二話「神話世界」


 繁華街のど真ん中に、尼室ニムロ・ノア・燐香リンカの事務所はあった。

 いかがわしい看板のネオンが夜中でも煌々と灯り、客引きと酔っ払いと仕事帰りのサラリーマンでごった返す歓楽街の一角、薄暗い路地の錆びた階段を登った先に、ビールの空き瓶をつめこんだケースや新聞紙やダンボールが山のように積み上げられ、その中に『尼室調査所』の看板が埋もれていた。

 鉄の階段を踏みしめるヒールの音が高らかに響き、スニーカーの頼りない足音がそれに続く。

「ああ~、疲れた。もう、めんどくさい事に巻き込まれないでよね」

「僕だって好きで巻き込まれたわけじゃありませんよ……」

 タクシーを乗り継ぎ、放っておくわけにもいかずにミコトを連れて事務所に戻ってきたリンカはコンビニの袋をぶらさげていない方の手でドアを開く。無用心にも鍵はかかっていなかった。

「ふいー。やっぱりヤサは落ち着くわぁ~!」

 慣れた様子で壁を見もせずに電気のスイッチをつけ、無造作にパンプスを脱ぎ捨ててスリッパに履き替える。

「あんたも適当にくつろいで」

 とぼとぼと後をついてきたミコトは、鍵をしめて事務所を見渡した。

 くつろいでくれと言われても、どこでくつろげばいいんだ?

 十畳ほどの事務所は、まさに雑然という言葉しか浮かばないほど散らかり放題だった。奥のデスクには書類がうずたかく積もり、デスクの横にでんと置かれた革張りのソファーには下着や服が脱ぎ散らかしてあり座るスペースなどない。

 キッチンの流しには食器やカップラーメンの器が放り込んである。いちおう電気コンロを備えているようだが、その上は買い置きのカップ焼きそば置き場になっていた。おそらく料理する事などないため、コンロは不要なのだろう。

 壁を埋め尽くす本棚の前には雑誌や文庫が今にも崩れそうなバランスで積み上げられていた。

 横に目をやると、靴棚の上には未開封の封筒が山と積まれ、百円均一で売っているようなプラスチックのバケツに小銭が無造作に放り込まれている。

「あのー、どこに座ればいいのでしょうか」

「ん? そこら辺にスペースあるじゃん」

 リンカが指差したそこら辺とやらに目をむけると、確かにスペースはあったが、カーペットすら敷かれていないむき出しのリノリウム床だった。直に座れという事だろうか。

「もうちょっと片付けたらどうです……掃除してもいいですか?」

「タダでやってくれんの? じゃあお願いしよっかな」

 あまりの散らかりように我慢できなくなったミコトがてきぱきと片付けを始める横で、リンカはコンビニの袋からビールの缶を取り出してプルタブをプシュッと開けた。

「ああっ、服の上に座ったらシワになりますって! ああもう、飲みかけのまま次の缶を開けないで下さいよ!」

「うっさいわねぇ、小姑かあんたは」

 掃除をしながら、ミコトはあらためてリンカを盗み見た。

 派手な金髪をアップにし、小さく整った顔は薄めのナチュラルメイクでも輝くように白く瑞々しい。大胆に開いた胸元からこぼれそうな胸、キュッと引き締まったウエスト、タイトスカートから伸びた長い足。黙って立っていればモデルだと言われても疑わないだろう。

 父親の手紙に従って初めて会った時は、今までに見た事のないような美人を前にしてミコトはどぎまぎと緊張した。ビシッとスーツを着こなして化粧映えする顔に艶然と笑みを浮かべるリンカは見るからに仕事のできそうな大人の女性というイメージで、喫茶店で向かい合って座っているだけで萎縮してしまいそうなほどまばゆいオーラを放っているように見えたものだ。

