会は、よっぽどうるさいのだろう。それとも、自然の音は騒音とは感じないので、静かな感じがするのかも知れない。

 彼は道路を川の方に寄ると、ガードレールから身を乗り出して、植物に覆われた崖を下の川まで見下ろす。川は急流で、大きな岩が点在し、水しぶきが白く光っている。

 見下ろしながら歩く。

 反対側の山側の岩陰になっているところから、わき水がでていた。シダ植物の生えている崖の途中から細い滝のように落ちてきている。水の大半は道路脇の側溝に落ちているが、一部道路に流れ出ていた。道路を横断し、谷川の崖の方へと流れている。

 水に手を当てると冷たくて気持ちよかった。

 わき水を飲んだり、景色を眺めたりして、谷間沿いの山道を歩いていく。

 しばらくそんなことをして進み、室木の集落から一時間も経った頃、

 とつぜん、この一時間の自然の中では聞こえなかった音が後方から聞こえてきた。

 彼は振り向いた。

 いくつものカーブが見え隠れしているが、そこを一台の車が走ってくる。

 やはり車の音は自然の音ではないため、こういう場所ではすごくはっきりと聞こえた。

 車はカーブを見えたり隠れたりしながらどんどん近づいてきた。

 やがてもっとも手前のカーブから四輪駆動車が現れた。

 車は金井の存在に気づいたのか、スピードを落とし、川側を歩いている金井の速度とほぼ同じまで低速になった。

 窓が開く。

「こんにちわ」

 金井は少し驚いた。運転席から顔を出したのは、女性だったからだ。なかなかの美人だ。

 もっとも、短めの髪に迷彩模様のバンダナをかぶり、うす茶色のTシャツの袖を肩までまくり上げ、日焼けした腕もたくましいコテコテのアウトドア系である。いささか、いまどきこのスタイル? という感じもする。

 彼女は言った。

「こんなところでなにしてんの?」

「えーと、歩いています」

 彼女は苦笑した。

「たいへんね。で、どこまで行くの?」

「この先の仮屋川ってところまでですけど」

「でしょうねえ。この先は仮屋川しかないから」

 そう言って、

「乗ってく?」

「いいんですか?」

「いいわよ。私も仮屋川まで行く途中だから」

 金井はその言い方にふと気づいた。

 反対側にまわり、助手席に乗せてもらう。背負っていたリュックとパソコンケースを後ろの席に置いた。

「なんか荷物重そうだけど、何が入っているの?」

「一方は服だけですけど、もう一方はパソコンとか周辺機器とかいろいろ入っていますから。でも最近のは軽いですけどね」

「ふーん。で、仮屋川まで?」

 彼女は車を発進させた。

「ええ。あなたは仮屋川にお住まいじゃないわけですか?」

「どうして?」

「いま、仮屋川まで行くっておっしゃったでしょう」

「ああそうか。私は村文麗香。アウトドア雑誌のライターしてるの。よろしく」

 そう言って、ダッシュボードに手を伸ばし、そこから名刺を一枚くれた。

「どうも。ぼくは金井広実です。大学院で研究してます」

 麗香はちらっと横目で金井を見ると、

「そんな感じね。よろしく学者さん」

 と言った。その言い方に金井は少しむっとしたが、

「それで、村文さんは仮屋川まで何をしに?」

「麗香でいいわよ。……いま言ったけど、わたしアウトドアの情報を載せている雑誌のライターなのよ。で、新しいアウトドア気分を満喫できる場所がないか探しているの」

「それで仮屋川に?」

「そう。ほら、一時アウトドアってブームになってたでしょう」

「はあ、よく知りませんが」

「なってたのよ。それで、それまでのキャンプ地とかさ、すごく俗化しちゃって。お手軽なキャンプ用品てあるじゃない。放り投げたらぽんと開いてテントになったり、スイッチ入れたらご飯炊けて、作る料理はレトルト系みたいな」

「はあ……」

「そんなのつまらないでしょう。やっぱ、枯れ木を集めて燃やして、飯盒でご飯を炊くようなのがいいじゃない。なのにそう言うのは楽しまないでさ、川原とか砂浜とかを車で乗りまわすわ、空き缶とか町から持ってきたゴミをそのまま捨てたりとか、台無しなのよね。それで、なんていうかそう言う俗化したキャンプ地じゃなくて、設備は整ってないんだけど、自然を満喫できるような所はないかなって、探してたわけよ」

