二章
―― 十二月五日 ――
アパートのひびわれた階段に足音が鳴る。
一階の踊り場までおりた時、最下段に腰かけていた男が首をそらして俺たちを見上げた。
「遅かったな」
男はメルヴィルと同じく、制服に似た作業着を着ている。下半身はスラックスだ。上着はボタンを止めず、すそが風にゆれるにまかせている。
立ち上がった男は、腰を叩きながら俺たちへ向き直った。波うつ黒髪を肩までのばした、かなり背の高い男だ。その細身はしなやかで、痩せすぎた不健康さはなく、筋肉をつけすぎてもいない。やや目は落ち窪んでいるが、高くないなりに鼻筋がまっすぐにとおっていて、美男子と呼んでいいだろう。
アジア人、それも中国系らしい顔立ちだが、もちろん今時は外見から判断してはいけない。民族と国籍と個人はそもそも全て別物なのだ。今も国籍や血統にこだわっている日本の閉鎖性こそ国際的には珍しい。遠洋漁業で他国の人間とふれあい、何度も俺は痛感した。
男は切れ長の目でメルヴィルを見つめ、問いかけた。
「……何をしていた。長すぎたぞ」
俺はメルヴィルの質問に答えながら、アクシュネットと契約をかわし、携帯パソコンで入金を確認し、四国の山中へ住む親へしばしの別れと送金を告げるメールを送っていた。
親は嫌いなところも無数にあった。特に漁師時代の思い出ばかり愚痴っていた父親には許せないことばかりだ。俺が遠洋漁業の道に進んだのも、束縛が嫌だったため。しかし、ハウランド丸沈没後の取材合戦からずっと俺をかばってくれたことには、今も感謝している。
少女は上着の首もとのボタンを止めながら、うっすら笑みを浮かべて帽子をかぶる。
「麦茶をごちそうになっていました」
男が眉をひそめた。
「それだけか?」
「背中をさわらせてもらいました」
男が俺を見つめる。どう応じるべきかわからない。
「それと、着替える姿を見させてもらいました」
準備のため、ランニングシャツの上にYシャツを着ただけだ。それから着替えや洗面用具といった生活用品、船乗りのパスポートとなる船員手帳をショルダーバッグにつめこんだ。
しかしメルヴィルに男をからかっているそぶりはなく、まじめくさった口調で話していて、それがいっそう口をはさめない雰囲気を作っていた。
「……まあ、もういい。金田さん、こちらの名前はヒライワシュウだ。よろしくたのむ」
男がさしだしてきた右手を握る。細身に似あわず分厚い手のひらだ。
本当は着替えて階段をおりる間に、メルヴィルから説明されて、だいたいのプロフィールは聞いていた。
男の名前は平岩秀などではなく、平井=カルブレイス=和舟という。二十五歳の日系オーストラリア人。アジア大陸と反対の季節を持つ南半球へ移民し、旬の農作物を逆の季節に輸出しようとした日本人の、次男坊だ。
平井は海軍学校を卒業したが、軍には入隊せずアクシュネットへ参加したという。先に入隊していた兄が優秀だそうだから、比べられるのが嫌だったのかもしれないとのことだ。なるほど、一見するとひょうひょうとしてそうで、どことなく他者と距離をとっているように感じられる。軍隊という組織では、暴走を防ぐ利点がある平和主義者より、戦闘的でも規律を乱す一匹狼が嫌われるとも聞く。もっとも、メルヴィルによると、日本へ休暇で来ていた平井兄が俺の情報をつかんでアクシュネットへ回したそうで、兄弟仲が悪いわけでもないらしい。
「ボートに乗ってくれ。すぐに出る」
平井は俺たちに背を向けて、ゴムボートからアパートの支柱へのびていたロープをほどき始めた。メルヴィルはボートに飛び乗り、モーターのスターターを力強く引いて始動した。
アパートの玄関口に出た俺は、ふりかえって見上げる。住んでいる部屋の窓が小さく見えた。
遠洋漁業では半年以上も海上で生活することが珍しくない。今回は説明された通りなら一ヶ月もかからず帰宅できる。だが、帰ることができる保証はほとんどない。ふいに心の穴を風が吹きぬけたかのような空虚さを感じた。
