愚か者
「人斬り以蔵が処刑されたらしいな」
縁側で正一と共に茶を飲む坂口金吾宗孝はそう呟いた。慶応元年閏五月のことである。
「……誰じゃったかの」
「誰じゃったかのって、お前がその手で捕まえた土佐の有名な人斬りだっただろう!」
「あー、んなやついたのお。いたいた」
さも取るに足らんというその振る舞いは、坂口を辟易とさせる。
これが正一という男だとはわかっていたことではあるが、やはり溜息をつかずにはいられない。
しかし坂口自身にとってはというと、かつて京都で名を馳せたその人斬りはやはりどこか違ったものがあったようで、今でも印象深く残っている。
どころかその男を捕らえた案件自体が、一年を経とうとしている今でも中々に頭にこびりついて離れないのである。もっとも、この案件を実質的に対処した正一はもはや忘却の彼方に追いやってしまっているようであるが。
「……んあ、いんや、なんかそいつめんどいやつじゃった、ってのは思い出してきたがな」
「え、お前が殺した人間のことを思い出したのか⁈」
流石にこの反応はひどいものがある。しかしこれも無理からぬこと。普段の正一は殺した人間は供養すればそれでおしまいなのだから。
しかし、この場合は勝手が違う。
「いんや……そーじゃったな、わりゃはそいつを殺してないからのお。じゃけんど、そいつが死んだとなれば、供養せんとあかんかの」
そのまま飲みかけだった茶を飲み干して、よっと立ち上がるとその足で線香を探しに行く。そんな正一の背中を、坂口は呆然と見つめるしかなかった。
……あんな奴もお前は供養するのかよ、正一。
はぁ、と呆れたように一つため息。
そんな坂口の脳裏に浮かぶのは、あの日の光景であった。
言葉に尽くせないほどの愚かな愚か者の、最後の悪あがきの姿。
……
「おんしを斬れば、もう一度あしは……あしはぁ!」
狂気を帯びたその刃は正一の首をめがけ飛んでくる。紙一重でかわしてみせるが、正一らしくなくそこから反撃に転じることはできずにいた。
「正一っ!」
背後からその狂気を断ち切らんと振り上げた刀は、刹那にして弾き飛ばされる。何が起きたかわからないままによろけた坂口の腹に、今度は重い衝撃が貫いた。
「ぐ……っ」
声を呻かせ、昏倒する坂口。しかし、彼には目をくれず、その狂気は正一を殺さんと再び敢然と体を向ける。
これは、ただの無宿者を捕らえるだけの任務だった。並みの幕吏では捕らえられないちょっとした乱暴者を、本来の任務のおまけとして捕まえるだけの話だった。
だがどうだ、今の現状は。
「こんなめんどくさいことになるとは、全くふざけてるんかのぉ……」
かの正一も愚痴に似た言葉を吐く始末。その狂気の強さに、ほとほと手をこまねいていた。
よろり、と立ち上がって見せたが直後、再び猛然と迫り来る狂気に、正一は防戦一方の体勢をとるしかなかった。
「うがあぁあぁあぁああ!」
その咆哮はまさに獣のそれである。狂気に身を委ねし男は、ここにとして人を喰らわんと襲いかかる。
それでもなお正一は防ぎの体勢を取り続けるが、その一撃の重さはいくら正一でもいつまでも防ぎきれるわけではない。
「ぬ……!」
袈裟懸けにきた次の一撃を刀の腹で流すや否や、そのまま刀は狂気の宿すその体に一太刀斬り込んで見せる。
流石の奴もこれには足をよろめかせた。その隙を逃す正一ではなく、もう一太刀を浴びせたところでようやく奴は間合いから外れた。
しかし一連の攻防は、正一ですら息をつかせるものである。たいして眼前の奴は狂気に支配されているのか、負った傷をものともしてない。
「……さすがぜよ……うわさのとおり並みの男、じゃないのお……シャボン玉吹きの武士……せーいち、だったかの」
その言葉にピクリと反応したのは正一、ではなく未だ昏倒している金吾の方であった。
「貴様……土佐の者か……しかもこの強さ……まさか」
「ほお……まだ、わしの名前は知れてるようじゃのお……ほうじゃ、おんしの思ってる、とおりぜよ」
その言葉に、坂口は戦慄する。まさか、よもやこのような場で会うとは思いもよらなんだ男が目の前にいるのだ、尚更だろう。
「あしが、岡田以蔵……人斬り以蔵と呼ばれたもんぜよ」
その笑みはあまりにも冷たく、そして肌が震え立つものだった。
