太陽神スーリヤの娘
山田なんとか
一話「アカシャの眼」
映画でよくあるシチュエーションに直面した時、自分ならどうするだろうと考えた事はあるだろうか。
たとえば、主人公が水に潜るシーンで同じように息を止めてみたり。
殺人鬼が潜む館を主人公が徘徊するシーンで、自分なら真っ先に警察に連絡するだろうと考えてみたり。
たわむれに想像してみる事はあっても、実際にそのようなシチュエーションに遭遇した際はイメージ通りに行動できるものだろうか?
彼、
まず、椅子に座った状態で縛られている。
次に、二人の男に銃口を突きつけられている。
場所は、おそらくどこかの倉庫内。
ただの学生であるミコトにとって、普通に生きていれば一生遭遇しないようなシチュエーションだ。
実際、今朝までは何事もなくいつもどおりの日常を過ごしていた。それが、学校帰りに突然襲われて連行され、今に至る。
まさか、日本国内で本物の銃を見る日が来るとは。ミコトは脂汗をだらだら流しながら心臓の鼓動を少しでも静めようと努めたが、情けない主人を置いて逃げようとするかのように暴れる心臓は一向におとなしくなる気配が無かった。
倉庫の天井に設置されたスポットライトが逆光になり、銃を持つ男達の表情は影になっている。辺りには木箱が積み上げられ、どこかの国の言葉で文字が刻まれているが、じっくりと見ている余裕などない。
銃口の中の黒い闇がまっすぐにミコトを睨んでいた。
お前が嫌いだと睨まれるのとは訳が違う。明確に、そして冷静に、あなたを殺しますとハッキリした殺意をぶつけられているのだ。
ミコトにとって、死を予感した事などこれまでの十六年で数えるほどしか無かった。小さい頃、自転車で川に落ちそうになった瞬間は確か死を意識したと思う。一瞬、時間の流れが緩やかになり、ああ、ぼくは落ちるんだ――と考えるとともに胃がキュッと縮み上がるような感覚があったと記憶している。あの感覚に近いだろうか。ただし、あの時とは違い、今は他人の手により不当に死を与えられそうになっているのだ。相手の都合で。なんと理不尽な話だ。
とは言え、何も問答無用で殺されるというわけではなさそうだった。対応を間違えれば死ぬかもしれない状況には変りがないが。
「もう一度聞く。アレをどこにやった?」
細身の男が低く抑えた声で尋ねた。ミコトはパニック寸前の頭でどうにか質問を理解し、口をぱくぱくと動かした。こんなシーンを映画で見た事がある。あの時、主人公は何と答えただろうか? 不敵に笑ってジョークをかましたかもしれない。「アレならパンツの中さ! 探してみるかい?」とでも言ったかもしれない。
――やってみるか?
できるわけがなかった。
何か言おうとするのだが、言葉にならない。短めの黒髪はじっとりと汗ばみ、カッターシャツの襟元を濡らす汗が冷えて気持ち悪い。学校指定のシャツには荒縄がぎりぎりと食い込み、椅子の背もたれに固定されている。同じように、前腕部も椅子の肘にきつく縛り付けられていた。目隠しされていないのは幸いなのか不幸なのか。目の前に銃口をつきつけられるのも最悪だが、何が起きているのか見えないのもそれはそれで不安だ。
かばんはどこに行ったのだろうかとふと思った。ろくな物は入っていないが、教科書一式が無くなると少し困る。明日も授業があるのに……
やくたいも無い事を考えながら、どうしようもない状況に追い込まれると自然に現実逃避してしまうものだなと思った。対応を間違えれば明日などないのだから。
二重のまぶたが忙しげに瞬きする。何か言わねば……
二人の男のうち、細身の方が銃を下ろして一歩前に出た。
「言う気はないってわけか。いいだろう。それならこちらにも考えがある」
