因縁

否が応でも、耳に入る噂がある。彼が、佐々木只三郎がこの世で一、二を争うほど嫌い、そして認められない男の噂であった。

その男の名は、御坂正一。

シャボン玉を吹き散らし、武士としての誇りも、自らの持つ正義もなく、ただシャボン玉の為に戦う、そんな男の噂話。

彼は認めたくはないが、認めざるをえないほどの剣の腕を持っていた。事実、その剣による数多の不逞浪士の殺しは、並の者では到底なし得ない数であった。最近では、岡田以蔵すら彼の手にかかったという話もある。

「やはり、あの男はやばいな……」

「あんなのほほんとしたつらで、毎度浪士を刈り取るからな……長州や土佐の奴らも、背筋を震わしてるに違いない……」

佐々木が与頭を勤める京都見廻組内部でも、このような話が出る始末だ。何度か正一が隠密の任務として、見廻組の組員達と仕事をしているので顔は見知っている彼らだが、実際その戦果を聴くとやはり興奮するところもあるのだろう。あるいは、仕事を共にこなしたからこそわかる、そのサボりぶりとは考えられない戦果への驚きか。

しかして、そんな組員とは対照的に、正一の噂が広がれば広がるほど、佐々木の機嫌は悪くなる一方だ。事実、佐々木の眉間の皺は余計に増え、最近では触らぬ神に祟りなしということで、近づく者すらいやしない。下っ端連中なら尚更のこと。

「佐々木さん、本当に御坂正一が嫌いらしい……」

「ああ……なんでも、江戸にいた頃に、一悶着あったらしいからな……」

「貴様達、仕事をしないでなにをコソコソとお喋りをしているんだ?」

陰で噂をかわしてた二人は、背後からの佐々木の冷たい目にひっ、と恐れをなしたような声を上げて、途端に逃げ出す始末である。このようなことで逃げ出すとは、あれでも武士の端くれか、と佐々木は文句の一つもつけたくなる。

だが、佐々木はそれとはまた関わらず、溜息を吐く。それというのも、彼らの噂話のせいで、あの嫌いな男との因縁を、不意に思い出してしまったからである。

江戸の一悶着、か。

それこそが、佐々木と正一との関わりの始まりであり、佐々木が正一を嫌う最大の理由でもある。

彼が丁度、新撰組や見廻組の元となる浪士組の結成者でもあり、幕府への叛逆者でもある清河八郎暗殺を狙い、江戸にいた頃の話であった……。





それは、夕陽が不気味な程に赤く燃え上がり、一見地獄の業火なのではと思える揺らめきをたてていた日暮れのことである。

彼は清河八郎を付け狙い、その暗殺の機会を伺っていたが、ようやくこの日運にが巡ってきた。清河は友人の家にて酒食をあてがわれ、酔いが回ってるままにその家を後にした。清河は自分に暗殺の命令が下ったのだろうということを何処かで聞いたのか、その日の顔色は悪く、酒で誤魔化そうとした風でもある。

だが、その酒が逆に命取りとなることとは、終ぞ知らなかったであろう。

……しめたな。

佐々木は、清河の酔いぶりを見て、今日こそ暗殺の絶好の機会だと睨んだ。しかして、一人では心もとなく、また幕府も清河の暗殺を望んでいたことで、とある人物を佐々木につけていた。しかして、その人物があまりにも妙な男なのだ。

「……ふむ、あいつを殺せばシャボン玉を貰えるんじゃな……しかして、ちいとシャボン玉をもう切らしてしもうた。おんし、シャボン玉をもってないがか?」

などと、佐々木の袖を引き、そこいらの子供のようにシャボン玉をねだる男。彼こそが、御坂正一である。

この男、一体なにを考えている。そもそも、なぜ上の奴らはこんな男を俺につけたのだ。

事実、佐々木がそう文句を言いたくなるのも、無理はない話である。この清河を狙う数日間、ずっとこの男の行動に呆れ通していたのだから。とある日は尾行中に昼寝をかまし、とある日はシャボン玉を忘れてきただけで廃人同然となり、振り回されること指の数では全く足らない。

