苦労人

ここに一人の男がいる。

言動全てが無茶苦茶の同僚に振り回され、時には死地に足を踏み入れ、時には地獄の方がマシと思える事態を乗り越え、毎日胃を痛くしながらも懸命に仕事に励む男がいる。


坂口金吾宗孝とはこの男のことである。




「おい、正一はどこに行ったぁ!」


拠点となっている屋敷に響く怒号。

しかしその怒号は虚しく柱を震わせるのみで、誰の返事も返ってはこない。坂口はなおも怒声を上げるが、結局どうもこうもなりはしなかった。

それというのも、同僚の御坂正一が仕事をサボって早三日、今度は姿すらも消してしまったというのだ。これはさすがの坂口も堪忍袋の尾が切れても仕方がない。

今日も今日とて、彼は正一に振り回されている。それはもう、不憫と言ってもいいだろう。


「あいつ、俺に怒られたくないからって、出奔までしやがって……」


苛立ちが最高潮なのか、足音が頗る激しい。

だが、結局のところ、坂口はままならない気持ちのまま縁側に佇んでいるしかなかった。

しかし、正一も馬鹿なことをしたものである。例え坂口の説教が嫌だからとしても、こんなことするのは逆に怒りの炎に薪をくべるようなものだ。当然ながら彼は正一に対して、憤怒を滾らせていた。

それでも、坂口は正一のことが気がかりなのは違いない。突然の出奔だ、その思考が働いても無理はないだろうて。ただ、きっと正一には厄が密かについていっているはずであるし、心配は無いだろうと言い聞かせていた。

しかして、またしてもくる胸の鈍痛。きっと胃がまた悲鳴をあげているのだろう。


「どれもこれも、あのバカのせいだ……」


脳裏に浮かぶ間抜け顔。思い出すだけでも腹が立ってくる。

あの男に煮え湯を飲まされた数は、もはや数え切れない。そのせいで胃は痛くなるし、心労はおさまらない。しかも、彼はそれを発散するすべを持たないので、心労は溜まっていく一方なのである。

頑固、真面目、石頭の三拍子と正一に評される彼は、遊郭にもいかなければ酒なんかもそこまで飲まない。

そもそも正一のサボったぶんの仕事も請け負っているので(その点では正一は彼に感謝すべきなのである)、娯楽や趣味に使う時間が元からないのだ。

こうして見ると、坂口という男は中々に過酷な環境で生きているといえよう。

「……俺って、本当に何やってんだろ……」

幕末の動乱の最中、彼も主義や志を持っていたはずである。しかし、毎日の仕事の忙しさなどで今の彼は、目の前のことしか見えていない。


いや、目の前だけではないな……。


思い出すのは、年老いた母やまだ年端もいかない甥っ子たち。もともと、坂口家は彼の兄が継いでいたのだが、安政の大獄に巻き込まれ兄は刑死、坂口家もあと一歩で取り潰されるところを、なんとか坂口が隠密として幕府に奉仕することで取り潰しを免れた。それでも、依然貧しく、厳しい風当たりなのは変わらない。

こうして幕府に仕えているとはいえ、自分に主義主張、思想などはもはやない。

目の前のものを守るので精一杯。

目の前に振り回されるので精一杯。

「振り回され続けて俺の人生終わるのかな……」

自嘲気味に笑ってみせる。もう何もかもが嫌になりそうだった。こんな他人に振り回される人生を、どこかで変えたい。そういくら願っても、もう変えることは叶いそうになかった。

これが、自分の生き方か、と受け入れる以外なさそうである。


「なんとも、味のない生き方だ」


坂口はようやく立ち上がり、伸びをする。

もはや己が不幸を噛み締めていても仕方がない。やはり、目の前である。目の前のことを片付けずには、決して前へは進めない。

坂口はそれを重々承知している。だからこそ、彼は今日も仕事に励むのだ。


が、実際はそう上手くはいかないわけで。


「正一が捕まった」


その知らせが届いたのは書類に手をつけてまだそう時間がたたないころだった。それも、天井から突然のことだったので、坂口は当惑するほかない。

因みに声の主は、相変わらず姿を見せようとはしない厄である。

「というか、おい、一体どういうことだ!? 何がどうして正一が捕まったんだ?!」

正直なところ、正一の剣の腕は一級である。坂口も不本意ながら、正一に剣では敵わないと自覚はしている。だからこそ、正一がいとも簡単に敵の手に落ちるわけがないと思うのは当然。

「あいつがそう簡単に捕まるわけがないだろ、一体何があったんだ……」

厄は沈黙を続ける。姿さえあれば坂口は胸ぐらを掴んでやりたかったが、いかんせんどこにいるのかわからないのでそれは不可能だった。

しんと静まる部屋。だが、厄はようやく観念したのか、少し言い澱みのある声で、こう言った。


「……実は、主人は、その……昼寝をして目覚めたところで浪士たちの殺人を目撃してしまい、そのままほっといて二度寝を敢行したところ、奴らに見つかって捕まった。意外と、奴らが手早くて……救出できなかった」