 が、それから何度か会い、がさつで野放図な振る舞いを見る度にイメージはどんどん暴落し、今では女性として意識するのも難しい。

 ソファーに投げ捨てられた赤い下着をせっせと拾っては何の感慨もなく洗濯籠に放り込んでいく。

「よく働くわねえ。あんた、ウチで働かない? 今なら三食添い寝付きよん!」

「遠慮しときます。そんな事より……」

 ミコトはバケツから五十円以上の硬貨をサルベージして選り分けながら、思い出したように真面目な顔になって尋ねた。

「よく僕が捕まっている倉庫がわかりましたね」

 帰路の途中、意識してその話題は避けてきた。まだ倉庫での恐怖は抜けきっておらず、できるだけ思い出さないようにしてきたのだ。

 だが落ち着いてきた以上、いつまでも先延ばしにはしていられない。

 リンカはミコトが自分からその話題を出すまで待っていたようだった。もしかしたら忘れていただけかもしれないが。

「ああ、あれ? ミコトはケータイ持ってなかったからあたしが買ってあげたでしょ? あれのGPS機能で大体の場所を絞りこんだのよ。電源が入っていて助かったわね」

 もしあらかじめ悪党にケータイを取り上げられて壊されていたらと思うとぞっとする。

「あと、あんたのかばんに入れておいた発信機が役に立ったわね。衿家教授の手紙を受け取って以来、もしかしたらこんな事もあるかと思ってたんだけど」

「発信機なんていつの間に入れたんですか! いや、そのおかげで助かりましたけど……ところで、父さんから送られてきた例の碑文って、やっぱり相当な値打ち物なんでしょうか? 悪党に狙われるほどに?」

「アレね。まあ、欲しい人にとっては金をいくら積んででも欲しいでしょうね。アレについて何か聞いた?」

「ええと、なんとかの眼がどうのとか……」

 記憶を手繰り、倉庫でミフネが言っていた単語を思い出そうとする。

 リンカはテレビのリモコンを操作しながら、なんでもない事のように言った。

「アカシャの眼。神秘を追い求める人種にとっては、喉から手が出るほど欲しいはずよ。伝説によると巨大なサンストーン――太陽の石と呼ばれる宝石ね――らしいんだけど、これの本当の価値は、アカシックレコードを読み解く力を秘めていると言われている所なの」

「アカシックレコード?」

「そう。そもそも、なんであんたのお父さんがあたしに依頼するように手紙を書いたと思ってんの? あら、そういえばアカシックリーディングについては話してなかったっけ?」

「聞いてないですけど。遺失物や人探しを請け負う事務所なんでしょ? ここ。碑文が示すお宝か何かについて調べてもらうためかと思ってましたけど」

「表向きはね。アカシックリーディングについて話すと客が胡散臭がるからあまり話さないのよね。だから最初のうちは猫をかぶってまず信用を得る訳よ」

「そういえば初対面の時のリンカさんはすごくまともな人に見えました」

「そうでしょうよ。初心な男子高校生をだますくらいチョロいって!」

 からからと笑いながらソファーから身を起こしたリンカが、デスクから冊子のようなものを取り上げ、ミコトに投げてよこした。どうやらパンフレットのようだ。

「アカシック・リーダー……尼室?」

 表紙にざっと目を通し、強調された明朝体の怪しい単語について尋ねる。

「アカシックレコードって聞いた事ない? おおざっぱに言えば、宇宙開闢かいびゃくから未来の果てに至るまで、全ての記録がどこかに保存されているって考え方があるのね。アカシャはサンスクリット語で『無』『虚空』みたいな事を意味していて、インドの哲学では物事の本質であり全ての根源と考えられていたの。で、アカシャに秘められた記録を自分の意思で読み取る事ができる人が、アカシックリーダーと呼ばれてるのよ。占い師や預言者も、アカシックレコードにアクセスして情報を得ていると考える事も出来て、要するに、ありとあらゆる全ての情報の中から、意図的、あるいは恣意的に目的の情報を読み取れる人、って事かな」

「じゃあ、アカシャの眼にはそのアカシックレコードから情報を読み取る力があると? 本当ですかね……」

「宝石が人の心に影響を与える事は昔から信じられてきたけど、特に信仰の対象になっている石なんかは強い力を持つ事があるの。あんたから預かった碑文にアカシャの眼の記述を見つけてちょっと調べてみたんだけど、未来を予見する力を持ったサンストーンの伝説が古い文献に載ってたのね。これがちょうどアカシャの眼と呼ばれて大昔は信仰されていたとか。特に、アカシックリーディング能力を持っていたと思われる古代のシャーマンはこの石を使ってその能力を増幅し、神と交信したらしいのね。人のアカシックリーディング能力はかなり限定的なものだから、それを増幅してくれる石が本当にあるなら金に糸目をつけない連中はいくらでもいるでしょうね」

