―― 半年前 四月二十六日 ――

 前兆は、魚群探知機にうつる影だった。

 他の船との位置関係や海底の形状を測定する装置を、ソナーと呼ぶ。音波を水中へ発し、その音波が反射して帰ってくるまでの時間で、対象との距離を計測するのだ。音波を電波に、水中を空中におきかえると、いわゆるレーダーになる。

 目が見えない人間が、前方の壁に気づいて立ち止まることがある。足音の反響を察知して障害物の存在に気がつく。それとソナーは同じ仕組みだ。より身近なものでたとえるなら、遠くの山へ叫んだ声が返ってくるやまびこで景色の雄大さを実感することと、原理は変わらない。

 魚群探知機もソナーの一種で、その名のとおり海中の魚群を探る。船の真下へ音波を発して反射を記録するだけの、ソナーで最も単純な機構の部類だ。船の進む方向や速度と、いつ真下に魚群がいたかの記録を組み合わせることで、ようやく魚群の位置や速度が推定できる。つまり魚群探知機は直下にいる魚の群れをおおざっぱに探す能力しかなく、使用する側も高い精度は期待していない。

 しかも、音波は海流や水温や塩分濃度の異なる層をとおる時、レンズをとおる光のように屈折する。屈折の影響を受けにくいレーダーの電波に比べ、ソナーの音波はゆがみやすい。どれだけ機器の精度があがってコンピューターによる補正技術が進歩しても、原理的な壁は残っている。

 だから、魚群探知機から精密なソナーへきりかえてもモニター上の魚影が不定形なままだったことに対し、当初は誰も不審に思わなかったらしい。魚群らしき形状は小さく、どのような種類の魚か、あるいは魚類でなく哺乳類のクジラ類なのか、モニター上の光点からだけでは判断できなかったようだ。


 外骨格が、二人羽織のように背中から足先までおおいかぶさって筋力をアシストする。おかげで俺は、耳から聞こえる情報に注意を向けながらも、クレーンの再塗装を順調に終わらせることができた。

 俺は、水産高校を卒業して以来の二年間、ずっとパワードウェーダーを使った甲板作業に従事していた。センサーを通して機械的にアシストするまでのわずかなタイムラグも、意識せず反射神経で対応できるようになっている。

 ウェーダーとは胴付長靴の英語名で、胴長靴とも呼ぶ。ゴム長靴を延長して下半身から胴までをおおった簡易な防水具で、見た目はゴム製のオーバーオールといったところ。かつての安価なだけで動きづらかった胴長靴は、内部に水が入りこんだ場合に排出することすらできなかった。水槽で転んだだけでも水を内側にためこんで重くなる。もし船から落ちたならトップクラスの水泳選手でも溺死してしまう。そのためにもパワードウェーダーが開発された。

 パワードウェーダーは、胴長靴と動力外骨格の技術を組み合わせて完成された。水産業は肉体への負担がはげしく、特に下半身から腰にかけての障碍を生みやすい。そこでパワードウェーダーを導入して安全性を増し、作業を省力化することにも成功した。素人でも最新型のパワードウェーダーを着れば、ゆれる甲板で背筋を伸ばした作業ができる。

 動力外骨格は、パワードウェーダーが開発される以前から医療介護分野において普及しており、成果と安全性が確認されていた。充分な防水能力をもった安価な機種も、わざわざ新しく開発するまでもなかった。

 何層も樹脂や布を重ねた強靭な防水スーツ部は、通常の胴長靴より分厚く重い。錆びることのないセラミック製の外骨格は腰にコルセットで固定し、膝の屈伸を助けながら靴底まで支える。背嚢には薄いバッテリーが収納され、通信機器やサバイバルキットをアタッチメントでとりつけることもできる。遠洋漁業の従事者には、首元から胸を覆う小さなライフジャケットも必須だ。

 俺が着ていたパワードウェーダーの名前はクエビルコといった。日本の会社が開発し、古い神話に出てくる案山子の神様から名前をとったらしい。強度は同価格の商品では平均的だが、センサーの反応が良くて細かい作業に向いている。

 ふいに通信機に甲高い声がわりこんできた。

「金田、そっちは終わったか? こっちは水槽を磨き終えて、あとは海水をはるだけだ」

 船内で作業している中浜準の声だった。

 中浜は俺と同期で水産高校を卒業したが、在学中はたがいに意識することはなかった。俺は帰宅部だったし、中浜は休み時間に一人で本を読んでいた姿ばかりが記憶に残っている。