ほどいたロープを平井は8字状にまとめてから半分に折り、ゴムボートに入れた。そして水にひざまでつかりながらゴムボートをかつて車道だった水路まで押し、よじのぼった。
平井は、乗ってすぐにモーターのクラッチをつないだ。スクリューが水をはねながら回りだし、ゴムボートが進み始める。
そそりたつアパートの渓谷を抜けたゴムボートは針路を南へ向け、速度を増していった。
塩に枯れて葉を落とした街路樹がすぎさる光景を見ながら、メルヴィルが口を開いた。
「先ほどの話の続きですが……」
モーターを動かすレバーを握って針路を調節しながら、平井が口をはさんだ。
「さっき聞いた他に、まだ何かやってたのか?」
「キイチロウさんが見たUSOの話です」
「未確認潜水物体についてなら、あれ以上に俺からは何も答えられない。航跡を最後に見た以外は、ソナーを見ていた者の報告を音声で断片的に聞いていただけだ。本当にモニター上でも百八十ノットが出ていたかわからないし、今となってはソナー記録の確認もできない」
それに白鯨と関係あるのかすら判然としない。
「……百八十……単位はノットだよな」
平井がつぶやいた。さほど驚いている様子ではなく、どちらかというとかみしめているような口調だった。
「通信機ごしに、そう聞こえる会話を盗み聞きしただけだ」
だが、実際に船で追っていた時の速度から考えて、目標が百ノットは出していたことは確信している。
「それが正しいとして、さすがに生物の出せる速度ではない。クジラ類で最も速い小型の種類でもせいぜい二十ノットだ。巨大な白鯨が出せる速度じゃない。水の抵抗から考えて物理的に不可能だ」
それくらいは理解しているつもりだ。
現在も漁師の間では、信じられない存在の目撃談や、漁網に引っかかった奇妙な死体の伝説がまことしやかに語られている。巨大なクラゲともタコともつかないクラーケン、数十メートルを超す体長のシーサーペント、人魚のような姿勢で子へ乳をやるジュゴン、写真に残るニューネッシー。長い航海の疲労や退屈で精神がまいるため、幻のような物語にとびつくのだ、としか思えない。
かつて中浜が雑談の中で説明していたが、サメの腐乱死体を素人が見間違えたとされるニューネッシーのように、やはり報告された当初から誤認と見なされている代物がほとんどらしい。
しかし後にそれらしき新生物が確認できたこともある。ジュゴン以外にも、触手を入れて二十メートルに達する巨大なダイオウイカ、細長くて十メートル以上に育つこともある深海魚のリュウグウノツカイ。だが、形状や生態こそ奇妙であっても、物理的に不可能とされるような生物が見つかったわけではない。
「それについてですが、ひとつ仮説を考えています」
風で飛ばないよう帽子を押さえながら、メルヴィルが話を続ける。
「ソナーが誤動作する原因はゴーストだけではありません。ソナーが実用化されて普及した初期には、特定の海域で不思議な雑音が返ってくることがよくありました」
コウモリやクジラのエコーロケーションについてご存知ですか、とメルヴィルが説明を始める。
暗闇や海中のように視界のきかない場所では、嗅覚や聴覚にたよらなければならない。コウモリやイルカは自ら超音波を発し、その反射を感知して地形や獲物の距離を測る。いわば人類が発明するより前に存在していた、天然のソナーだ。
「クジラのエコーロケーションは、餌となる生物の大きさから骨格の形状まで把握するほどの能力があります。その能力をもってすれば、ソナーを誤動作させることも可能でしょう……」
「理論でできることと現実でできることは違う。俺が聞いていた魚群の動きは、たしかにひとかたまりの生命体だった。しかも魚群探知機と広域ソナーの、二種類のソナーで探知していたベテランの見解だ。俺たちが使っているソナーの種類をクジラが完全に把握して騙しとおせるはずはない」