 説明を聞きながらパンフレットに目を通していたミコトだったが、確かに胡散臭い。リンカの人格を知った後だと、余計に胡散臭く感じる。

「つまり、オカルト的なものですか?」

「そりゃ、オカルトっちゃー、オカルトだな。チャネリングとか霊媒とかと似たようなもん……なのかな? まあ呼び方はなんであれ、古代から宗教やら神秘思想家達の間で行われてきた事だね。トランス状態で神と交信するシャーマニズムや霊を自らの体に降ろすイタコも似たような系統かな。二十世紀前半のアメリカでも、催眠状態からアカシックレコードにアクセスして難病の治療を行ったという有名な人がいるね。こういった超自然の存在とアクセスして情報を得るという事例は人類の歴史上、常に存在してきたんだけど――ん? どうした、あからさまに信じていない顔だな」

「そりゃ、すぐには信じられないですよ。古代ならいざ知らず、現代日本じゃあまり信じてもらえないと思いますけど……」

 立ったままパンフレットをぱらぱらと流し読みするミコトを見上げ、リンカはにやりと意味深な笑みを見せた。ソファーに深く沈んでいた体を起こす。

「そうねえ。ま、実際にやってみせるのが一番早いかな」

 横目で窺うような笑みに、不気味なような、それでいて艶めいた気配を感じてミコトは戸惑った。

「そんな簡単に試せるんですか?」

「簡単かどうかは相手しだい。相性っていうのかな……まあ、ミコトなら問題ないわよ」

 にじり寄る年上の女性から思わず後退さる。

「な、何をする気ですか……」

「あたしのアカシックリーディングはちょっと特殊でね。自分一人ではアカシックレコードにアクセスできなくて、他人の意識をアカシックレコードにアクセスさせる事で、間接的に情報を読み取るのね。ちょうどよかった。この碑文が示す場所がどこなのか、今から調べてみましょうか」

 リンカはカバンから布でくるんだ石版を取り出し、ミコトの前にかざして見せた。

「何か文字が書いてありますね……」

「ああ、サンスクリット語で書いてあるみたいだけど、所々欠けたり褪せたりして、これだけでは意味がよくわからないのよね。一応、わかる所だけ読んであげようか?」

「読めるんですか? じゃあ、お願いします」

 ミコトをカーペットの上に座らせ、ソファから身を乗り出すようにして石版に刻まれた文字を読み上げた。

「読めない所は飛ばすわね。えーと……」


『我らが太陽の聖地 ――に囲まれ ――に――――――を臨む

 神々は去り

 太陽の娘は一人舞う

 ――に刻みしアカシャの眼

 ――を――した――の――に――』


「……大体、こんなところかな」

 石版に刻まれているのは糸がのたくるような文字で、もちろんミコトにはさっぱり読めない。

「よくわかりませんけど……これだけで、アカシャの眼とやらの場所はわかるんですか?」

「いんや、さっぱり」

「文字から場所を特定できないんでしょうか」

「サンスクリット語圏だけでもインドから東南アジアまで広範囲に渡っているからね。アカシャの眼が隠されているのは遠く離れた場所かもしれないし。これだけじゃほとんど何もわからないわね。だからこそ、あたしの能力が必要になってくるわけよ。衿家教授とは生前にお会いした事があるけど、その時に説明したあたしの能力を頼りにしたんでしょうね」

 リンカはいつの間にかソファーから降りて、床に座るミコトの前までにじり寄ってきていた。思わずミコトは足を正す。

「例の……アカシックリーディングですか?」

「そう。この石版に刻まれた碑文だけではおそらく目的の場所がわからない。そこで、この石を媒体としてアカシックリーディングを行い、石碑と繋がりの深い場所を割り出すの。この石版には石碑を彫った人や崇めてきた人々の共通意識が残っているから、それを辿る事で手がかりが得られるはず。それにはアンタの協力が必要になってくるけど、覚悟はいいかな?」

 膝立ちになって顔を近づけたリンカが妖しい笑みを浮かべて目を細める。覚悟と言われても何をどう覚悟すればいいのかわからないミコトはうろたえるしかない。甘い香りがふわりと漂い、慣れない異性との急接近にくらくらする。

「覚悟って何を……?」

 前かがみになって大胆に露出した胸元、鎖骨から首筋、あごにかけての女性らしいライン。艶めいた唇から意識して視線をそらす。あごを両側からはさむように手を添えられた。冷たい指先の感触がむずむずする。

「だいじょーぶだいじょーぶ! すぐ済むから……」

「何が……う!」

 逃げる間もなく唇を柔らかい感触で塞がれた。何が起きたかよくわからないが甘い痺れが体を駆け抜け全身から力が抜けた。それが生まれて初めて体験する異性の唇の感触なのだと実感するよりも先に、ミコトの視界はまばゆい光に包まれていく。