「なるほど。確かにこのあたりには何もないですもんね」

 金井は窓から景色を見る。

「あなたは、学者さんとか言ってたけど、仮屋川に何しに行くの?」

 金井は麗香に視線を戻した。

「ぼくは、仮屋川の歴史を調べに行くんです」

「ふーん。あんな山奥の村の? 何か調べるようなことあるの?」

 つい今までその田舎が良いようなことを言っていたのに、その言い方の変わり様に金井は苦笑した。

「仮屋川の歴史ではなくて、この県の歴史を調べているんです。戦国時代の。で、その中でこの辺りの山間部のことが今ひとつ判らなかったんですけど、この間、ある史料を見ていたら、偶然この仮屋川のことが出てきて、それでこれまでの研究者はここを調査していなさそうだったので、調べてみることにしたんです」

「ふーん」

 麗香はさほど感銘を受けた様子もなく返事をした。

「じゃあ、それで村の人に、その……、なに? よくわかんないけど、歴史の話とか聞くわけ?」

「ええ。話ももちろんですが、戦国時代の仮屋川の領主と同じ姓の人がいたので、電話してみたら、子孫だって言うんで。古文書とかありませんか、と訊ねたら、あるような返事だったので、見せてもらえるか頼んだら、了承してくれたんです」

「ふーん、古文書ねえ」

 麗香はまた感銘を受けた様子もなく返事をし、それから横目で金井を見た。

「それ、いつ頃の話?」

「は?」

「いつ頃、村の人に了解を取ったの?」

「え……? 最初に連絡をしたのは二週間くらい前ですが、話がまとまったのは一週間前ですけど……。それが?」

「ううん。別に。……そう、一週間前か」

「……? どうかしましたか?」

「何でもないのよ。そう言うアポの取り方とかよくわかんないからさ。……ほら、私も取材であちこち行くでしょ。アポ取ってないと変な目で見られたりすることがよくあるのよ」

「田舎は保守的なところが多いですからねえ。よそ者を警戒するんでしょう」

 と金井も話を合わせた。

 しかし会話はそこでとまり、二人とも何となく黙ってしまった。

 室木の集落から仮屋川までの距離はわずか六kmほどなので、山道を歩いて二時間ほどの所を、車ではゆっくり行っても十数分で到着する。

 仮屋川の集落の手前に、少し長いトンネルがある。オレンジ色のランプが点いているのが前方に見えた。整備されているようだ。

 トンネルの入り口に「仮屋川隧道」と銘板があり、また青い看板に「仮屋川〇.五km」とある。ここまで、向こうからは一台の車も来なかった。

「あのトンネルを抜けると仮屋川ね」

「車だと早いなあ」

 金井がぼそっとつぶやいた。

「君は、仮屋川に泊まるの?」

「ええ。村の人の所に泊めてもらうことになってるんです」

 それからふと気づいた表情になって、

「えーと、麗香さんはどうするのです? どこかに泊まるのですか?」

 と訊ねた。訊ねてすぐに、余計な詮索をしていると思われやしないかと思い、

「あ、別に深い意味はないんですけど」

 と余計なことを言った。麗香は彼の考えていることに気づいたのか、くすっと笑い、

「私はアウトドアのライターよ。うしろ」

 と親指で後ろの座席を示す。

 金井が振り向くと、後ろの座席のさらに後ろ、荷台に寝袋やテントを畳んで入れた袋があった。

「ああ、キャンプ用品ですね」

「そゆこと。実際にキャンプしてみないと、紹介文は書けないでしょ」

「なるほどそうですね」

 車はトンネルに入り、車内がオレンジ色に照らされる。トンネルは四百mの長さがあったが、ほぼ直線だったので、前方に白く出口が見えていた。

 白い光が徐々に大きくなり、その向こうに緑色の色彩が見えてきた。

 ぱっと視界が開けた。

 青い空、緑色の山並み、森、そして木や丘の間から前方に家々が見え隠れしている。道路沿いにも数軒が家が並んでいた。畑が点在し、その向こうにも家がいくつか見えた。思ったより大きな集落だ。ただ、空き家も目立つ。蔦が這い、戸に板を打ち付けられ、庭は草ぼうぼう。朽ちかけている家もあった。