クジラのエコーロケーションは授業で学んだ記憶がある。しかし、現代のソナーは余計なノイズを遮断する性能を進化させ、他の船のソナーが近い周波数の音波を発していても混乱することはまずない。
イルカやクジラが人類以上の知能を持っているという学者も前世紀にはいた。しかし今も本気で主張するのは狂信的なイルカ愛好家くらいだろう。
「白鯨は私たちが知るクジラ類より、はるかに高い知能を持っている可能性が高いのです。つまりは新種という傍証でもあります。キイチロウさん、私たちはそう確信できるだけの情報を持っているのですよ」
「知能を持っているといわれても、あいまいすぎてよくわからない。イルカは人間に調教されればショーを演じることもあるが、それはイヌネコにもできることだ。教えもしないのに種類が異なるソナーのしくみを理解できるとは思えない」
「しくみを知らなくても道具は使えます。キイチロウさんは学校で学んでいるので、ソナーのしくみや漁船の構造、パワードウェーダーが発展した歴史は知っているでしょう。でも、外骨格を動かすためのOSやアプリケーションが、どのようなプログラムで動いているかまで知らないでしょう」
「だが、人類全体で考えれば、知っている者は数えきれないほどいる。知らない者は知っている者から教えてもらえる。クジラにソナーを誤動作させる方法を誰か人間が教えこんだとでもいうのか」
反論のつもりだったが、口にした直後に、ありえるかもしれないと思い直した。それこそブルーのような狂信的な団体がクジラやイルカを調教していたなら、可能性はある。
「いいえ。教えるまでもなく、現代の海にはソナーを持った船が無数に行き来しています。しかも十年前に比べて、多くの人々が資源を求めて海に進出し、さらに発展途上国へ装置が普及したため、クジラがソナーという存在に出会う機会もまた、数えきれないほどあるわけです。クジラにとっては、すでにそこにあるものを利用して、人間を騙しているだけ……」
メルヴィルはすらすらと道具を使う動物の名前をあげていった。
アリ塚に細い棒をさしいれて、くっついてくるシロアリを食べるチンパンジー。くわえた石を空高く飛んでから落とし、ダチョウの卵を割るエジプトハゲワシ。二枚貝やココナッツの殻で身を守る陸生のタコ。チンパンジーと同様に小枝を樹木へさして幼虫をつかまえるキツツキフィンチ。
「サルはともかく、ハゲワシやタコや小鳥が高い知能を持っているとは思えないが」
楽しげにメルヴィルが答えた。
「貝殻を自らの鎧とする動物として、ヤドカリをくわえてもいいのですよ。重要なのは知能の高さそのものではありません。適応能力の高い動物は、道具を使うことができるということです。エコーロケーションによって意思を伝達することもできる哺乳類が……つまりクジラがソナーを撹乱するため自らの能力を活用し、その手法を仲間と共有していくことに、何の不思議もないでしょう」
「しかし俺たちが目撃したもの以前に、同じような話を聞いたことはない。昨日の今日で進化したというのか」
「高い知能を持つ白鯨には可能なのです。それと、厳密にいえば進化ではなく学習でしょうね。進化とは世代ごとの変化が集積したものですから」
後方から平井が苦い口調で口をはさんできた。
「金田さん、とりあえずマリアのいっていることは本当だ。今は信用しなくてもいいが、白鯨が知能を持っていることを前提にして話を聞いてくれ」
「ワシュウは信じていませんものね」
メルヴィルが感情のこもってない声で平井をねめつけた。
「即断が嫌いなだけだ。仮説としては念頭においている。ついでに意見させてもらえるなら、金田さんの件以外にクジラがソナーを騙していたことはありえるかもしれない。その場合、それこそゴーストや誤認あつかいされて記録に残らなかっただけだろう」
金田さん達の手柄だよ、と平井はいった。