ストライプの入った黒いスーツに黒いシャツ。ワインレッドのネクタイ。黒髪をぴっちりとオールバックに撫でつけ、肌は病的に白く彫りの深い顔立ちは国籍不明だ。瞳は茶色で、日本語も流暢に話している様子を見ると日本人に見えなくもない。オートマチック拳銃の銃杷を掌で弄びながら男が言った。
「どうしても言いたくないっていうなら、不本意ながら痛い思いをしてもらう事になるよ」
男の白い顔に酷薄な笑みがうっすらと浮かんだ。まったく不本意だなんて思っていなさそうだ。
ミコトは必死で言葉を探したが、適当な言葉が見つからなかった。男が言う、『アレ』には心当たりがある。おそらくアレの事だ。アレに対しては、命をかけてまで守る価値があるとは思っていない。だがなんと説明する? どこにあるかは知らない。しかし、誰が持っているかは知っている。それを言えば、現在所持している人に迷惑がかかる事は明らかだった。
ミコトの目が泳ぐ。男はその様子を見逃さなかった。
「よしよし、喋る気は無さそうだな。いいぞ、それでこそ楽しみがいがある。俺は拷問が三度の飯より好きでね。どんな拷問がいいかな。そうだな、君に選ばせてあげよう。『回転キツツキ』と『逆さまヤジロベー』どっちがいい?」
なんとなく可愛らしい響きだが、おそらく拷問の名称なのだろう。
どっちもイヤに決まっている。
ミコトは必死に首を横に振った。
「ん~? どっちとも味わいたいって? よくばりさんめ。しょうがないな。最初はとりあえず……軽く指から行っとくか」
指に何をする気だ? ミコトの顔色が蒼白になる。
「ブンタ、車からレンチを取ってこい」
細身の男が振り向いて大柄の男に声をかけた。声をかけられた大柄の男が後ろを振り向く。後ろには誰もいない。倉庫内にいるのはこの三人だけだから、当然だ。
「……お前だ、お前に言っている。他に誰がいる」
「ああ、俺の事か。ブンタって誰かと思った」
大柄の男がぼりぼりと頭をかいて言った。刈り上げた頭のてっぺんに茶色の髪がパイナップルのヘタみたいに生えている。アーミーパンツにタンクトップ、筋肉隆々の体つきは厳しいが、おつむの方はかなり鈍そうだ。おそらく、ブンタというのは使い捨ての偽名なのだろう。自分の偽名を忘れていたようだった。
「早く行け」
「わかったよう。人遣いが荒いな……」
細身の男に急かされ、どたどたと走っていく。ややあって、奥からどたどたと走って戻ってきた。真面目な顔で、手に握ったものを差し出す。
手に乗っているのは、乾電池が一個。
「……お前。俺が取って来いって言ったのはレンチだよ! レ・ン・チ! 電池一個でどうやって拷問する気なんだ!」
「ええと……穴に挿すとか」
「どこに挿す気なんだよ! もう一度取って来い」
「えー。俺は一度行ったじゃん。次はミフネのアニキが取ってくればいいじゃん」
ミフネと呼ばれた細身の男がブンタの尻を蹴り飛ばした。
「いいから取ってこいっつってんだよ! このレンコン頭!」
蹴られたブンタがしぶしぶといった体で倉庫の入り口に向かっていく。
ミコトは少し落ち着きを取り戻してきていた。
この連中、思ったよりバカかもしれない。
相手が一人になって圧迫感が減った事もあり、思考を働かせる余裕が出てきた。何か突破口になるものはないかと考え、とりあえず質問してみる事にした。口の中がからからに乾いて舌が張り付き、声がかすれる。
「あ……あの。なぜアレを探しているんですか?」
ミフネが横目でじろりとミコトを睨んだ。
「それを聞いてどうする? 俺たちゃ正統派の悪人なんだ。秘密を知った奴は生かしてはおかんぞ」
どたどたと戻ってきたブンタが、その言葉を聞いて目を丸くする。
「ええっ? 殺しちゃうの? それはやりすぎなんじゃ……」
「馬鹿野郎! 悪人たるもの、情けは無用なんだよ。俺は自分が悪人である事に対し妥協したりはしない。半端は嫌いだ」
自分で自分を悪人と言う奴は珍しい。それだけに性質が悪いとも言える。
