黄昏のドラグーン
黒井へいほ
第一章 約束と出会いと別れ
第1話
季節は冬。入り組んだ街路の先にある、閑散とした小さな広場の端で、少年は一人で泣いていた。
寒くひと気もなくほとんど人が通らない広場で、少年を慰める人はいない。通りがかった人も、少年が座り込んでいることに興味を持つことはない。か細い鳴き声に気付かず通り抜けてしまっていた。
しかし、そんなことは少年には関係ない。慰めてほしいわけではなく、ただただ悲しくて、辛くて、苦しくて、零れる涙を押さえることができなかった。
小さな広場、誰も物陰で泣いている少年には気づかない、気付くはずもない。通りがかる人の目に映るのは、鮮やかなオレンジ混じりの茶色の髪をした少年が座り込んでいるだけで、泣いていることまでは分からない。……だが、小さな声で泣きじゃくる少年に近づく人影があった。
黒いドレスに、腰にも届こうという美しい銀色の髪。女性は少年へ近づき、後ろで立ち止まる。
そして、優しく少年に声をかけた。
「……こんなところにいたのか」
なぜ泣いているのか、ではない。なにがあったのか、でもない。少年を見つけられたことが嬉しいとばかりに、女性は声をかけた。
泣いていた少年も、それを不思議に思い振り向く。少年の目に映った女性は、とても美しく、そしてなぜか目に涙を溜めていた。
驚いた少年は、自分が泣いていたことも忘れて女性をじっと見る。
少年と目が合った女性は、ゆっくりと少年へ近づき、その涙を指で拭う。自分の涙を拭いもせずに、なによりも優先すべきだと、少年の涙を拭った。
少年の止まらないほどに流れていた涙は、いつの間にか止まっていた。少年は優しい瞳で自分を見る女性へ、何を伝えるべきなのか悩む。……悩んだのだが、口から出た言葉はたどたどしい物だった。
「あ、あの……なぜ、えっと……」
「ゆっくりでいい」
「うん……」
少年は胸を押さえ、自分のことを落ち着かせようとする。しかし中々落ち着くことはできない。
だが女性は、そんな少年を焦らせることもなく、ゆっくりと待つ。散々待った女性にとって、この程度待つことは苦ではなかった。
ぎゅっとズボンの裾を掴んだ少年は、結局言葉にできず俯いてしまう。
しかしそれを咎めることもなく、女性は優しく少年の頭を撫でた。
その手は冷え切っており、とても冷たい。なのに、少年には温かく感じた。優しさが込められていたからかもしれない。
悩み、言葉を出せなかった少年は、少しだけ勇気を振り絞り女性へ問いかける。精一杯の勇気を絞り出して。
「なぜ、お姉さんは泣いているの……?」
「ん? ……あぁ、我は泣いていたのか」
女性は、自分が泣いていることに言われて気付いた。
泣くことは恥ずかしいことだと思っていた少年は、そのことに驚く。しかし女性は、まるで恥ずかしさなどは感じていないように、自分の涙をそっと拭う。ただ涙を拭っただけなのに、その全てが一枚の絵画のような美しさで、少年の胸は大きく波打った。
「泣いても……いいの?」
「……そうだな。我も、泣くことは弱さの象徴だと思っていたよ」
「今は、違うの?」
「泣くことも悪くない。そう思っている」
泣いてもいい。単純な言葉だったが少年にはそれがとても嬉しく、笑みが零れる。
少しだけ笑った少年を見て、女性も嬉しそうに笑う。二人だけしかいない、広く冷たい広場が、二人には温かく感じた。
その後、女性は少しだけ悩んだ。次に何を言うべきかを、慎重に考えていた。……そして少し躊躇いつつ、少年へ恐る恐る問いかけた。
「お主は、なぜ泣いていたのだ?」
それは、少年が一番聞かれたくなかった言葉だった。だからこそ、こんな人気のないところで一人で泣いていたのだから。
……しかし、女性は優しい笑みを崩さずに少年を見る。
少年もそんな女性の態度に気付いていたからこそ、自分の気持ちを素直に吐き出した。
「名前……」
「名前?」
「うん。自分の名前が、嫌なんだ」
「そうか……それは、難しい問題だな」