「つまり、たまたま金田さんの乗っていた船が興味を持って追跡した上、次に遭遇した白鯨との関連性を疑われ、記録に残ったわけさ」
皮肉る響きはないものの、どことなく賞賛しかねているような口調ではあった。海洋調査団体に所属しながら、あまり平井は海の神秘といったものを信じていないのかもしれない。
そういえば、そもそも平井に対して未確認潜水物体の話はしていないはずだ。きちんと俺たちの会話内容を理解して意見しているということは、あらかじめ情報をくわしく知っていたということか。
考えてみれば、知られていても当然だ。救助された時に俺が話したことは、信用されたかどうかは別にして、いくつかニュースにのって流れた。だからこそ彼らアクシュネットは俺に興味を持ち、くわしい情報を求めてたずねてきたのだ。
「キイチロウさんと会えて良かったです。こんなにくわしく当時のことを聞かせていただいて、心から感謝しています」
メルヴィルが俺をじっと見つめた。その睫毛がゆれている。
「思い出していただいて、本当に感謝を……」
いいかけて、メルヴィルは口をつぐんだ。
「いや、俺も他人に話せて良かったよ」
「……そういっていただけると幸いです」
救助されて数日、照明をあてられてカメラで追われる日々を思い出し、俺はゴムボートのへりに背中をあずけ、遠い空を見上げた。すでに旧郊外にまで出ているので、視界をさえぎる高層建築はない。ちぎれ雲の隙間から太陽が顔を出してはすぐに隠れる。周囲は電柱や看板が上半分だけ出て、それぞれに白い海鳥がとまって休んでいた。
海中に点在する瓦礫の山で底をこすらないよう、ゴムボートは速度を落とし、ゆっくり蛇行を始めた。
かつては泥や塵が漂って茶色く濁っていた海水も、十年の時をへて充分にすみきっている。見下ろせば、底にたゆたう海藻や、かつて人が使っていた様々な道具類が見える。このあたりの水深は五メートルといったところか。押しよせる波に人が追いたてられた街も、おだやかな遠浅の海となったのだ。
大災害の時を思い返す。津波とはいっても到達したのは南半球の一部にとどまり、北半球においては即時的な被害がほとんどなかった。発生が報じられてから荷物を持って逃げるまで充分な時間もあった。当時の俺は小学生で、海に面した山際の高台に住んでいた。
家族を逃がした後も実家に残っていた父は、目の前の海が水かさをゆっくり増していく光景を、ずっと二階の窓から撮影していたという。父の乗っていた漁船が他の漁船と衝突して沈んでいく映像が、後で移り住んだ山奥の家に残っている。
逆に時間の余裕がありすぎて、自動車で逃げる人達が渋滞を作ってしまう問題も起きたくらいだ。もちろん死傷者が出なかったわけではない。しかし被害としては、津波の後も続いた海面上昇や、気候変動による農作物の不作がずっと大きかった。そうした問題は今も続いている。
ゴムボートの進む先に、水色のトロール船が停泊しているのが見えてきた。もともと漁港だったあたりだ。今でもかろうじて海面上にある防波堤から人工の浮島へ通路をのばし、様々な船が停泊する港として使われている。暇と無職と空腹をかかえた男達が船のいない時間帯に釣りをしている光景を、アパートの四階からよくながめていたものだ。
ふりかえると、ぽつりぽつりと崩れず残っている人家の二階より遠くに、住んでいたアパートが墓標のようにのぞいていた。簡単な補修はしているが住む者もほとんどなく、いずれ取り壊されるか放棄されることは間違いない。取材攻勢するマスコミを両親に押しつけて逃げ隠れていた間、しばらく身を寄せていただけの隠れ家だ。思い出も未練もない。
ゴムボートの後方で左右にゆれる航跡を見ながら、メルヴィルの仮説を半分しか聞いていないことを思い出した。百ノットを超える未確認潜水物体が、白鯨の音波によって誤認させられたソナーの虚像という説はいい。そもそも俺自身ではっきり見たわけではない。だが、素早くのびる白い航跡と謎の小爆発は、俺がこの目ではっきりと見たものだ。