「いいだろう。なぜアレを探すのかどうしても知りたいというなら教えてやる」
「やっぱりいいです!」
激しく頭を横に振るミコトにかまわず、男は勝手に語り始めた。
「お前が父親……今は亡き衿家教授から、碑文が刻まれた石版の欠片を受け取った事は国際郵便の配達記録から調べがついている。あの碑文――『アカシャの眼』のありかを示す、唯一の手がかりともいえる碑文――お前はそれを受け取ったはずだ。あれがどれほどの価値を持つ物か、お前はわかっているのか? アカシャの眼を手に入れるためなら金に糸目をつけない連中がいてだな、我々はなんとしてもあの碑文を手に入れたいのだ。お前が持っていても仕方あるまい。さあ、アレをどこに隠したか、言うんだ」
「……あの、それを聞いてしまった以上、言っても言わなくても殺されるんでしょうか……」
ミフネはブンタと顔を見合わせた。
「ほらっ、アニキがあんな事言うから!」
「馬鹿野郎! 俺は正直がモットーなんだ。どっちみち殺すつもりなのに殺すつもりはありませんとは言えん。小さい頃、お袋はよく言ったもんだ。『正直な人間になりなさい』ってな。俺はその通りに生きてきた」
「さすがアニキ……半端ねぇ覚悟だ」
お袋さん。どうせなら『悪い事はするな』と言っておいて欲しかった。――と、ミコトは切実に思った。
「しかし、だ。正直に言えば気が変るかもしれんぞ? 親父から碑文を受け取っているんだろう? その時、碑文の謎について何か聞いてないか? 余すところなく洗いざらい喋れば、もしかしたら命だけは助けてやってもいい気分になるかもしれない」
確かに、半年ほど前に国際郵便で父親から石版の欠片を受け取っていた。
父親が交通事故で亡くなる一月前の事だ。
添えられた手紙の切迫した様子から、ただ事ならぬ事件に巻き込まれた事は感じていた。
迷惑な父親だ。金にならないフィールドワークとやらにうつつをぬかし、一家離散の原因を作っただけでは飽き足らず、訳のわからない神話研究に没頭した挙句に息子を事件に巻き込むとは……
しかし、母親が再婚して戸籍上の苗字が変っても未だに衿家の姓を名乗っているのは、ミコトなりに父親に対して思う所があったからだ。
「親父が死んだのは……この事件に何か関係があるのでしょうか……」
「いいや、彼を追っていたのは確かだが、残念ながら死んだのは本当にただの交通事故だ。我々にしても、衿家教授に死なれたのは痛いのだ。彼さえ生きていれば、今から君を拷問する必要もないんだがな」
嘘をついている気配はない。自称正直者という言葉を信じるなら、おそらく本当なのだろう。
亡くなった事にかわりはないが悪人の手にかかって死ぬよりはマシなのではないかと思えた。
だが、そのおかげで自分が拷問を受ける羽目になったのは喜べない。
「親父は……しょっちゅう訳のわからない物を送ってくるので。どれも価値がよくわからない物ばかりで……既にゴミに出しました」
半分は本当だった。世界中を旅してまわっていた父親は、時々お土産と称して訳のわからないものを送りつけてくる。
だが、石版とともに送られてきた手紙を読んだミコトは、それらのお土産とは違う事を知っている。
手紙には、ヨーロッパに高飛びする事、自分の事は心配しなくていいとの事、そして、手紙と一緒に送付した碑文を、とある人物に渡すように――との事が書いてあった。ゴミに出したというのは嘘だ。実は手紙に書いてあった人物に碑文は渡してある。
「正直に言えよ……いいか? 俺の目をよく見るんだ」
ミフネが顔を近づけ、ミコトの目を覗き込んだ。ミコトは無意識のうちに、言われたようにした。
「お前……嘘をついているな?」
ミコトの心臓がどきんと跳ね上がる。