 同じハウランド丸へ乗りこんだことも偶然だ。しかし学校イベントの共通する思い出のおかげか、雑談してみると会話がとぎれず、いつしか本やパソコンソフトの貸し借りをよくするようになった。

 中浜もパワードウェーダー作業を主に担当しているが、今日は船内にふたつある水槽の、魚が入っていない方の掃除を担当している。甲板作業に比べれば安全で頭を使わないが、こびりついた藻をすみずみまでブラシでこすり落とす、単調な作業を長く続けなければならない。俺と違って中浜は単純作業を黙々と続けることになれていて、好きな音楽を流しながら手堅く仕事を終えることを常としていた。

「もうクレーンの動作確認をして終わりだ」

「悪いな、いつも後甲板を押しつけて」

「別にいいさ」

 俺は昔から、機械を見たり動かしたり分解したりすることが好きだった。

 もしも俺に技術や才能があるか、あるいは両親の理解があれば、有名な工業高校に進んだかもしれない。結局は父と同じ漁師の道に進みつつも、そこそこ先端的な機械にもふれられる職場を選び、妥協している。

「それよりも、すぐ漁が始まるかもしれない。与那覇さんが魚群をひろっている。早く水を入れておけよ」

 漁が始められるならば、遅れることなく準備して所定の位置へついていなければならない。海の男は昔から、感情を拳にのせて肉体ごしに伝える連中と相場がきまっている。

 例外的に俺が乗っていたハウランド丸は、船長の珍しい方針で、言語のように暴力を用いるような船員は乗船していなかった。しかし、いくつかの船を渡り歩いて仕事していた俺には、船室の状況を聞きもらさない癖がしみついていた。


 ソナー担当者は、魚群の動く速度や深度、浮上して空気呼吸する行動の有無等から、総合的に推測する。種類によっては漁が禁止されているし、水揚げできる量も細かく決められている。

 今の南氷洋では、様々な国と地域から来た遠洋漁業船が入り乱れている。不定期に監視するための艦船や飛行機も巡回しているし、違反が明らかになった場合の罰則もきわめて厳しい。漁船同士でも、同じ国ならばたがいに目こぼしすることもあるが、縄張り意識から熱心に監視され告発されることが多い。

 それでいて推測に長い時間をかけすぎると、魚群は漁網が届かない深度へもぐってしまったり、温度が異なる層へ移行してソナーに反応しなくなったり、漁業が禁じられている海域へ取り逃がしかねない。逃がしこそしなくても小さな魚群に分散されれば、操業にかける時間と労力に漁獲量がみあわなくなることがある。広い海で漁獲する価値のある魚群へ出会えるのは、一期一会なのだ。

 かといって漁獲してはならない種類であっても、必ずしも探知を中止して別の海域に行くわけではない。その種類の魚が餌とする魚が漁獲対象の場合は、魚群を追いかけることで効率的に操業することができる。時期によって漁獲が制限されている種類や、絶滅が危惧されている種類ならば、情報を集めることが義務づけられている場合もある。

 ソナーのモニターに映る不定形な影は、船と全く同じ進行方向を、信じられない速力で進んでいた。甲板でクレーンの清掃作業をしていた俺は実際にモニターを見ていたわけではないが、通信機器を通して船室に集められた情報のやりとりを聞いていた。

「おい、何だよそれは。だったら途中で掃除をきりあげたのにな。今から水を入れたんじゃ、漁までに間にあわんぞ」

 中浜が愚痴ったのは自然な反応だ。

 さすがに水揚げした魚全てを水槽に入れるわけではない。大半は水気をきりながら急速冷凍室に放りこむ。そのさいに不要な頭部を切り落とす等の加工も行う。あくまで高級な魚に限り、冷凍で肉質が悪化しないよう水槽へ入れる場合があるだけだ。