ただし航跡は最初の獲物に比べればずっと遅く、百ノットを超えるという先入観で七十ノットに落ちたと判断したが、実際は五十ノットくらいだったかもしれない。生物でもなんとか出せる速度だ。それくらいなら新種のイルカという可能性もあるだろう。謎なのは大規模な白い航跡と爆発だけ。だが、どうしてもソナーに映った影や、嵐の海に現れた白鯨と、航跡が無関係とは思えなかった。
「なあ、まだひとつ……」
「キイチロウさん、つきましたよ」
俺の言葉をさえぎったメルヴィルは、前方へ視線を向けていて、表情が見えない。左右に流れていく港湾施設の残骸をゴムボートが抜け、港として使われているだだっ広い湾へたどりついた。
桟橋には、複数の釣り竿を並べて食いつくのを待っている壮年の男や、釣り糸へ葡萄のように食いついているアジを一匹ずつ外してクーラーボックスへ放りこむ老人がいる。その周りで箱を持って軽快に駆け回る少女が一人。それらを横目に、人工浮島に乗りつける。
メルヴィルの次に浮島を踏みしめ、背伸びをして体をほぐす俺の後方から、かん高い声があがった。
「あー、常連サン、金はらエー!」
ふりかえると、ラーメン屋の店主兼看板娘が、俺を指さしている。その足もとにはラーメンの丼が入った岡持ち。どうやら釣り客へラーメンの出前に来ていたらしい。
「あれからどこ行ってター! 小銭が足りてなかっター!」
あの時は急いでいたので、値段か硬貨を間違えていたらしい。財布を探そうとしたが、そういえば船上では長く使わないだろうと思ってバッグの奥底にしまってある。
さて時間もないしと悩む俺に怒っていた店主が、ふいに押し黙った。紅茶色の深い瞳が俺を見つめ、ついで俺の横に視線を向ける。その視線を追うと、無表情のメルヴィルが店主を見返していた。
「この方はどなたですか?」
「君と会う前に食っていたラーメン屋の娘だ」
「この女は何ダー?」
「俺を長旅にひきずりこんだ犯人さ」
じろじろとメルヴィルをながめまわした店主は、俺に向きなおって鼻を鳴らした。
「旅に出るというなら、もうイー」
「そうか、おごってくれるのか」
何をバカなという表情で、店主が胸をはった。
「帰ってくるまでの、ツケ。ちゃんと帰レー」
「そうか、悪いな。帰ったら、また食べに行く」
「悪く思う必要ナイ、ツケだから利息で二倍ー」
「そうか……」
苦笑いした俺の前から、店主が身をひるがえして走り去った。そのまま停泊していた小さな漁船に飛び乗る。発進した船上から店主は一瞬だけ俺とメルヴィルを見て、それから二度とふりかえることはなかった。三角巾からこぼれ落ちた後ろ髪が潮風にゆれていた。
「ラーメンですか。本場の味を、一度ゆっくり食べてみたかったです」
ぽつりとつぶやいたメルヴィルに、俺は苦笑いを返した。
「いや、あの娘のラーメンはインスタントだから。自家製のスープは悪くないがな、それも中華や日本の味って感じではない」
そして俺はきびすを返し、これからの旅を始める方角へと向きなおった。
目の前には水色のトロール船と小さなクルーズ船が停泊していて、それぞれから係留用のロープとタラップがのびている。
「どっちだ?」
念のためにたずねると、メルヴィルはすたすたとトロール船に向けて歩を進めた。
「おそらくキイチロウさんが乗っていらした船とほぼ同型だと思います」
俺もメルヴィルの後へ続く。
「こちらが、アクシュネットが海洋調査のため借りている、ジョン=フランクリン号です」
メルヴィルがいう船名は、どこかで聞いた名前だった。
背後から、ゴムボートに乗ったままの平井が説明する。
「たぶん金田さんには、北極探検家の名前で聞きおぼえがあるのだろう。ちなみに、フランクリンは北極の航路開拓調査などで名を残しているものの、最期は遭難して地獄的な恐怖におびえながら全滅。一説には、遭難の飢えに苦しんで人肉に手を出したともいわれている」