「瞬きの回数、発汗の量、喉仏、指先、眼球の動き……人の体は無意識のうちに、内心を雄弁に語っているんだよ。嘘をつくという事は相手をナメてるって事だ。嘘を見破る事のできない馬鹿と思っているのか? 嘘がバレても許してくれる甘ちゃんだと思っているのか? いずれにせよ、嘘をつくという事は相手に対してとても失礼な事だ。お前は俺に対して失礼な事をした。お前、俺の事を馬鹿だと思っているのか?」
「そ、そんなつもりでは……」
「嘘をついていた事は否定しないんだな。やはり嘘をついていたか?」
ミコトの背中に冷たいものが走った。うかつに口を開かないほうがいい。余計な情報を与えるとこちらが不利になる。
「やはりここはレンチの出番だな。おい、レンチを」
ミフネが視線をミコトに固定したまま、ブンタに向けて腕を伸ばす。その掌に、ブンタが手に持っていた布を載せた。男が布切れに目を落とす。
その手には、一枚のぱんつが握られていた。少女向けの小さいサイズで、横にシマの入った可愛らしいものだ。
「これは何だ?」
「知らないのか? ぱんつだ」
「そんな事は知っている。これをどうするつもりだ?」
「俺の手にかかれば、横シマのぱんつもあっと言う間に、縦シマのぱんつに……」
「お前は馬鹿か! 馬鹿なのは知っていたがこれほどのレベルとは……! なんでこんな物をお前が持っている。それはともかく、俺が言っているのはレンチだ! 普通、レンチとぱんつを間違えるか? よく聞け、レ・ン・チ! 工具のレンチだ。ボルトを締めたりするやつだ。この小僧に使うつもりだったが、今度馬鹿な真似したらお前に使うぞ」
「わかったよぅ。そんなに怒るなよ……レンチでしょ。取ってきますよ」
パイナップル頭の大男は再度、そそくさと倉庫を後にする。ミコトの指はどうやらまた少しだけ生きながらえたらしい。
ミコトはパイナップル頭に声援を送りたくなった。あなたの馬鹿は人を救う。
祈るような心持ちのミコトに向き直ったミフネが、温度の低い声で囁いた。
「最後のチャンスだ。ほら、言っちゃえよ。お前にとってそこまでして隠すほどの物か? お前が持っていてもどうせ役には立たねえよ。なに? 言いたくない? そうか、それならしょうがない。俺の考えたオリジナル拷問の数々を披露するしかないかな」
男はてきぱきと話を進める。ミコトはもう少し考える時間を下さいと言いたかったが、嬉々としてオリジナル拷問とやらを語る男の様子を見ると無駄だと思えて諦めた。
「まぶたの上と下に電極をつけて、まばたきする度に体に電流が走る拷問器具を作ったんだ。どう思う? 他にもある。まぶたの裏にねりわさびを塗り込むというものだ。これは効く。ブンタで試したが五秒ともたなかった。他にもレパートリーはたくさんあるぞ。俺は暇さえあればオリジナル拷問を考えるのが趣味でな……」
ミコトは曖昧な表情で相槌を打ちながら思った。
もっと健全な趣味を見つけてくれ。ビール瓶のふたを集めるとかその辺りの。
オリジナル拷問のレパートリーを聞かされているうちに、ブンタがどたどたと足音をたてながら戻ってきた。
その手にはしっかりとレンチが握られている。様子を確認するべく振り向いた男の目に、安心したような笑みが浮かんだ。
「これだろ。今度はちゃんと持ってきたぞ」
「よし。まったく、手間かけさせるんじゃねえよ……。さあ、いよいよ本番だ」
スポットライトの光を反射して、レンチが不気味に光る。どうという事もない普通の工具もこのシチュエーションでは恐ろしい凶器だ。……ミコトは思わず生唾を飲み込む。
身動きのとれないミコトを、二人の男が見下ろしてにやりと笑った。
レンチを手にした男が、ミコトが縛られている椅子に悠然と近づき、横から覗きこむようにして腰をかがめる。
「きれいな指をしているじゃないか」
椅子の肘を強く握り締めて白くなっている指先を、力強い手に掴まれた。
――――……ッ!