 最初は意識が遠のいているのかと思った。

 が、光は前方の一点から後方へと流れるように拡散し体の感覚が無くなっていく。立っているのか座っているのかよくわからない無重力感覚。自分の体とそれを包む光の境界が薄れ、大きな何かに融けていくような一体感があった。白一色の視界と心地よく安らかな浮遊状態の中でまどろむような感覚に落ちる寸前、突然何かに引っ張られるように急加速を始めた。

 前方から無数の映像が現れては消え、ミコトの意識を通り抜けていった。それは泡に映る映像のようでもあり、四角いキャンバスに描かれた絵のようでもあり、淡く揺れる陽炎のようでもあり、古ぼけたスクリーンに映し出される露光を間違えた映画のようでもあった。

 光に滲み、歪み、拡大して高速で流れる膨大な情報の奔流に圧倒されたのも束の間、それらは認識すらできないほど加速し、数限りない色の螺旋に視界が埋め尽くされ――

 眼のような形をした闇が前方に生まれ、瞬く間に飲み込まれて意識が暗転した。



 気が付くと、だだっ広い荒野にミコトは一人で佇んでいた。

 何がどうなったのかさっぱりわからない。

 辺りを見回す。

 オレンジがかった岩肌が露出した大地には、所々にくすんだような色の短い草が申し訳無さそうに生えている。頭上にはやけに大きく感じられる太陽。ギラギラと力強く輝くそれは圧倒的な威圧感を誇示するかのように、物理的な圧迫感を感じるほどの熱量で大地を焼いている。

 見る間に汗が噴出してくるのがわかった。

 自分の格好にふと意識を向けると、先ほどまでの学生服のままだった。襟元は早くも汗でぐっしょり濡れている。だがそれも熱風がすぐに乾かしていく。異様に濃い影が、まるで黒い紙を切り取って貼ったかのようにクッキリと地面に映っている。

 額に滲む汗を袖口でぬぐい、目を細めて視線を上げる。

 ミコトが立っている場所はちょっとした高台になっていた。似たような高台は無数にあったが、地平線まで続く果てしない大地を前にしては多少の起伏など無いも同然に感じられた。

 一直線の地平線で力強く分かたれた真っ青な空と赤茶けた大地のコントラストが目にまぶしい。所々にそびえる岩山はゆらゆらと陽炎を立ち昇らせ、太陽に焼かれて赤く灼熱しているようにも見えた。

 目の前に広がる雄大な大地に圧倒されていたミコトだったが、ややあって、ここはどこなのだろうと思うに至った。

 明らかに日本ではない。

 大気は原初のエネルギーを圧縮したかのように濃密で、大地は常に鳴動せんばかりの力に満ち、太陽はその熱量で視界全体を揺らめかせるほどに存在感を放っていた。

 途方にくれて立ち尽くすミコトだが、遠くから声が聞こえた気がして我に返る。

 ――ミコト……ミコト! 聞こえる?

 風鳴りかと思うほど小さく微かだったが、間違いなくリンカの声だ。脳内から響いてくるような不思議な感覚だった。

「リンカさん? ここは一体……僕はどうなったんです?」

 訳もわからず放り出された異境にあって、聞き知った声になんとも言えない心強さを感じた。

 ――そこはね、アカシックレコードに刻まれた意識の世界とでも言うのかな。この石版やアカシャの眼にまつわる人々の信仰や集合意識を具現化した――簡単に言えば、神話の世界に入り込んだって思えばいいよ。

「神話の……世界?」

 ――そう。あたしがあんたの意識を神話の世界に飛ばしたのよ。あたしはあんたの意識を通して神話世界を垣間見る事ができるってわけ。アカシャの眼に係わるヒントが何かあるはずだから、がんばって探しなさい!