かつて人斬りとして名を馳せていたその男。噂では勝海舟の護衛をしていると金吾は聴いていたが、よもやこの様な邂逅を果たすとは微塵に思ってもいなかった。そして、こうして無様に圧倒されるのも。
「にひひ、おんしは確かに思いもよらなんだらしいのお。しかし、あしはずうっと、ずうっとおんしを待っていたんぜよ、シャボン玉吹き」
スラァとその切っ先を正一の喉元に向けて見せる。刃こぼれも甚だしい、無残な刀である。
「おんしも、人を斬っているようじゃのお。しかも、あしの仲間たちを、じゃ。ようけえ話を聞いたぜよ……おんしが恐ろしいとな」
この時点で既に正一はかなりの桁数を殺していた。さすがに隠密と言えども、話が浪士達に広がるのは当たり前だったのかもしれない。
そして、こういう男が現れるのも、必然といえば必然か。
「じゃから、あしはここで暴れまわって、おんしが出張ってくるのをまっとったんじゃけ……おんしは、特に強いと呼ばれる奴を斬ってたっぽいからのお……じゃから、この人斬り以蔵が、おんしを斬っちゃる、そして、その首を武市さんに、みんなに見せてやるとなあ!」
そのまま猪武者が如く突っ込んでくる以蔵を、堂々すぎるほど真正面から正一は受け止めてみせる。
ギリギリと、火花を立てる鍔迫り合い。互いが互いに引くそぶり一つ見せやしない。
しかし、小柄な正一に対し以蔵は一回りふた回りの大きさ。力量に差が出るのは必然である。
「にひ」
次第に押され始めるのは、正一。
足だけは下がるまいと踏ん張っているが、体全体はそうもいかない。狂気を帯びた力を前に、沈みゆくある。
「このまま……死ねっ……!」
以蔵の刃が、正一の刀をおしのけ肩に迫り、そして断つ。はずだった。
その刹那、以蔵の体が流れた。流された。
それは、先ほど見せたあの反撃と同じものだ。
刀は肩ではなく空を断つ。その動揺に体を揺らめかせたその時に、鋭い痛みが背中に走る。振り向いた時にはすでに遅し、正一の拳が顔面いっぱいに叩き込まれた。は手から落ち、痛みに顔を歪める。そして鼻水混じりの血を流して昏倒。
は、しなかった。
どころか、まるでお返しのごとく正一の腹に拳を入れる。腹を撃ち抜く衝撃に、今度は正一が顔を歪めた。さらに以蔵は攻撃の手を緩めない。そのまま正一の髪を掴むや否や頭突きを幾度も繰り出し、追い討ちをかけんとばかりに蹴り飛ばす。
小さな体はあえなく壁に打ちのめされ、がくんと首を項垂れる。
「ふーっ、ふーっ……」
先ほどの正一の拳で折れたであろうその鼻を無理矢理に直し、落とした刀を拾い上げるやいなや、ぐいと振りかざす。
「ようやく……ぜよ。ようやくあしは、もう一度……みとめられるんじゃき……こんな、強い奴を斬ったなら、武市さんももう、みすてないじゃろおなあ……」
白刃が、煌めく。
未だ立つことのない正一に迫り行く。
「いいや、させるかっ!」
飛び込んできた坂口のその刃に驚きの顔を見せるも、その攻撃自体は難なく捌いてみせる。
やはり、坂口と以蔵では技量に差が出る。坂口以上に人を殺し、そして殺し慣れている以蔵の方が、一段上手。
「甘いぜよ……っ!」
しかし、甘かったのはその台詞をほざく以蔵の方であっただろう。
いざ追い詰めんとしたその手に走ったは苦痛。見れば、手首を細い鉄の棒らしきものが貫いている。だがなおもその刀を振り上げた時には、横殴りの拳が、いいや頭突きが思い切り顎を穿つ。
これには以蔵もたまらず、幾度も堪えたその体もようやく地に沈む。
「まったく、手こずらせてくれたのお……」
痛みにしかめっ面下げつつ、頭をさする正一。すこぶる不機嫌そうだ。
「おんしは、わりゃの前に立ち塞がった。じゃから、ここで斬る」
「ほざくな……ほざくなや……!」
悪態をつき、身体を起き上がらせようと足掻いてみせる。しかし、そうはさせじと金吾は奴の足の健を断ち切った。これではもはや以蔵といえど立ち上がることはできまい。
しかし、以蔵はなおも諦めない。
刀を杖に、傷ついたその足でなおも立とうとする。
しかし、その足は坂口に容赦なく蹴りとばされれば、体は難なく崩れ落ちる。しかりとその刀を奪うことも忘れない。
「これで、こいつはもう無力だ」
その言葉は酷く冷徹ではあるが、反面どことなく安堵の心持ちがあるのを自覚する。こいつに刀を持たせたままでは何を仕出かすかわかったものではない。
「ぬうっ……う」
「ようやく、ケリをつけれるがな」