ミコトは叫びだしそうな衝動に駆られた。さぁっと血の気が引き、内臓が持ち上がるような感覚に囚われる。全身の毛穴が開いてドッと汗がふきだす。
指! 指をどうする気!
レンチが近づく。レンチが開く。レンチが親指を今まさに――
――パパラパッパッパッパー!……
緊迫した場にそぐわない、軽やかな電子音が深夜の倉庫に鳴り響いた。
レンチがミコトの指の数ミリ手前で止まる。男達の視線がミコトの腰辺りに集まった。学生服のポケットが微かに振動している。音はそこからもれていた。
「おいおい、拷問中はケータイをマナーモードにしとけよ……常識だろ」
男が手を伸ばし、身動きのとれないミコトの腰ポケットから携帯電話を取り出す。電子音を鳴り響かせるそれを開き、着信画面を見た。
「なになに……? リンカさん……? 女か?」
ミコトはぶんぶんと首をふる。男はかまわずに通話ボタンを押した。押すやいなや、通話口からけたたましい怒鳴り声が聞こえてきた。
「ちょっと! ミコト! あたしの呼び出しを無視するなんていい度胸してるね!」
男が顔をしかめて携帯電話から耳を遠ざける。そんな相手側の都合にはおかまいなしに怒鳴り声は続いた。
「聞いてる? 返事くらいしろ! もしもぉーし!」
音割れするほどの声量で続く罵倒の数々に辟易した顔を見せながら、男がしぶしぶ口を開いた。
「あー……ミコト君は都合により電話に出られません。失礼ですが、あなた、ミコト君とはどういったご関係で?」
ミコトは祈るような心持ちでやりとりを見守る。お願い、余計な事は喋らないで……
「あン? ご関係だなんていやらしい聞き方するわね。あたしが若い高校生を囲ってるとでも思ってんの? 何も知らない初心な男の子を自分好みに染めて好きなようにしたいと思ってるとでも言いたいのか? 余計なお世話なんだよ! いくらあたしでもね、心の中ではそう思ってても見境無く実行するほどガッついてるわけじゃねェーんだよ! 段階ってもんがあるんだよ!……ところで誰よ、あんた」
相手の確認は、散々まくしたてる前にするべきだとミコトは思った。
「ミコト君は都合により電話に出られません。時間を置いてお掛けなおし下さい」
ミフネが携帯から耳を離し通話を切ろうとした時、通話口から抑えた声が聞こえた。
「ミコトはまだ生きてんの?」
男がブンタと顔を見合わせた。電話の相手がこの状況と無関係ではない事を悟ったのだろう。
ミコトは気が気ではない。心臓はバクバクと音を鳴らし体を揺らす。
「あんたが誰かは知んないけど。もしかしたらこの碑文が目的なのかな~?」
電話口にコツコツと何か固い物をぶつける音がした。
「ミコトのかわいいお顔に一ミリでも傷をつけたらこの石をハンマーで粉々にしてやるかんね」
「……心配するな。ミコト君はまだ無傷だ。これから指が大変な事になるがね」
やっぱり大変な事になるんだ! ミコトは無意識に指をひっこめる。
「取引してやろうっつってんのよ。あんたらはこの石さえ手に入りゃいいんでしょ。今からそっちに行くから。それまでミコトにはあんまりひどい事しちゃだめよ」
あんまりじゃなくて一切ひどい事をしないで欲しい。そう思いつつハラハラと成り行きを見守る。男はしばらく何事かを考えている様子だった。
「いいだろう。石はミコト君の家のポストに入れておけ。確認次第、彼は解放しよう」
「はァ? 人をナメるのもたいがいにしときなさいよ。そんなもん信用するわけないでしょうが。――直・接・取・引! これ以外の選択肢は無し! 言っとくけど、あたしにとっては石もミコトもどっちでもいいのよ。どうせなら穏便に済ませたいってだけなの。それがイヤだってんならこんな石なんて今すぐロードローラーの下敷きにして道路と一体化させてやるからね!」