「へえ、これが仮屋川ね。いいところじゃない」

 麗香は速度を落としながらつぶやいた。

「こんな山の中なのに、結構家が建っているなあ」

 金井も感心したようにつぶやく。家の集中度で言えば、室木の集落とさして変わらない。

 前方、川の淵にこんもりと木の生い茂った丘があり、道はその麓左側を迂回するようにカーブしている。金井がその丘を見て、

「あ。あれは……」

「どうしたの?」

「前に見えている小さな山」

「あれがどうかしたの?」

「あれが、城跡ですね」

「え?」

 金井はリュックから紙を取り出してのぞき込む。

「なにしてるの?」

「地図を見てるんです。国土地理院の……」

 それから顔を上げて、景色を見回し、再度地図に視線を落とす。

「やっぱり。城の跡だ。なるほどなあ」

 何を感心してるのか、金井はうなずいた。

「よくわかるわね」

 麗香は特に感心した風でもなく、横目で金井の様子を見ながらあっさりとつぶやき、

「それよりさ、金井君」

「なんでしょう」

 と金井は地図を覗き込んだまま、返事をする。

「君をどこで降ろせばいいのかな」

 麗香は金井の方を見ながら、車のスピードをさらに落とした。

「あっ、そうか。ちょっと待ってください」

 あわてて金井はポケットから黒い手帖を取り出した。「歴史手帖」と表紙に書いてある。彼はページをめくった。

「えーと、仮屋川の川にかかっている橋の手前の道を左に上がったところに小学校の廃屋があって、そのそばに大きな家があって……」

 金井がメモを見ながらしゃべり始めたので、麗香はあわてて車を道路の脇に停止させた。

「ちょ、ちょっと。ゆっくり言ってよ。なに?」

 金井が、前に電話で話をした村人の言葉を記したメモによれば、仮屋川の集落の中央に、室木川の支流仮屋川が西から東へ流れている。支流は室木川と合流するが、その仮屋川の北側に仮屋川集落の中心部がある。金井の調査と宿泊になる予定の家は、川の南側、金井が城跡があると気付いた小さな独立丘とは道路を挟んで反対側のやや高台にある小学校の廃屋のそばの家だというのだ。

 つまり、道路脇に止めた車の中から見ると、目の前にあるのが城跡の丘、その向こうが仮屋川と室木川の合流点で、川の向こう岸に集落の中心部がある。目の前の丘とは道路を挟んで左の方に高台があり、木造校舎らしき建物の屋根が見える。