 しかし高級魚であるだけに、労力に比して対価が大きく、漁獲できれば帰港も早くなるしボーナスも出る。そのチャンスをドブに捨てたい船員はいない。

「ちゃんと船長達の話を聞いていないからさ」

 中浜のため息をさえぎるように、俺は通信機のチャンネルを切りかえた。

 急に耳元に怒鳴り声が響いた。思わず反射的に首をすくめる。だが、もちろんその声は俺たちを叱責する内容ではない。

「何ノットだ、もう一度いってみろ!」

 佐久間船長が怒声を発している。その相手は船長と長く仕事をしている、ソナー担当の与那覇さんだ。

 ハウランド丸の船長は漁の全てを統括する漁労長もかねている。魚群の探知結果がきちんとしていなければ指示を出すくらいは当然だ。しかし普段の温厚さと落ち着いた物腰から考えて、たかだか連絡ミスくらいで怒鳴り声をあげるとは考えにくかった。

 佐久間船長は、長い海上生活でも常に清潔な衣服を着用し、酒も煙草も嗜まない。趣味といえば休憩室で与那覇さんと囲碁をうつくらいの、欲のない人だ。

 与那覇さんにしても、普通の会社員なら定年間近な年齢ではあるが、長く仕事を続けているベテランだけあって、魚群探知機やソナーのあいまいな表示から海面下の状況を正確に読み取る能力にたけている。発声の技術もあって、古い雑音混じりの通信機越しでも、何を伝えようとしているかわかりやすい。

 俺はクレーンへのばした手を止めて、船長と与那覇さんの会話に耳をすませた。船長が怒っているのは与那覇さんに対してではない。いや、そもそも誰かを怒っているのとは少し異なる。まるで、未知の何かに出会ったことへの驚きと、それを感情的に受け入れられないでいる船長自身への怒りが、混沌と渦を巻いているようだ。


 俺は通信機のチャンネルを再びソナー室へきりかえた。与那覇さんの報告が聞こえる。

「百五十ノット……訂正、百八十ノットは出ている」

 船舶の速さを示す単位である一ノットを時速へおきかえると、だいたい千八百メートル。百八十ノットを時速へ直すと……

「時速三百二十四キロメートルだと?!」

 耳元で中浜の声が響いた。同じように計算していたらしい。

 中浜が興奮している分だけ、俺は少し冷静になれた。

「ああ、新幹線くらいのスピードだな」

 各地が水没した今も安定した移動手段として内陸部で使用されている列車を思い出した。

「それにしたって、抵抗の激しい水中だぞ。たしか最も速い魚はクロマグロだっけか、それでも……」

「なんとか三十ノットを超えるくらいだったかな。時速にして五十キロメートルほど。しかも敵から逃げる時、あるいは獲物を襲う時、瞬間に出せるだけ。この獲物は三倍以上!」

 中浜の声が少しばかり興奮で踊る。

「新種の生物なのか? 俺たちの名前が生物学の歴史に残るのか?」

 たかだか船に乗っていただけで群を発見したわけでもない俺たちの存在がニュースにのるはずもないが、捕まえることができれば別かもしれない。

「いや、そもそも生物という可能性はないだろう。どこぞの企業が新しい潜水艦で実験をしているのかもしれない」

 たしか魚雷では、すでに二百ノットを超えるものも実用化されているはずだ。新種の魚と考えるより、人工的な何かと考えるのが自然だろう。

「なるほど、しかし他に……」

 中浜の声は途中でぷっつりと切れた。

 俺はクレーンの基部にしがみついた。水平線がとりまく風景が急速に左方流れ、船が振動を増す。いっぱいの面舵で舳先が右へ向いていく。その先は一面の濃霧がたちこめ、雷雲が空をおおう、南極だ。

 このまま濃霧を進んで抜ければ、地肌を大きく露出させた南極大陸にたどりつく。実際はそれより前に、今なお地熱で崩れて海をただよう氷床と海面で激突し、いにしえの豪華客船みたいに沈没してしまうだろうが。

 復活した回線から中浜の声が流れる。どうやら甲板へ向かってかけあがっているらしく、階段を外骨格の踏む金属音が連続して鳴る。

「おい、何やってるんだ操舵室は!」

「わからん、南へ向かっている!」

 遠洋漁業を行うだけあって、この船は長さが五十メートル以上ある。水の抵抗が少なくなるよう消波するための船首構造や、仕事を難しくする揺れを抑えるための稼動板も海中に持っている。そんな最新の大型漁船が今、舳先が天に向きそうなほど尻を落とし、最高速度を出していた。