「……お前が警察に連絡しないという保障は?」
「そんなもん知るか! とにかく今からそっち行くからおとなしく待ってなさい!」
通話は一方的にブチッと切れた。
ミフネはかすかに眉をしかめて携帯を睨む。
「場所はわかっているのか?」
「なあ、アニキ。もしかしたら、最初から小僧の携帯を調べておけば事情を知ってそうな人間を割り出せたんじゃ?」
「馬鹿野郎! そんな事をしたら拷問をする必要がなくなってしまうじゃないか!」
「そっか。さすがアニキ、ちゃんと考えてるんだな……」
どうしても拷問がしたいらしい。迷惑な話だ。善良な勤労少年が巻き込まれるには理不尽すぎる話だ。
しかしどうやらミコトの指はしばらく無事に済みそうだった。男は名残惜しそうにレンチを掌で弄びながらミコトの手を見下ろしている。碑文の持ち主がわかった上にわざわざ持ってきてくれるというのだ。ここでミコトを拷問する意味はもう無い。
だがそれで諦めるほど男の情熱は安いものではなかったらしい。ミコトにとっては迷惑極まりないが。
「しょうがない……拷問は一時お預けだ。先の楽しみにとっておこう」
たまったものではないとばかりにミコトは思わず口を開く。
「えっ、取引は! 碑文と僕を交換なのでは……」
男は歪に唇を歪め、ミコトの耳に顔を寄せてささやいた。
「もちろん取引はするさ。だがおとなしく碑文とお前を交換してハイ終わり、ではつまんねぇだろ。お前の姿を見た女が思わず無条件で石を差し出したくなるような状態にしておいてやるよぉ」
冷たく押し殺したささやきがミコトの精神をそっと撫でるかのように削っていく。助かるかもしれないという期待を抱いた直後なだけに、緩んだ心の堤防はあっけなく決壊してしまいそうだった。もしかするとこれも手口の一つなのかもしれない。
「石はいただく。だがお前も女も無事に帰すわけにはいかねえ。ノコノコ現れやがったが最後、二人まとめてサヨナラだ。ブンタ、いいか、女が来たらお前は隠れていろ。こいつの状態を見て女が焦っている隙に、背後から襲いかかるんだ。その時点ではまだ殺すなよ」
「おうよ」
ブンタもパイナップル頭を揺らして悪人面で頷く。そのまま背を向け、倉庫の入り口に向かった。積荷が複雑に積み上げられ、隠れる場所には事欠かない。入り口を見通せて、すぐに動ける場所を念入りに確認する。
「さて、君にはこれをあげよう」
男は屈み込むと、足元に置いてあった革のカバンから不似合いなものを取り出した。
なにかの動物を模したヌイグルミだろうか。何の動物なのかはよくわからない。青い体で左右の目はあらぬ方向を向き、口からだらしなく舌をたらしている。かわいいとは思えなかったが、こういうのをキモカワイイと思う人もいるのだろうか。
何をするつもりなのかと見ていると、ジッポライターを開いてオイルを数滴ふりかけた。
そしてそれをミコトの頭に乗せ、ヌイグルミについている紐を顎にかけて固定する。
変なヌイグルミを頭に乗せて縛られている少年のできあがりだ。
「あの……これは?」
「女が来る。俺はヌイグルミに火をつける。早くしないとお前の頭は火ダルマだ。それを見た女は焦って碑文を出す。そこへブンタが襲い掛かる。碑文を頂いて後はお楽しみの拷問タイムだ」
時間制限を強制的に設ける事で、取引を一方的に進めようという事なのだろう。
この状況をリンカさんに伝えねば――。だが、携帯電話は取り上げられているため、連絡する手段がない。
映画なら、こういう時はどうするだろう?