正一は満身創痍の狂気に対して、トドメを刺すべく白刃を振りかざそうとする。
が、ここで正一を止めるものが一人。何を隠そう坂口金吾その人である。
「正一、今回は殺しじゃない。それにこいつは土佐藩から指名手配されてる奴。……ここは捕らえるだけに止めよう。そして、いるんだろう、厄」
「ここに」
呼びかければどこからともなく声がする。相変わらず姿は見せない隠密である。
「話は聞いただろうな」
「当然のこと。直ちに」
そう言うや否や、その声は陰に溶け込むように消えていく。仕事が早いのがこの男の取り柄である。
その手腕を傍目に、正一は渋々としながら刀を納める。心底不満げな目つきである。
「そう怒るなよ、正一……まあ、引き渡したところでこいつの死は免れないだろうが、な」
とりあえず、あとは応援の幕吏が来るのを待つのみ。
だが、その時だった。
「あしは、おわらない、きに……」
止まることを知らず、止まることをやめず。
そこには、もはや執念しかない。
その男は、未だ轟く。
「あしは、もう一度認められるために……おんしを、斬るんじゃ……斬るんじゃあ!」
ぞっ、とした。
そいつはもはや立てぬ身体を無理矢理に起こして、地をその足で踏み入れて立っていた。
狂気入り混じるその殺気は、並大抵のものならいともたやすく圧倒するだろう。事実、坂口は奴を前にして足が石のように固まって動かすこともままならない。
「シャボン玉吹き……ここでおんしを斬れば……あしは、あしはもう一度武市さんに、龍馬に、みんなに……認められるじゃきに……じゃから、おわりとおは、ないぜよ!」
「じゃから、認められて何になるがよ」
その殺気を、狂気を前にして、シャボン玉を吹き散らすその男は、恐れ知らずの拳一つで何もかもを叩き潰した。
執念を。
想いを。
願いを。
その拳はすべて叩き潰して無に帰す。
幾度も立ち上がり、執念を見せつけたその男も、もはやそれを二人に見せることはなかった。
愚か者の悪足掻きは、ここに潰えたのであった。
……
あの執念は、なんだったのだろうな。
と、時節坂口は考えることがある。
後々の話で、以蔵は土佐下級階級である足軽の家に生まれ見下されていたが、武市半平太という男にその剣の腕を認められめきめきと技量を高めたこと。しかしその後の活動でその剣の腕を人斬りとしての活動に使ったこと。まるで今までのしっぺ返しを受けるが如くの境遇に陥り、そして誰からも見捨てられた、という事を知った。
正一を狙ったのも、志士や浪士が正一に狩られていたのを耳にして、奴を討ち取ることで皆に認め返してもらおうとしていたのだろうか。彼が死んだ今となっては、もはや知り得ぬ事ではあるが。
しかし、ただそれだけのために見せたあの執念と狂気は、今もなお坂口に鳥肌を立たせるには十分な代物だった。
「線香見つかったがな」
とてとてと現れた正一は、庭先に出ると適当に土盛りをせっせと作る。手頃な石を墓石がわりにし、おもむろに線香の束を刺す。少々不恰好にもほどがある墓である。
「いや、こんなところに墓なんて作ったところで仕方ないだろ、お前……」
「まあ、そうかもしれぬが、まあ形だけじゃよ」
「形だけ、ねえ……」
自らが殺そうとした男に線香を手向けられるとは、一体どういう心境になるのか、と思わないでもない。このような光景を見ていると、相手が人斬りと雖も多少なりに哀れな気分になって来る。
「……なあ、奴のことを思い出したんだろう」
「んが。まあ、うろ覚えじゃけどな」
「そうか。……お前は、あの男どうだった」
「どうだった、とはどういうことかの?」
「いや……奴の執念を前にして、どう思ったかな……と。俺は恐ろしく感じたが、お前は平気そうに立ち向かったじゃないか」
「せやったかの」
と、とぼけた風にしながら、墓の前でそっと手を合わす。紫煙はゆらりゆらりと天に昇り、どこへともなく消えていく。
「……まあ、終わりとおない、ってのはわからんでもなかったがな」
ただ、その言葉だけポロリとこぼして、正一はシャボン玉を吹かしはじめる。テコでもブレなさそうな正一の気質は、あいも変わらず。
坂口は苦笑しつつ、正一が何処かに行った後に、そっとその墓に手を合わせた。
線香の香りが、ほんのりと鼻をくすぐった。
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