 船長の声がした。通信機の全チャンネルと、船内外にあるスピーカーを通して指示を出している。

「時速三百二十四キロメートルの獲物を追っている。相手は急速に海面へ向かって上昇している。手がすいている甲板員はすぐ甲板に出て、監視を始めろ」

 どうやら俺たちの雑談は船長に聞かれてしまっていたらしい。だが叱責の言葉はひとつもなく、甲板員に対して手短に指示した。その後は、与那覇さんや操舵手と、やつぎばやに細かいやりとりを行っている。

 俺はクレーン基部につかまったまま、パワードウェーダーの背嚢に入れておいた双眼鏡を取り出し、右舷へ向けた。背後で扉が開け放たれる音がして、ふりかえるとパワードウェーダーを着こんだ中浜が飛び出てきた。その背後で両開きの扉が閉まっていく。

「甲板長はどうした!」

 中浜の問いに、俺も叫び声でこたえる。

「とっくに前甲板で監視を行っているよ!」

 短い距離だが、波をかきわける音とエンジンの響きがうるさくて、声をはりあげないと相手にとどかない。露出した顔に冷たいしぶきがかかる。中浜が丸眼鏡をかけているように、俺もゴーグルくらいはしておくべきだったか……


 船内の回線を圧迫しないよう通信機のマイクは切り、聞くだけにする。問題の獲物は、直角に曲がることを蛇行するようにくりかえしつつ、全体として南西へ向かっているらしい。

 この船は海中の稼動板を水中翼のようにして浮力を増し、水との接触を少なくして五十ノットに近い速度を出す性能を持つ。今は水槽のひとつが空になっているおかげで、波の高い外洋でも充分に性能を引き出せるはずだ。

 しかし仮に相手が蛇行していなければ、五十ノット程度の速度ではもっと早くふりきられてしまっていただろう。

「そっちは見えたか?」

「いや、何もない」

 どちらにしても獲物より少し遅いことにかわりはなく、じりじりと離されてしまっているはずだ。俺と中浜はそれぞれ右舷と左舷に手分けしつつ、双眼鏡をやや進行方向へ向ける。獲物にふりきられる前に見つけなければならない。暗い水面に白い波頭が浮かび、その網目模様が、あたかも巨大な鱗のようだった。

 左方向、つまり南方からせまってくる雲が、ゆっくり頭上をおおっていく。船首方向の濃霧は水平線の向こう側にたちこめているくらいで遠いが、この航行速度では五分ももたずに到達するだろう。獲物を探知機の性能でとらえられる限界時間も、おそらく同じくらいのタイミングでおとずれる。追える時間は残り少ない。

「見つけた!……いや、見間違いか、あれは……」

 そうした中浜の声が背後から聞こえた直後、通信機から船長の声がした。

「獲物が反転した。すぐ近く、四時方向に上昇している」

 船首の進行方向を十二時と考え、時計の数字を方向に当てはめる呼称。つまり四時とは、俺のいる後甲板の右舷が最も見つけやすい方向ということ。

 双眼鏡から眼をはなし、海面に視線をやる。高速で流れていく海面を背景に、吹き散らされる粉雪のように白い水しぶきが宙を舞う。船が波頭へぶつかる度に、軽く上下にゆさぶられる。だが、その上下動は徐々におだやかになり、かわりに船体が傾いていく。獲物が反転したので、速度を抑えつつ回頭しているのだ。

 俺は特に視力が悪いわけではないが、遠くがはっきり見えなくなってきた。気づけば、空を雲がおおって、周囲が薄暗くなっている。俺は目を細め、奴を探した。

 視野の中央、黒々とした海面に細い泡の筋が浮かび上がる。海中を高速で逆走する何者かの航跡だ。

「速い……」

 ハウランド丸が面舵で航跡の上をまたぐように突き進む。双眼鏡をのぞくと、航跡は俺たちから逃れるように、後方へ向かって進んでいる。泡が海面に浮かぶまでの時間差を思えば、実際にはずっと先にいるのだろう。

 航跡を見る限り、百ノットを超える速度とは思えない。目測だが、七十ノット前後くらいには落ちている。

「奴が海面に出るぞ!」

 通信機から声が飛ぶ。俺は双眼鏡の焦点距離を微調整し、航跡より少し先に向ける。

 双眼鏡に切り取られた狭い視界で、航跡の延長線上にある海面が白く爆発した。爆発は小さく、音もない。奴が海面に到達したのだろう。

 しかし、俺は自分の目を疑った。横に来ていた中浜も呆然とした声をあげた。

「……どこにいるんだ?」

 新種のカジキか、イルカか、秘密兵器か。それとも全く未知の生物か。いずれにしても何らかの実体があるはずなのに、奴は姿をあらわさなかった。

 ソナー室でも影を見失ったらしい様子が通信機ごしに聞こえた。しかし、何かがあるから音波が反射したはずだ。魚雷が爆発したにしては、海面の爆発が小さすぎる。一定の高速で移動していたのだから、小さな魚の群れが海面に出た瞬間にちりぢりになったとも考えにくい。