男を騙して携帯を奪い取る?
――どうやって? 何も思いつかない。
あらかじめ目印をしかけておいてピンチを伝える?
――何もしかけていない。そんな余裕は無かった。
たまたま迷い込んだ小鳥にメッセージを託す?
――残念ながら今は真夜中で、鳥など迷い込む気配すらない。
そもそも、この状況で何かを仕掛ける度胸もない。
つまるところ、衿家ミコトは生活に苦労する唯の勤労少年であり、格闘技の達人でもなければ一人でテロリストに立ち向かうタフガイでもないのだった。
泣きたくても緊張で目は乾き、震える体も縄でがっちりと椅子に固定されている。スチール製の椅子の足はご丁寧にも床に溶接され、倒す事もできそうにない。
こういう時は、僕の事はいいから逃げてくれと願うべきなのだろうか?
だが、正直に言ってそんな余裕はなかった。誰でもいいからとにかく助けてほしいと祈るばかり。
どれほどの時間が経っただろうか。
極限の緊張の中では果てしなく長い時間のようにも思えたが、実際にはそれほど経っていないかもしれない。
ぎゅっと目をつぶって震えるミコトの耳に、遠くから近づいてくる車の音が聞こえてきた。天井近くの窓をライトの光がよぎる。どうやらまっすぐこちらに向かっているようだ。
男達の間に、にわかに緊張が走る。
ミフネはブンタに目で合図し、無言で頷きあった。
ブンタが音を忍ばせて入り口付近の箱の陰に身を隠す。ミコトの背後に立ったミフネが音高くジッポライターのリッドを開ける音が倉庫内に響いた。続いて、フリントとホイールが擦れる音。ミコトの首筋が総毛立つ。
恐る恐る振り向くと、男が今まさにライターの火を頭上のヌイグルミに点火するところだった。焦げ臭い匂いが漂い始める。
「ちょっ、ちょっと! 早すぎませんか!」
「焦るな。頭に燃え移るにはまだ時間がある。あまり動くと燃え広がるのが早まるぞ」
焦るなと言われても焦るものは焦る。胃がキュッと締め付けられ、貧乏ゆすりのように膝が震える。もはや思考は意味を為さず、ただ目を見開いて倉庫の入り口を凝視するのみ。
だんだん大きくなる車の音に耳を傾けていたミコトだが、すぐに違和感に気づいた。
キャリキャリキャリ……
違和感がはっきりしてきた。一般的な乗用車にしては重量感のある音……
ギャリギャリギャリギャリギャリギャリ……!
そもそもタイヤの音ではない。ゴムタイヤが路面を踏みしめる音とは明らかに違う、無限軌道のそれ――倉庫入り口が四角く区切る空間に、ぬっと姿を現した巨大な物体は、狭い入り口を押し広げるように金属のトタン壁をメリメリと押し広げて直進してきた。
天井のスポットライトに照らされたその車両は――
黄色にペイントされた無骨な車体、そして前面に突き出すドーザーブレード。
積み上げられた荷を物ともせずに蹴散らしてわき目もふらず直進するその巨体は、工事現場で見かける建設重機、ブルドーザーというやつではなかろうか。
キャタピラ音が倉庫に響き、蹴散らされた荷が轟音と振動と土煙を巻き上げる。
ブンタは積荷の陰で縮こまってぽかんと口を開け、あっけにとられて見上げている。
ミフネがミコトの前に進み出た。懐から取り出した拳銃を掲げ、狙いもろくに定めずに乱射する。目眩がするほどの轟音が倉庫内に反響し銃火がストロボのように乱れ咲く。だがその全てが眼前に迫るドーザーブレードに弾かれ、けたたましい音を立てて乱反射した。
キャタピラと銃の音が耳をつんざき硝煙で視界はけぶり火薬の匂いが充満する中、何が何だかわからなくなったミコトの目前でブルドーザーはぴたりと動きを止めた。
