嫁
鈴は今日も手紙を書いていた。
寺子屋で習った時以来持たなかった筆と硯を取り出して、まめまめと文字を綴っている。初めはあんなに白かった手紙は、すっかり文字で埋め尽くされていっている。
空いた隙間には、ちょっとした絵も描いてみたりして。
浮世絵みたいにはいかず、すこぶる拙い絵ではあるがそこは勘弁してもらおうと苦笑する。
とりあえず、これで上出来だろうかな。こんなことを書いておけば、面白がって読んでくれるだろうか。
と彼女は自らが書いた手紙を読んでみる。ここ最近の長屋の近況や、面白かったことがその中にはあった。
「しかし、もうこいつで何通の文を書いたのかしらねえ。あたし自身、ここまで書くとは思わなかったわ」
笑みをこぼしながら、手紙を丁寧に折りたたむ。明日にはもう飛脚に渡して出してしまう手紙。数日後にはここから遠く離れた京都に辿り着いているだろうか。
……京都にいる彼女の夫の手に。
この手紙を書き始めたのは鈴の夫である御坂正一が、幕府の隠密として京都に旅立ったのがきっかけだった。
いやそもそもの話、この京都行きが鈴と正一が夫婦の契りを交わすきっかけになったとも言えなくはない。というのも、この夫婦の契りというのは一種の願掛けという側面もあったのだ。
京都は今、動乱の最中にあった。毎夜のように闘争が起こり、血だまりはいくつも増えている。幕府をもってしてもこの勢いは止められず、この場に行くということは死んでもおかしくないということに等しいものがあった。
「だからこその、願掛けなのよねえ……」
鈴は、ため息をついて肘をつく。
鈴自身、正一をそんな場所へはやりたくなかった。この長屋でのうのうと暮らしていてほしかった。あんな場に行かせてしまったら、二度と戻ってこないような気がしたのだ。
しかし、正一は京都に行くことを自らの手で決めてしまった。何やら幕府の上層部に説得されたのが大きかったらしい。
「シャボン玉を報酬として毎日くれるそうだから、引き受けた」
という言葉を聞いたときは、つい大雪山おろしをかましてしまったのは内緒である。
しかし、決めてしまったものはしょうがない。これも一つの運命として受け入れる他、鈴にはなかった。
だからこその、夫婦の契りだったかもしれない。
「あんた、あたしがいないとすぐにどっかいっちゃうでしょ。そのまま迷子になって帰らないなんて、よくあることだし。だから、あんたがちゃんと帰ってくるように、首輪をかけてやる。夫婦という大きな首輪だ! だから、ちゃんとかえってきなさいよ!」
たしかそのようなことを言ったっけ。
思い出すだけでも顔から火が吹く思い出だった。
正直に言ってしまえば、夫婦になると言ってもさほど正一と鈴との関係は変わらない。むしろ、今迄も正一と鈴はいつも一緒にいることが多かった。というよりかは正一がダメなことをするたびに、鈴が説教を繰り返すみたいな関係性でもあるのだが。
もはや、家族同然。恋も愛もすっ飛ばしてしまっていた。
だから、正一の答えもあっけらかんとしたものだった。
「別にええよの」
それだけで、二人は夫婦となった。しかし、夫婦としての暮らしは短く、一ヶ月も経たないうちに正一は京都へ旅立ってしまった。情事もしたことはしたのだが、子供ができることはなかった。
まあどうせ願掛け程度の夫婦だ。
と鈴は別段気にする風もなく、京都へ旅立つ正一を見送った。
ただたった一つだけ、毎月手紙を交換し合うことを約束して……。
その手紙が、鈴の書いているものだった。ある意味では正一と鈴、離れたつがいをつなぎとめる一筋の糸のような存在。未だに切れることはなく、切らせるつもりも毛頭無い。
その内容というのは別に夫婦の愛か見て取れる、みたいなわけでも無い。
鈴の側は滑稽じみた話も書き連ねたり、時には八つ当たりをその手紙に込めたりする。
対して正一は正一でめんどくさかったのか丸一つだけ(シャボン玉を描いたつもりらしい)の手紙や、鈴の手紙に対する文句が綴ってあることも。
お互いがお互い、遠慮無しに書きたいことを書きたいままに書いているようだった。
「まあ、あたしら夫婦はそれくらいが丁度いいんだろうけれどね」
先ほど書いた手紙を封したあと、鈴は今までにきた正一の手紙を読み返していた。どれもこれも、正一らしいめんどくささが醸し出ている手紙だった。
時に苦笑を漏らしたり、時にこれは無いわと引いたり、どれもこれも正一の顔が自然と頭に浮かんでくる。
……もしかしたら、もう二度と見ることのない顔。
「まあ、これを読んであいつがまだ生きているんだ、って安心するのもアレかな……」
ぎゅっと、手紙を握る手の力が強くなる。ほんの少しだけ視界がぼやけるが、なんでも無いさと袖で擦る。
その袖かほんの少しだけ濡れていたことに、鈴は見向きもしなかった。
その代わり気を晴らすようにもう一枚鈴は紙を取り出すと、再び筆を取って手紙を書き始めた。
もう一枚いっぱい書いたのにこれ以上書いたら正一に「長い」、とまた言われるかもしれないなあ。
そう思えど手が止まることはない。
なぜなら書きたいのだから、書かないと気が済まないのだから。せめて、離れている分だけ己が思いをぶつけたっていいだろう。
「あたしの夫なんだから、妻の思いくらい受け止めてくれなきゃね!」
そんな究極の開き直りでその手紙は完成された。内容はなんでもない鈴の思いだ。
これも一緒に先ほど封をした手紙の中に押し入れる。きっと文句たらたらの手紙が返ってくるに違いない。
「いや、返ってこなかったらあたしは泣いちゃうわ!」
あっはっはと一人笑い、彼女は菜種油の火を消す。
早々に寝て朝一番の飛脚に出してしまおう。
早く正一の元に手紙が届くように。
「我ながら、随分と乙女なことしちゃってるなあ」
なんて苦笑がどこからか。
……ちなみに、後日談。
「……とりあえず、『長い』と書いておけばまあええじゃろ。こんな長いの読めん」
「いや、もっとしっかり読んで返事を書いてやれよ……」
あまりのめんどくさがりに、同僚はただ呆れるしかなかったという。
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