「……まさか、ユーエスオーなのか」

 中浜が聞きなれない言葉を発した。

「なんだそれは」

「USO。未確認潜水物体。UFOの海中版さ」

 まじめくさった口調で説明し、中浜は手すりから離れて背筋をのばした。パワードウェーダー特有の駆動音が小さく響く。

 気づけば、船は巡航速度に戻っていた。そのまま航跡が爆発した場所へゆっくりと向かっている。

「ジグザグに高速移動する。その動きはレーダーやソナーに記録として残ることもある。UFOと同じさ」

 口調こそ変わらないが、どこまで本気なのかわからない。まじめに追いかけていたのが急に馬鹿らしく思えてきた。

「未確認ということは正体不明というわけだろう。結局それでは何もいっていないのと同じだ」

「わからないことをわからないと分類することは大切だよ。もちろんUFOと同じように、USOの大半は誤認とわかっている。ただのクジラを見間違ったり、機器の誤動作を真に受けただけだったり……」

 レーダーやソナーには、反射の具合によってゴーストと呼ばれる虚像がモニターに映ることがある。もちろん改良を重ねた現在は防ぐ対策が行われているが、原理的に映る可能性は今もある。

 中浜は前方の海面を見つめて、補足する。

「もちろん、あれがクジラでないことは当然として。これだけ長くゴーストが探知されるとも考えられない」

「……ならば、未知の自然現象か何かか」

 深海には温度差や潮流によっていくつもの層がある。深い角度ならば光や音は屈折するが、角度を浅くしていくとある時点から反射するようになる。その特殊な例という可能性は考えられないだろうか。

「それは面白い考えだが、たぶんないな。相手ははっきり意思を持っているような動きをしているんだから。そうだろ?」

 無言でうなずくしかなかった。俺が見た航跡は、確かに意思を持っているかのように、規則性と不規則性が複雑にいり混じる線を描いていた。

「中浜、そういえばさっき何かいってなかったか」

「USOのことか?」

「いや、それより前、奴が反転する直前」

「それか。ただ単に島影が……」

 いいかけて、中浜はふりかえった。

 このような広い漁場に、島などあるはずがない。何かを見間違ったというなら、その何かの正体は氷山か、それとも……

 だが、俺はふりかえらなかった。きっと中浜が見ていたのと同じ島影が、視線の先に存在していたからだ。中浜が見ていた時とは船が反対を向いているので、そもそも俺はふりかえる必要がなかった。

 二キロメートルほど先に、ハウランド丸と併走するように、一頭のクジラらしき背中が海面を切り裂いている。問題のUSOほどは速くない。

 しかし、大きい。断続的に波間から突き出す頭頂部の形から見て、おそらくハクジラの仲間だ。餌のダイオウイカに抵抗された時の傷が、額にいくつもある。しかしハクジラは最大のマッコウクジラですら、二十メートルくらいまでしか成長しない。目の前に見えるクジラを双眼鏡の目盛りで計測すると、海面に出ている部分だけでも三十メートル近くある。全身では、現存する世界最大の動物であるシロナガスクジラを超えるかもしれない。

 波とエンジンの音に混じり、前甲板からも他の甲板員が驚いている声が聞こえる。

 もちろん、過去の記録は人間が知った範囲の大きさにすぎない。深く広い海には、人類の知らない生物種もまだ数多くいるだろう。問題なのは、そのクジラの海中に隠れた後半身が、ネオンサインのような輝きに彩られていたことだ……

 横で中浜が何事かをつぶやいた。だが、眼前の光景に魂を奪われていた俺には、あいつが何をつぶやいたのか理解できなかった。

 巨大クジラの後半身は緑と紫の光点で埋めつくされ、複雑に明滅して色合いを変えていく。頭頂部から呼気が白く凝結して間欠泉のように噴出し、怒りにふるえた牛のように悪魔的な音色を響かせた……

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