「探しなさいと言われても……」

 再び悠久の大地に視線を戻し、その途方も無い広さにぼんやりする。

 が、岩山の影にふと違和感を覚え、そちらに集中してみた。

 どうやら、岩山と岩山の隙間に人工的な建造物がある。遺跡だろうか。大地に根を降ろすようにして岩山の間にひっそりと佇んでいた。周囲の雄大さにスケール感を狂わされてここからでは大きさがよくわからないが、近くに行けばそれなりの規模を持った建造物なのかもしれない。切り出した石を複雑に積み上げたような形状で、ここからではよく見えないが彫刻らしき物がびっしりと彫ってある。

「何か遺跡みたいなものがあります」

 ――それだ! 岩を削りだして作るのではなく、石を積み上げる様式ね。車輪のような彫刻が見える……コナーラクの太陽神殿かな? 形が違うけど……

「コナーラクの太陽神殿?」

 ――インド東部の、太陽神スーリヤの寺院ね。アカシャの眼が本当にサンストーンだとしたら、太陽と関係のある神の遺跡に祀られている可能性は高いわね。でも、ここからだとよく見えない……もうちょっと近寄って調べなさい!

 言われるがままに歩を進めてみるが、どれだけ歩けばいいのだろうか?

 平らに見えた地面もごつごつと岩が突き出して歩きにくい。太陽は貧弱な現代人を嘲笑うかのように容赦なく照りつけ、無情に体力を奪う。

 高台の端まで来てミコトは足を止めた。

「崖になってます……」

 ――崖があるなら降りればいいじゃない。

「落ちればたぶん死にます……」

 ――そっちで死んだら本体は二度と目覚めないから気をつけてね。

 そんな事を軽く言われても困る。

 為すすべもなく崖下を見下ろしていた視線を何気なく遺跡に向けたミコトは、ふと人影を見たような気がして目を凝らした。

 建造物の屋上には複雑に小さな塔が乱立している。その塔の一つに、確かに動くものがあった。

 少女――だろうか。

 プラチナブロンドの髪が太陽の光を透かして白く輝く。小柄で華奢な手足は健康的な小麦色だ。腕にはめた銀の腕輪が陽光を反射して煌めいた。表情はわからない。塔の端に手をかけ、地平線の方へ顔を向けている。

「女の子……がいます」

 ――ほう! 直接、話を聞いてみるのが一番手っ取り早いわね。声をかけてきなさいよ!

「言葉、通じるかな」

 ――今のあんたは意識体みたいなもんだから、言葉の意味は直接理解できるはずよ。

「便利ですね……でも、めちゃめちゃ遠いんですけど……」

 ミコトは目を凝らし、少女の様子を観察してみた。

 向こうはこちらに気付いていない様子だったが、ふ、と顔を上げ――

 目が合った。

 ミコトは魅入られたように固まって身動きできずに立ち尽くした。少女のまとうオリエンタルで神々しい雰囲気、無垢で透き通った視線。無窮の荒野に一人で佇む少女――

 それら全てが心の琴線をかきならし、胸がざわざわした。

 近づきたい。近づいて声をかけてみたい。

 むしょうにそう思ったが、足は思うように動かない。声も出なかった。

 遠くから聞こえるリンカの声がさらに遠ざかっていく。

 夢の中で、名残惜しく思いながらもうすぐ夢が醒める事を自覚しているような感覚。

 体の感覚が薄れ、視界が暗転していく。

 閉じそうな瞼の中、涼しげに佇む少女の姿を目に焼きつけ――やがて意識は闇に閉ざされた。



「気がついた?」

 ミコトが目を開けると、目の前にリンカの顔があった。まだ意識は朦朧として現実感がない。周囲を見渡す。散らかったままのデスク、半端に掃除済みの床、壁一面を埋め尽くす書架……

 間違いなく現代日本の、リンカの事務所だ。

「えーと……夢……じゃないですよね」

 雄大な情景がまだリアルに思い出せる。あの太陽の温度、ごつごつした岩の感触、そして妙に心を捉える少女の姿……とてもただの夢とは思えない実感があった。

「夢じゃないわよ。さっきも言ったように、あなたの意識を、石版を媒体とした集合意識の世界――神話世界に繋げたの。神話ってのは言うなればそれを信じる人々の意識が集まってできた塊なのね。人の数だけ神話に対するイメージがあって、ごった煮のスープみたいになってるわけ。例えるなら、そのスープの中にあんたという調味料を混ぜて出来上がったのが、さっきまであんたが見てた世界なのよ」

 言葉を頭の中で反芻し、ゆっくりと理解する。神話の世界……

「じゃあ、最後に見たあの女の子は? 神話の世界という事は、神様ですか?」

 リンカは立ち上がり、テーブルのポットから二人分のコーヒーをカップに注ぎながら答えた。

「それはまだなんとも言えない。神話の中に普通の人間が出てくる事だってあるし。それよりあの場所がどこなのか考えるのが先ね。あの車輪を模した彫刻から見ると、スーリヤ神を祀る太陽神殿じゃないかと思う」