「すると、あの校舎のそばに大きな家があって、それが、泊まることになっているその家って訳ね」

「のようですね」

「そこでこの集落の人に会うわけ? えらい人なのかな」

「よくわからないんですけど、代々この村、この集落の領主や村長をやっていた家の親戚の人だそうです」

「集落の有力者ね。じゃあ、私も挨拶しておこうかな」

「麗香さんも?」

「一応キャンプを張るわけだし、ここの人に気を遣っておかないと、せっかくうまい紹介文が書けても、キャンプできなくなっちゃうしね」

「そうですね。それがいいかも」

「じゃ、そのえらいさんのところに行きましょう」

 麗香は車をスタートさせた。

 ものの二分で、坂道の上、廃校となった小学校の手前にある大きな家の前に着いた。立派な石造りの門柱があり、田代と表札がかかっていた。

「どうやらここのようです」

「田代さんか。さ、行きましょ」

 金井と麗香は車を降りて、玄関まで行くと、呼び鈴を押した。

 音は鳴ったが、家の中から何の反応もない。

 金井が再度押して、「すみませーん」とあまり大きくない声で呼びかけた。

 麗香が金井の方をちらっと見てから、

「どなたかおられますかー」

 と大声を出したので金井がびっくりする。

 家の中で、何か物音がした。それから、何かを引きずるような音がしたあと、唐突と言う感じで、足音が聞こえてきた。

 磨りガラスの向こうに人影が現れ、戸が少し横に開いた。

 老人である。顔だけ戸から出して、なんだかうつろな感じで、視線が定まらないような表情をしている。

「……だれだ」

 老人はいささかぎこちない感じで訊ねる。

「あ、どうも。昨日電話しました金井です」

「きのう? ……ああ、かない、じゃな。……しらべもの……調べものがあると言うことだな」

 老人はどもりながら言った。金井は内心眉をひそめたが、麗香は何かを窺うような表情で老人を見た。老人は麗香の方を見た。やはり、どこかうつろな視線である。

「だれだ」

「こんにちわ。私は村文麗香って言います。実は、アウトドアの雑誌に文章を書いていまして」

 と言いながら腰の右前にずらしていたヒップバッグに手を入れた。

 老人ががたっと音を立てた。びっくりしたような感じだ。

「……?」

 金井がその動きに眉をひそめた。麗香は気づかなかったのか、名刺を取り出すと、

「どうぞ名刺です」

 老人は、名刺の方を見ると、十秒ほどそれを見つめ、それから戸の隙間から手を伸ばしその名刺を奪うようにすばやく取った。名刺をじーっと見つめる。裏返して、また表を見た。まるで、名刺を見たことがなくて、初めて手にする、と言う雰囲気だ。

 今度は麗香も不審そうな表情をした。

「む、むらふみれいか、な、なちゅらりあんせんぞくらいたー、とうきょうとはちおうじし……」

 と老人が平板な口調で名詞を読み出したので、麗香はあわてて、

「え、えーと、その『ナチュラリアン』という雑誌に記事を書いているんです。キャンプ地情報とか、キャンプの方法とかをです。えーと、それでですね。この仮屋川にキャンプが出来ないかなー、て思いまして、それで調べに来たんです。えーと。この村でキャンプしてもいいでしょうか? もちろんゴミとかはちゃんと持って帰りますので」

 と、早口で言う。

「きゃんぷ……ごみ……」

「はい。ここしばらくは天気も良さそうですし、川原でテントでも張ってキャンプしようかな、と思っています」

「てんき……かわら……。てんと。川原で。川原でキャンプをする……」

「え、ええ。そうです」

「川原でキャンプ……」

 老人は文章をつなぎ合わせるようにぶつぶつとつぶやいていたが、急に頭の回転が速くなってきたのか、

「キャンプをするだけか」

 と突然はっきりした口調になった。

「え? ええ。キャンプするだけですけど」

「他の場所には用事はないのだな」

「ええ。食料もありますし」

「時間……どのくらい……どのくらいいる」

 と金井そっちのけで、麗香を詰問する。金井は内心不安が強くなってきた。大丈夫なのか、この老人。

「一応、三、四日程度を考えていますが」

 と麗香が質問に答えた。

「さん、よっか……」

 と老人は、ほんの少しだけ、またうつろな表情をした。三秒くらいその状態のあと、ぱっと意識が戻ったようになり、

「さんよっか、いいだろう。あちらこちら出歩くのはだめだ。わかったか」

「はい。気を付けます」

 麗香は少し小さい声で言った。金井は少々気の毒に思った。

(せっかく、雑誌の取材で来たってのに、冷たい扱いだな)

 そう思って麗香の方を見ていると、

「かない、おまえも出歩くのはだめだ。おまえの言っていた……こもんじょ、はある」

「え、ここにですか? じゃあ、電話でおっしゃってた歴代当主の方のお屋敷にあった分も持ってこられたのですか?」

「おやしき……」

 また老人はうつろな表情になり、それが元に戻ると、

「お屋敷は、川の向こうにある。お屋敷は近づいてはダメだ」

 と老人はちょっとずれたことを言いながら川の向こうを指さした。つられて金井もその方向を見る。ここは少し高台になってるので、前方に川が、その向こうに家の屋根が並んで見える。その家並みの後ろ、ここと同じくらいの高台に大きな屋敷が見えた。どうやらあれがここの領主のお屋敷があったところで、近代以降は、代々の村長の家があったところらしい。

「あそこがお屋敷ですか。あそこは近づくのはダメなのですか?」

 よそ者はダメ、という事かな、と思っていると、

「禁止だ!」

 と老人は強く言ったあと、

「お屋敷は……後ろの山が崩れている。近づくな」

 金井と麗香は再度川向こうのお屋敷を見る。よく見ると、屋敷のいくつかの建物の後ろにある崖が大きく半円形に明るい茶色に変色している。確かに崖が崩れてむき出しになっているような感じだ。建物も一部壊れているよう見える。