女性は少年の悩みについて、真剣に悩んだ。いや、少年にはそう見えていた。自分のことではない他人のことで、悩んでくれている。それは少年にとって、女性のことを信用させるのに十分な理由だった。
なので、少年も一緒に悩んだ。どうすれば自分の悩みが解決するのかと。……しかし、少年にはなにも浮かばなかった。そんなに簡単に解決する問題であれば、一人泣いていることもなかっただろう。
少年は、女性の答えを待とうと決める。初めて会ったのに親身になってくれる大人。この人なら、何か良いアドバイスをくれるかもしれないと思ったからだ。
少年の目が期待に満ち溢れていたことには、女性も気付いていた。だから、少年の気持ちが楽になるようにと、必死に考える。……考えたのだが、女性にもなにも良い言葉は思いつかなかった。
出て来たのは、苦笑いだけだ。
「難しいな」
「そっか……」
明らかに落胆している少年を見て、女性は慌てた。力になってやろうとしていたのに、気付けば何も力になれていない。だが、なんとしても力になってやろうと、女性は少年との会話をさらに続けようと、話しかけた。
「じょ、情報が足りていないな」
「じょうほう?」
「そう、情報だ。なぜ自分の名前が嫌いなのかを教えてくれるか? その経緯などもな」
「んっと……」
俯きながら少年は考える。
少年も大変だが、女性も大変だった。少しでも元気づけられるようにと、頭の中はフル回転だ。
しかもそれを少年に悟られないようにと、必死だった。別に悟られてしまってもいいはずなのだが、そこは大人の意地みたいなものだ。年長者として、格好悪いところを見せたくは無かった。
そんな女性の考えには気づかず、少年は顔を少しだけ上げる。どうやら伝えたいことが纏まったようだと、女性も少年を改めてしっかりと見た。
「僕は、英雄と同じ名前なんだ」
「ほう、そうか。それは……」
良いことではないか、と言おうとして、女性は何とか口を噤んだ。名前のことで悩んでいるのに、元も子もないことを言ってしまうところだと、ギリギリのところで気付いた。
少年は少し顔を上げただけで、まだ俯き気味だったことが幸いする。女性の葛藤や動揺に、少年は気づかなかった。
「よく知り合いに殴ら……チャンバラをするんだけど、僕は弱くていっつもすぐに負けちゃうんだ。そうするとね、英雄と同じ名前なのに情けないって……」
「つまり、弱いことが嫌なのか?」
「違うよ! 同じ名前なのにって言われるのが嫌なんだよ! 小さいころは英雄のお話が大好きだったけど、今では嫌いだ。同じ名前の人もたくさんいるし、英雄と比べられちゃうし……英雄なんて嫌いだ! いなければ良かったのに!」
王都で、英雄の悪口は一種のタブーだ。誰もが世界を救った英雄に敬意を表している。しかしこの少年は英雄が嫌いだと、いなければ良かったとまで言う。
それを聞いた女性は、思わず吹き出してしまった。
「そ、そうか……くくっ。いなければ良かった、か」
「……? なんでお姉さんは笑ってるの?」
「いや、お主が面白いことを言うのでな。くくっ、そうかそうか」
女性がなぜ笑っているかが、少年には分からない。英雄の悪口を言うなと怒る大人はいたが、この様に笑っている人を見たのは少年にとっても初めてだ。
驚きつつ首を傾げて女性を見ていると、それに気付いた女性は、笑うのをなんとか止めた。……いや、まだ少し笑っているが、耐えようとはしていた。口元を押さえて、本当になんとかといった感じだ。
笑いを耐える女性から次に出た言葉は、少年をさらに驚かせるものだった。
「英雄が嫌いか。別に良いのではないか?」
「で、でも英雄は世界を救ったんだよ? みんな、英雄はすごい! だから、そんなことは言ったらいけないって言うよ!」
驚く少年を見て、女性は楽しくなる。少年の様子を見て楽しむのは良くないと気付いてはいたのだが、面白いものは面白い。英雄嫌いの少年が、他の人であれば女性も楽しんだりはしない。
だが、この少年が英雄を嫌いだと言っているのだ。こんなに面白いことは、女性にはなかった。