「……駄目だろう、それでは」
「北極で悲惨な結果を出した探険家の名前だから、あえて南極調査船の名前にしたということだよ。厄除けというやつさ」
俺はショルダーバッグを肩にかけて、人工浮島のへりに足をかけ、勢いをつけて飛び乗った。メルヴィルも続く。
ゴムボートの向きを変えて大きく回りこみながら、平井がいいのこした。
「ちなみにジョン=フランクリンもあえて地獄号と恐怖号という名前を船につけ、それが最期の航海になった」
やはり駄目だろう、それでは。
とはいえ、縁起をかついで気が重くなるほど俺は信心深くない。軽口のようなものだ。これまでに出会った海の男とは違うタイプだが、平井という男の性格は不思議と気にいった。
トロール船のタラップは右舷からおりているが、船内にそなえつけの簡易な機構のためか、きちんと人工浮島まで達していない。上下にゆれて断続的に浮島と衝突音をかなでるタラップに向きあい、手すりをつかんだ俺はタイミングをあわせて飛び上がる。
先にタラップをのぼるメルヴィルの色気がない尻を追い、俺もジョン=フランクリン号の後甲板に上がった。
後甲板の左舷側にあるクレーンが向きを変えて頭をたれ、ゴムボートを吊り上げている。本来はトロール網を牽引したり水産物を上げ下ろしたりするためのクレーンだが、この船では主として機材の運用に使っているらしい。しばらく馬鹿のように船尾につったってながめていると、左舷におろしてあった梯子を平井がのぼってきた。今はきちんと下から首もとまでのボタンをとめ、帽子を深くかぶっている。
クレーンの基部で操作していた男がふりかえった。ヒゲは白いが、巻いたバンダナの下からうなじへのびる頭髪は焦茶色で、赤く焼けた肌も若々しい。きざまれたシワが集中する先に、意思の強そうな瞳がある。メルヴィル達とは違うカジュアルな服装で、緋色の半袖シャツが太い二の腕ではちきれそうだ。
男に対し、平井が敬礼をしながら英語で報告をする。
「金田紀一郎氏をつれて、マリア=メルヴィルともども無事に帰還しました。特に問題は起きていません」
男は無言で見つめ返す。しばらく二人の動きが止まった。
平井は男の返礼を待たずに手をおろし、迷うことなく甲板におろされたゴムボートへ向かった。男はクレーンの基部から離れ、首もとに巻いた灰色のタオルで手をふく。きっと男のタオルはかつて真っ白だったのだろうが、変色した今の状態も不潔という印象は全くなく、これこそが古めかしい海の男だという懐かしさをおぼえた。
俺に対して向かいあった男は、品定めをするような目つきをした。耳もとでメルヴィルがささやく。
「あちらが、この船の全てを統括している船長です。アクシュネットとは契約していただいているだけで、調査の最高責任者ではありませんが、海上での操船については最終判断をくだす立場です」
俺の足もとから頭まで観察した船長は、くちびるを引きむすんだ力強い笑顔を見せ、歩み寄りながら右手をさしだしてきた。赤茶けた指は筋肉で膨らみ、手の甲は鮫肌のように分厚く、素手なのに皮手袋をしているかのようだ。よく見ると薬指が欠けている。
「船長のホイットフィールドだ。ジョン=フランクリン号へようこそ」
握りしめた右手は分厚いだけでなく、燃えるように体温が熱い。
佐久間船長とは正反対の印象だが、同じように好感を持てる人だと感じた。ふいに潮の強い臭いが俺の鼻を突き、目尻に痛みをおぼえた。
まだ何も終わっていないし、始まってもいない。しかし、半年前に凍える南氷洋で止まった何かが俺の中で動き出そうとしている。そんな予感がした。
タラップをあげたジョン=フランクリン号が、ゆっくり港を離れていく。頭上で何羽もの海鳥がはばたいていた。
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