「なるほど……」

 豪雨か何かでがけ崩れでもあったようだ。

 そういう事ならしょうがないか。金井は納得した。麗香の方はその屋敷の方をじーっと見ている。

「では、かないは入れ。おまえは……、キャンプ……。キャンプはいいが、終わったら帰れ」

 老人は麗香に向かってそんなことを言うと、麗香の返事も聞かず、しかも金井を入れる前に、ドアを閉めてしまった。

「あ……」

 なんて老人なんだ。

 金井は呆然とした。

「はあ……。なんだか変なことになってしまいましたね」

 と金井が麗香の方を向いて言おうとしたが、言葉を途中で呑み込んだ。

 麗香がずーっと川向こうのお屋敷を見ているからだ。

「どうかしたんですか、麗香さん……」

「えっ」

 麗香は振り向いた。

「何か言った?」

「あのお屋敷がどうかしたんですか? ずーっと見ているようですけど」

「あ、ううん。なんでもないの。崖崩れしてる見たいね。ま、雨は降りそうにないから、キャンプは大丈夫かな」

 となんだか答えになってないことを言った。

 老人に続き、麗香さんまでおかしくなったんじゃないだろうな。

 金井は少し不安になった。

「なんか変なおじいさんみたいで大変ね。わたしも三、四日いるからさ、時々顔見せに来るわね。閉じこもって研究するのも大事だけど、せっかく自然豊かなところに来たんだし、息抜きもしなきゃ」

「はい」

 金井は麗香の言葉に不安が飛んでしまった。日焼けして、ちょっと変な格好ではあるが、美人の麗香さんとお近づきになれるのであれば、それは願ってもないことだ。特に研究者の彼は、そう言う出会いがあまりないから、なおさらである。いくら学者とは言え、まだ若い男である。研究対象にくらべれば女の方が興味がある。

「では、僕はここにしばらくいますので」

「うん。じゃあ、またね」

 麗香は車に乗り込むと、バックして向きを変え、ゆっくりと坂道を降りていった。金井は車が坂の下に降りるまで見送った。

 それから、おそるおそる閉じた戸を開ける。

「……おじゃましま……ひっ」

 一瞬気づかなかったが、目が慣れてくると、廊下の奥の方、薄暗がりの中に老人の姿が見えた。こっちを見ていた。まさか、そんなところで見ているとは思ってなかったので、金井はびっくりした。

「あの……、失礼します」

 金井が泊まることになったその家は、造りこそ古そうだったが、かなり頑丈に出来ていて、しかも広そうだ。いささか歴史に詳しい彼は、昔ながらの造りであるこの家にも興味を覚えて、部屋を見て回ろうとしたが、それはすぐに廊下の奥に立ったままでいる老人に止められてしまった。

「かない、おまえはそこだ。他の場所には入るな」

 田舎に残る旧家には、客間がきちんとあり、主人だけが入っても良い部屋とかもあるので、そう言う習慣を守っているのかもしれないし、あるいは彼が麗香に向かって言ったように、よそ者に警戒心を持っているのかもしれなかった。

 しかし、二週間前に電話した時は、こんな排他的な様子は感じられなかったが……。むしろ歓迎するような口ぶりだった。

 でも、あの時電話口に出たのは女性だったよな……。このじいさんではなかった。

 そのあとも何度か電話したが……。

 金井は老人の奇妙な態度に不安を感じたが、奥で見張るように立っている老人に頭を下げて、示された入り口近くの左側の部屋に入ると、その不安も消えてしまった。なぜなら、その畳敷きのやや広い部屋の真ん中にテーブルがあり、その上には大きな行李がおいてあって、その中には大量の古文書が入っていたからである。

 古文書等というものは、その多くが大学や寺社、法人化された文庫に保管されていて、なかなかお目にかかれない。しかも未公開の古文書群となればなおさらだ。それが目の前にあるというだけで、学者冥利に尽きる。

 金井はとりあえずパソコンだけ取り出すと、それはそのままに、早速古文書を見始めた。



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