上が言うには、かなりの腕が立つ男だというが、佐々木は全く信じることができずにいた。むしろ、わがままのガキのお守りをさせられている、そんな気分である。

しかして、今この場で振り回される訳にはいかなかった。あの清河を殺せば、彼が昇進するのも間違いはない。また、失敗などして逃したら、自らを見込んでくれた者達に立つ瀬がない。

「邪魔をするな、このシャボン玉キチが!」

袖を引く正一の手を引ききって、彼は清河八郎が向かうであろう橋へとその足を急がせた。最早、正一のことなど知ったことではない風である。

そして、辿り着いたその橋に、まだ清河は来ていないらしかった。彼の帰宅路は、ほぼこの進路で間違っていないと、これまでの地道な尾行で確信済みである。あとは、ここに立ち、彼の行く手を阻み、その首を落とすのみ。

夕暮れは深みを増し、その色はこのあと起きる惨劇を予見するかのごとくである。

赤く染まりつつある橋の先に、その男は現れた。頰を染め、ゆらり、ゆらりと歩き来る。清河八郎である。

だが、彼も酔ってはいるものの、それなりに腕が立つ剣客である。その剣客の勘が、最後の最後で働いた。橋の上に立つ佐々木が目に入った時、彼は踵を返した。

しまった、などと思った時には遅い。逃げる清河の背を追って、その刀を抜く。

清河は、佐々木を知っていた。浪士組を結成した際、その強さを目の当たりにしていた。そして、その強さが酔いが回っってしまった現在の自分では敵わないほどであるということも、知り尽くしていた。故の逃げである。志半ばで死ぬ訳にはいかない、それ故の逃げ。

「ちい、あの男め、最後の無駄なあがきを!」

佐々木は追う。最早、なりふり構っていられない。ここで逃してしまったら、清河の警戒は増し、機会は無くなるも同然。

しかして、それ以上に佐々木は清河の振る舞いに怒りを示す。潔く戦うならまだしも、逃げるということは武士として許し難かった。

武士ならば、背を向けず、潔く戦って散れ!

彼は、武士に拘りを、武士としての誇りと矜持を持っていた。故に、敵に背を向けるという、武士として恥を晒す目の前の男が許し難かった。

さて、そんな武士の誇りも何もなりふり構わず、大義が為に逃げる清河だったが、だかしかしその終わりは呆気なかった。

橋を引き返してすぐの所で、彼は妙な殺気に襲われた。冷たく、這い寄るかのような殺気である。だが、それに気づいた時には、既に遅い。

「おんしを殺しゃあ、シャボンを貰えるんじゃ、悪う思うなが」

ズン、と清河の脇に突き刺さる白刃。正一である。この不意打ちには、清河もたまったものではなかった。咄嗟で急所は避けていたものの、身体を貫いた刀は如何ともできず、死の音は容赦なく迫りくる。

「わたしは……わ、たしは……そんの……う、そし……てじょうい……が、ため」

震える手で、腰の刀に手を伸ばす。生きようと、足掻く。

が、その手が柄に届くことはなかった。


「哀れなものだな、清河」


佐々木の剣が、清河の首元に疾る。途端に清河の首は赤い飛沫をあげ、ぐらりと倒れた。即死である。その仏の顔は、死ぬまいと歯を食いしばったままであった。

「ふん……武士ならば、死ぬる覚悟を決めるべきだろうに……どこまでも生きようとするのは、見苦しい」

先程の清河の振る舞いも重なって、佐々木の苛つきは甚だしいものがあった。

戦うべきに戦い、死すべき時に死す。それが、彼の武士としての生き様。しかして、清河は戦うべき時に戦わなかった。生きようとして、死すべき時から逃れんとした。それは、同じ武士として、許し難いのも無理はない話。