「別に好きでも嫌いでも良い。そんなことは自分の問題だ。他の人に言いさえしなければ、大丈夫だ。……そうだな、お主にはまだ悩みがあるだろう。当ててやろうか?」
少年は少しだけドキッとした。まだ話していない自分の悩みを、女性は知っていると言うのだ。相手の心の中を読むようなことが、できるわけがない。少しだけ意地悪そうな女性の顔を見て、少年は頬を僅かに膨らませた。
女性は少年の頬を撫でる。少年の考えていることも、女性には全てお見通しだった。
「お主、守ったり逃げたりは得意だが、攻めるのは苦手だろ?」
「え!? な、なんで分かったの!?」
「我には全て分かっている」
女性は本当に楽しくて、笑い続けた。
しかし少年は、それに驚いたり、戸惑ったり、頭の中がひっちゃかめっちゃかになる。
少年のそんな態度が、さらに女性を楽しくさせた。
「良いか。別に無理をして攻めないで良い。人には向き不向きななどもある。……それに、必要に迫られれば、否が応にも自分から攻めることとなる」
「……そんな時、来ないよ。だって僕は、誰かを傷つけたりはしたくないんだ」
「構わん。そのままでいい。いつか分かる日が来る」
女性の言葉は、少年を全て理解しているようだった。
少年はなぜかそれが嬉しく、少年が笑ってくれることが、女性も嬉しい。なにも解決はしていないかもしれないが、温かい時間だった。
……しかし、鐘の音が響き渡る。それを聞き、少年は少し慌てた。もう家に帰らなければならない時間だからだ。
だが、帰らなければならないという気持ちとは裏腹に、もう少しこの不思議な女性と話していたい気持ちが少年にはある。そしてそれは女性にも同じことが言えた。
女性も、まだ少年と話していたい。少年以上に、話を続けたいと思っていた。……だが、その気持ちを頭を軽く振って女性は振り払う。それが自分の我がままだと、気付いていたからだ。
「さぁ、暗くなる前に帰れ。この季節、あっという間に空は闇に閉ざされるぞ」
「うん……。お姉さん、また会えるかな?」
少年の言葉が、女性にはとても嬉しかった。もう一度少年と会いたいのは、誰よりも彼女のほうだったからだ。
女性はもう一度、少年の頭を優しく撫でる。その手には、様々な思いが篭っていた。
「また会える。必ず、な。……お主は覚えていないかもしれないが」
「覚えてるよ! 僕、ちゃんと覚えてる! だから、また話の続きをしよう!」
「くくっ……あぁ分かった。お主が忘れても、我が必ず覚えている。約束だ」
「うん……? 約束だよ!」
少年は覚えていると言ったが、なぜか女性が覚えていると言った。それが少年にはよく分からなかったが、約束ができたのだ。それだけで、十分だと思った。
女性は少年の背を、優しく押す。早く帰りなさいと、そういう気持ちが少年にも伝わる。
だから少年は、その勢いのまま走り出した。
走り帰宅しようとする少年の背に、女性はもう一言だけ声をかけることにする。たったの一言だけ。
「フィ……少年! 槍を持て! 英雄が使っていたからではない! 自分のためにだ!」
「え……?」
「良いか、忘れるな。お主は槍を持つのだ! 守るために、槍の腕を鍛えろ!」
「……うん、分からないけど分かった! 僕は槍を持つ! お姉さんと約束するよ! ……そうだ、僕の名前はフィル! フィル=シュタイン! お姉さんの名前は?」
女性は、ぐっと耐える。自分の名前を告げたい。また彼に名前で呼んで欲しい。……しかし、気持ちを必死に押さえ込んだ。まだ伝えるべきときではない。会ってはいけなかったのに、会ってしまったのだ。それが分かっていたから……。
必死に言葉を飲み込んだ女性は、別の言葉を少年へかけることにした。
「フィル! 我らはまた必ず出会う! さぁ、怒られる前に早く帰れ!」
女性の言葉で、フィルは止めた足を慌ててまた動かし走り出す。そして、その後振り向くことはなかった。
フィルが見えなくなるまで、女性はその背中を見守り続ける。ずっと、ずっと……見守り続けた。
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