開いた口が塞がらなかった。


というか、厄も厄であるが、それ以上に正一の馬鹿さ加減に呆れるしかなかった。


ほんとに何を……いや、あの馬鹿ならそういうこともあって然りというわけか……。


呆れて、悟って、次に浮かび上がるのはもはや怒りしかない。

その拳はわなわなと震えている。しっかり剃られた月代には、青筋がたいそう太く浮かび上がっていた。しかし、その顔にはもはや表情はない。


「おい厄よ、場所はどこだ」


言葉はひどく冷たく、そして重い。だが、妙に静けさがある。

よく言う嵐の前の静けさとは、このことを言うのだろうか。


厄から場所を聞いた坂口はすぐさま正一救出の為に人を数人募って駆け出した。そこには心配からの焦りは一切無い。むしろ、恐ろしいほどに冷静な姿を見せている。

付いてきた者には、明らかに坂口が度を超えた怒りをその身に宿しているのが目に見えていた。きっと、ほどなくその怒りは富士の噴火のように爆発するだろう。

そして彼らは正一が囚われているという廃屋にたどり着く。どうやら、ここは不逞浪士の拠点の一つでもあるらしい。

周りは閑散としているが、廃屋内からは小さな灯りがぼんやりと照っている。坂口がそっと廃屋の壁の穴を覗いてみれば、確かに人が数人いた。

どうやら敵は二人、そしてその奥に縄で縛られた正一が、拷問されているわけでもなく、ただただ不貞寝をしていた。

「殺しの現場を見られたから連れてきたが、こいつをどうする?」

「どうするもこうするも、さっさとこいつも殺せばいいだろ?」

「だが、まさか見ただけで殺すのはちょっとなぁ……」

「じゃあどうするんだよ! 密告されたらおしまいなんだぞ!」

どうやら、敵も敵で正一の扱いには困りはてているようであった。二人はよくよく声を激しくして論を争っている。

しかし、この二人も二人である。結構な優柔不断でうっかりさんとでも言っていいだろう、今の今まで目撃者の扱いでここまで口論しているようでは。

坂口的には、俺なら目撃者もさっさと殺してトンズラするぞ、と思ったが彼らはそうはできなかった。案外良心というのもあるのだろう。


「まあ、その良心が自らを殺す羽目になるとは、滑稽だがな」


その言葉の冷たさは、連れてきた者どもの背筋を震わすほどに冷たかった。そうとも思われていることも知らず、坂口は彼らにに合図をだす。

彼らはその合図を見ると、これ以上坂口の怒りを増させないようにひどく忠実に行動する。

廃屋の周りを四方八方に取り囲み、その手に火のついた松明を掲げる。それこそ風が草木をなぐ音しか聞こえないほどに、静寂な行動であった。

坂口は全員が持ち場についたことを確かめると、自らもとある場所で待ち構える。

そして、


「よし、投げろ!」


という声と同時に、廃屋の四方から松明の火が投げられた。

するとどうだ、途端に火は風に煽られ大きくなり、轟々と廃屋を燃え上がらせるではないか。その炎は彼らを慌てさせるには十分な代物だった。

「くっそたれ! 敵が来ちまったのか?!」

「さっさとここを出ないと、俺たち焼け死ぬぞ!」

煙と炎にまかれながらも、彼らはなんとか生き延びようと廃屋からの脱出を試みる。

しかしまあ滑稽なことに彼らは手に刀すら持たず、むしろ枕をその手に持ったり、わざわざ捨て置けばいいのに捕らえた正一も共に逃がそうと担いだりとてんやわんや。

ただまだ入口だけは火の手が迫ってきてはいない。これを不幸中の幸いと二人は駆け出すが、その様はなんとも哀れで滑稽である。

そんな彼らをその向こうに待っていたのは、恐ろしいほどに冷たい殺気を纏った男だった。


「さあお前らの罪、数えてもらおうか」


少なからずの良心を持った彼らは、運悪く怒りの頂点にいた男の犠牲となったのであった。




「てめえはいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつも‼︎ この俺を‼︎ 怒らせて困らせて面倒かけやがってこの大馬鹿野郎‼︎」


その夜、延々と響き渡ったのは坂口金吾の約三日ぶんの鬱憤のこもった説教だった。正一に対して騒ぎ喚き殴り仕置きしが延々と繰り返されている。

これもまあ、仕方がないことだろう。

確かにこの三日で正一のサボった仕事を坂口が背負った量は大変なものであったし、今回の事件は殆ど正一の不注意が原因である。しかも後処理は全て坂口がやるしかなかった。

これでは、日頃溜まっていた鬱憤も破裂してもおかしくはない。むしろ、胃に穴が開かないだけでも救いと言って良いのかもしれない。


苦労人、ここに極まれりというのだろうか。


とうとう説教に酒が入り、止まるところを知らなくなってきた。もはや、この坂口を止めることは誰にもできやしない。むしろ、止めずにこのまま日頃の鬱憤を晴らしてやったほうが彼のためなのかもしれないと、周りの誰もが思った。

だが、当の正一はというと、相変わらずやる気なさそうなあくびをあげて、坂口の説教を右から左へと聞き流す始末である。


「本当におんしは苦労人じゃのぉ」


そんな正一の同情のかけらもない言葉は、たやすく絶叫とも言える説教によりかき消されていった。

結局その日の説教は、夜通し続くことになったのであったとか。

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