騒音の残響が残る中、頭上から女性の声が降り注ぐ。
「あら、そんなにぎっちり縛られちゃって、癖になったらどうすんの」
目がまわりそうな状態のままかろうじて見上げると、運転席からヘルメットをかぶった人物が身を乗り出していた。黄色いヘルメットには交通安全の文字。白いシャツの胸元を大きく開け、髪をたくし上げてヘルメットに隠した女性がにやにやしながら見下ろしている。
「な……な……リンカさん……!」
「てめえ! どういうつもりだ!」
ミコトにかわってミフネが怒鳴ると、リンカと呼ばれた女性はヘルメットを取った。まばゆい金髪がふわりと肩を流れる。
「いい趣味してるわねぇ。ミコト、頭の上で何か燃えてるわよ」
言われて気づいた。ミコトの頭上ではヌイグルミがまだ燃えたままだった。
「そうだ、こいつがどうなってもいいのか!」
男の怒鳴り声がむなしく響く。
リンカはかまわず運転席に腰をおちつけ、再び重機を駆動させた。踏み潰されそうになった男が慌てて飛び退く。
「ハイハイごめんなさいよ」
目の前にミコトがいるのにもかまわずブルドーザーは力任せに直進。溶接された椅子をドーザーブレードでメリメリと引き剥がし、土砂でも運ぶかのようにミコトをひっかけたまま壁へと突進していく。
「待って待って、僕がひっかかってる!」
ぐるぐると目まぐるしく揺れ動く視界の中で、ブレードとトタン壁の隙間に挟まれてミコトは必死に叫んだ。が、ブルドーザーはおかまいなしに直進。
鉄製の椅子がちょうどつっかえ棒のようになって、サンドイッチになるのを守ってくれたのは幸運なのか計算なのか。
壁をつきやぶって倉庫の外に出ると夜空が見えた。背後から男の怒鳴り声が聞こえた気がしたが、キャタピラ音とトタン壁が崩れ落ちる音にかき消されてよくわからなかった。椅子に縛られてブレードにひっかかったまま、ミコトは自分がどうやら助けられた事を知った。ぬいぐるみの火もブレードでこすれたのか、いつの間にか消えているようだ。
ブルドーザーは予想外の速度で進み、激しく揺れる視界と不安定な体勢に不安を覚え始めた頃、ようやく速度を緩めて停車。
空を仰いで目を白黒させるミコトの耳に、リンカの声が聞こえてきた。
「おーい、大丈夫ぅ?」
「大丈夫だと思ったからやったんでしょ?」
「いやぁ、試したことないからなぁ」
助かったのは偶然説が浮上してきた。
「あいつらが取引を無視しようとしている事に気付いていたんですか?」
「知らないわよそんなの。あいつらが取引を守る気だろうがどうだろうが、どっちにしろあたしは最初から取引なんてする気ないし! 欲しい物は全部いただくのが信条だし!」
からからと罪のない顔で笑うリンカの姿に、悪党達以上に恐ろしいものを見た気がした。
「あいつらが追いかけてくるだろうからこれは乗り捨てるよ。そんなとこにひっかかってないで、早く降りてきなよ」
「……身動き取れないんで出来れば降ろしてほしいんですが」
「まったく世話のやける……あ、あと言っておくけど、この重機は勝手に拝借してきたから、バレたら弁償を請求されるかもよ。あんたに請求書まわすから」
「勝手に拝借? 弁償って……大丈夫ですよね?」
「さあ。壊れてはいないと思うけどね。ちなみに、新品で買ったら一億くらいするから。あと、ここに来るまでに周りの車とか色々壊しちゃったけど……それも弁償を請求されたらあんたが払っといてよ」
助かった事を安堵する暇もないまま、ミコトは思った。
そんな事――知りたくなかった!
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