「スーリヤってのは太陽の神様でしたっけ?」

「そう、インドの太陽の神様。スーリヤ神が乗る馬車を模した神殿がインドのコナーラクにあってね。車輪の彫刻が特徴的なんだけど、さっき見た遺跡にも似たような彫刻があったのよ」

 カップを渡されたミコトは熱いコーヒーを喉に流し込みようやく人心地ついた。自分の分のコーヒーをちびりと啜り、リンカは続ける。

「うーん、あれだけじゃなんともしようがないなあ。あたしのアカシックリーディングは目的の場所と離れているほど接続時間が短いのよね。ここからじゃ集合意識にアクセスしてもあの程度の時間しか調査できないから……よし!」

 リンカの何かを決意した目にミコトは不吉な予感を覚えた。

「そうだインド、行こう!」

 京都に行くノリで軽く言われても困る。

「お気をつけて……」

「何言ってるの! もちろんあんたも行くのよ! インドに!」

 不吉な予感は当たっていたようだった。

「なんで僕まで? 僕は別にアカシャの眼なんて欲しくないですし……」

「あんたのお父さんが係わってるのよ。気にならないの?」

「父が何をしていたかなんて興味ないですし。僕には関係ないです」

「まったく、薄情な奴ねぇ。でもあんたがどう思おうと、連れていくかんね。アカシックリーディングには相棒が必要なのよ。こんなお宝をゲットできるチャンスを見逃す手は無いわ」

「別に僕じゃなくてもいいのでは……?」

「相性があるって言ったでしょ? 誰でもいいってわけじゃないの。ミコトクンはあたしと相性良さそうだからね」

 意味ありげな流し目を送られてミコトはうろたえた。色々あって忘れていたが、突然唇を奪われた記憶が蘇り顔が火照る。

「そ、そうだ、さっきの……アレはアカシックリーディングに必要なんですか?」

「ん? キスの事? まあ他にも方法は無い事もないけど。相手の意識を集合意識とリンクさせるには、相手が無防備に心を開いてくれる必要があるのね、さっきのミコトみたいに。びっくりした顔で固まっちゃって、もしかして初めてだった?」

 わざとらしく掌を口元に当ててニヤニヤするリンカからミコトは憮然とした表情で顔をそむける。

「セクハラだと思います。しかも、し、舌まで……」

「ごちそうさまでした」

「うわああぁぁぁん!」

 恥ずかしさに身悶えするミコトを尻目に、リンカはPCを開いてさっさとインドへの便を調べ始めた。机の引き出しを漁り、奥につっこんであったパスポートを引っ張りだす。

「そんな事より、あんたパスポート持ってる?」

「持ってないですけど……」

「じゃあ明日にでも申請しないとね。一週間くらいで取得できるからそれまでに準備しないと。出発は一週間後かあ。かったるいけどしょうがないわね。取得したらすぐ出発するから。あんたもそろそろ夏休みだしちょうどいいか」

「やっぱり僕も連れていかれるんですね……」

「男ならいいかげん腹をくくりな。おっと、インドの観光ビザを取得しとかないと。ビザがなくても向こうの空港までは行けるけど、ビザチェックで追い返されるからね。代理店に頼むのは面倒くさいから大使館に直接行くわよ、明日」

 ミコトはむくりと身をおこし、てきぱきと予定を決めるリンカを見上げた。

「出国前にチェックされないんですか?」

「それがされないのよねえ、不思議な事に。インドの空港観光だけして帰ってくる羽目になるから、忘れないように取得しとかないと」

「でも、ビザを忘れるような間抜けはさすがにいないのでは。アハハ」

「……あァ?」

 冗談だと思って笑うミコトの顔が、リンカのひきつった笑みを見て凍りついた。

「……もしかして、それってリンカさんの実体験……じゃないですよね」

「あたしがそれにYESと答えれば、あんたはあたしを間抜けと言った事になるんだよ?」

「あっやっぱりいいです! 知らなくていいです!」

 しっかりしていそうで抜けているリンカの実態を再認識し、ミコトの胸中に立ち込める暗雲は勢力を増すばかりだ。バイト先に急な休みを告げるのも気が重いが、それ以外にも様々な不安は山積みだった。

 とりあえず一つだけ言える事がある。

 旅行の準備はリンカに任せず自分で確認しよう……

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