「じゃけんど、死にとおないじゃろ、実際」


その淡々とした言葉の主は、骸となった清河に手を合わせていた正一であった。だが、それは佐々木には到底納得の出来ぬ言葉でもあった。

「貴様……何を言う? 武士とは、戦うものぞ。死にたくないからと、逃げるのはどうかと思うが」

「そりゃ、死ぬときはその時じゃし、諦めるしかないが……じゃけんど、だからて自ら死ににいくのは違うんとちゃうかの」

じっと、互いに睨み合う佐々木と正一……いや、正一の方は、睨むというよりは、佐々木の睨みを淡々と見つめているだけであるが。

「……武士とは戦うものだ。戦わずに逃げた時点で、武士の恥さらし……それ以外の何物でもない」

「武士なんざどうでもよかよ。死にとおないから逃げるのは、当たり前じゃろう?」

話は全くの平行線。互いに譲るものはなく、譲る余地もない。

何より、佐々木がこの男の存在自体を許せずにいる。


『武士なんざどうでもよかよ』


その言葉を聞いた時点で、佐々木はこの男に言葉にし難い憤りを覚えてしまったのだから。

「……貴様とは、一度ケリをつけたいところだな」

「んがか、わりゃは別にどうでもいいがな」

「俺はどうでもよくないんだよ。貴様のような武士、俺は認めるわけにはいかんのでな」

佐々木の熱は、勢いを増しに増している。その勢いは、この血を拭った刀をもう一度血に染めんとばかりに、鯉口を切るほどであった。

……だが、それきりだ。それきり、彼は刀を抜かず、対して正一も抜かぬ相手に抜く刀を持ち合わせていなかった。

怒りに、激情に任せて相手を叩き斬るほど、最早佐々木も青くはない。それに、それをしてしまったら、それこそ自らの武士の誇りに泥を塗ることになる。例えそれが、武士を愚弄するこの男であるとしても。

結局、そのあとに二人が言葉を交わすこともなく、勿論剣も交わすことなく事は終わった。

その後、佐々木はこの手柄で京都見廻組与頭となって京都に上り、正一もまた隠密の仕事で同じく京都に上ることとなった……。



あれから、二年以上か……。

この二年、京都で仕事をする最中、正一と共にすることもあったが、やはりいがみ合うことが多かった。時には、武士を愚弄するこの男を斬り捨てたいという衝動にまで襲われた。理性の強い佐々木でも、この衝動を抑えるのは骨を折り、憂さ晴らしのように敵を斬り捨てたりもした。

「もはや、あの顔を思い出すだけでも、癪にさわるな……」

「何が癪にさわるがか?」

突然の声に、佐々木は思わず身構える。そのデタラメな訛り口調の主は、やはり正一であった。噂をすれば影がさす、その言葉がまざまざと現実になったかのようである。

「き……さま」

「相変わらず眉間にシワが寄った顔でわりゃを見るのお……」

「貴様こそ、今日もガキのようにシャボン玉を吹いてやがるな……」

結局これである。空気は険悪、佐々木の陰険はさらに増し、正一も若干不機嫌そうな色をしている。

「……今日は何の用だ」

「いんや……隠密の仕事じゃよ。おんしの見廻組と一緒に、新たな浪士の拠点を潰せ、とな」

「またか……くそっ、貴様のような怠け者とどうして仕事をさせるんだかな」

「わりゃも、なんぞこんな奴とって聞いたが、どうやら清河を斬ったときの連携を評価されてるらしいの」

「ちっ……あの仕事はどこまでも……」

因縁は、今となっては腐れ縁となって未だに続く。この腐れ縁が切れるのは、互いのどちらかが死んだ時か、あるいは殺した時か。

この、武士を愚弄する男などと、という歯痒さは回り回って、正一への皮肉になる。

「まあいい、貴様が運悪く死んでくれることを願って、共に仕事をしようじゃないか」

「なんつうか、癪にさわるのお、おんしは……」

それはこちらの台詞だ、などと言いたげに佐々木は目を背ける。

結局、斬り捨てることも、蹴りをつけることもままならず、今日も佐々木はこの世で一番嫌いな男と仕事を共にするのである。

因縁は人間と違って、斬り捨てるのはそう容易くはできないものらしい。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る