一章

―― 七年前 夏 ――

 娘の誕生日をともに祝うはずの時間。

 それがアブラハム博士が最期をむかえた時だったという。


 深海探査艇からの通信がとだえて一時間がたつ。探査艇と海底との距離が縮まりつつある様子が、感情を抑えた声で読み上げられる。異変が起きる前は活気にあふれていた船室も、今は言葉少なに状況確認の単語がやりとりされるだけとなった。

 母船の探査装置から出力される情報は、ひとつのパソコンモニター中央でカラフルな模様を描いている。その右下に円形で示される光点が、徐々に明度を落としていく。明度が下がって黒くなるほど、その光点が示す物体が深く遠くなっていることを示していた。

 波にさらわれた都市の残骸が底に降り積もり、ここオーストラリア南部の大陸棚は水深が浅くなっている。しかし、さすがに生身で海底から海面までたどりつけるほどではない。むしろ瓦礫が海流でたえまなく動くために、海底の地形が変化し続けて救助をさまたげていた。

「お父さん!」

 船室の片隅で少女が髪をふりみだして叫んだ。パソコンや書類がならぶ無機質な空間には似つかわしくない、フリルとリボンで飾られたワンピースがひるがえる。

 そのまま船室を飛び出そうとする少女を白衣の研究員が背後からつかまえた。床を靴が打ち鳴らす音と、布地の裂ける音がした。

「はなして! お父さんがあそこに……」

 拘束されながらも叫び暴れ続け、やがて体から力がぬけた少女は、床へしゃがみこんだ。

 うつむいた少女の頭上で、雑音混じりの音声が流れた。

「……大丈夫だよ、サラ。私が消えることはない」

 鼻水を顎までたらした少女がスピーカーを見上げる。背後の研究員ははっと顔を上げたが、すぐに眉をしかめてうつむいた。

「……そこにいるのだろう。ならば泣かないでくれ。これは少しも悲しむべきことではない」

 深海探査艇の外観がひとつのモニターに映った。深海探査艇から有線で遠隔操作し、細かな調査を行うための無人探査機。その船外カメラで撮影した映像だ。

 海流で左右にゆれる映像に一瞬だけ深海探査艇後部が見えて、バッテリーのある区画が大きく裂けていることと、スクリューが基礎からちぎれてコードだけで船体と繋がっていることが確認できた。

 やがて無人探査機は深海探査艇の船体にマニュピレーターでうまくつかまり、映像がゆれを止めて安定する。

 一人の操縦者がようやく入る大きさの球形耐圧殻と、やや丸みをおびた直方体型の船体。その合わせ目あたりから、細かな泡が連続的に生み出されている。耐圧殻そのものは船体から独立して密閉されているが、衝撃が船体との接合部分に集中して亀裂が入ったらしい。

耐圧殻の小さな丸窓から、深海探査艇の操縦室にいる男の横顔が見えた。

 男がふりむき、無人探査機に向かってほほえんだ。口まわりのヒゲは白い毛が混じっているが、短く刈った頭部は黒々と濃い。

「私という存在が滅びることはない。いつまでも。なぜなら……」

 ひときわ大きな雑音が鳴って、スピーカーの音声が途絶えた。船室で聞こえる声は、またも状況確認する断続的な言葉だけになる。無人探査機のカメラは耐圧殻の窓にまで水が満たされていく様子をはっきり伝えていた。

 深海探査艇の深度を示すモニターの光点がゆっくりと、しかし確実に明度を落としていく。ついに真っ暗な背景に溶けこんだ瞬間、いれかわるように確認不能を表わす単語が小さく表示された。海底に着底し、地形にまぎれて判別できなくなったようだ。

 いつしか少女は座りこんでしゃくりあげるだけになった。おちつかせようとしていた研究員が手を離して立ち上がっても、その場から動こうとはしない。研究員はかがみこみ、ハンカチで少女の涙と鼻水をぬぐってやる。少女は鼻をすすらせながら首を縦に動かし、感謝の気持ちをあらわした。

 しばらくして立ち上がった少女が、船室の中央へ向き直った。手の甲で顔をぬぐって、一礼する。

「すみません、みなさん。さわぎを起こしてじゃまをしたかったわけではありません。無理をいって乗せてもらったことを感謝しています。ここにいるからこそ、父が……」

 途中で言葉につまった少女を、背後から研究員が優しく抱きしめた。やわらかく頭をなで、乱れた頭髪を整える。

 その光景を横目にしつつ、モニターを注視していた一人の研究員が、小さく驚きの声をあげた。

「アブラハム先生、先生ですか?」

 隣で別のモニターを見ていた研究員ものぞきこみ、同様に驚く。

 雑音がひどく会話できないことすらある音声情報のかわりに、文字情報で安定した情報をやりとりするためのモニター。そこにふたつの英文がならんでいた。

「わたしはここにいます。あなたはだれですか……いったい、この文章は何ですか」

 子供が使うような簡単でそっけない文章だ。隣からのぞきこんできた研究員の当惑する声に対し、モニターを見ていた研究員が小声で指摘する。

「いや、この文章はどちらも定型文だろ。やりとりで回線を圧迫しないよう、あらかじめ決められている文章のふたつだ」

 深海探査艇が海上へデータを送る手段は限られている。電波は海中をとおりにくく、いくつか試されている通信方法も実用化はされていない。現状では超音波を使う通信しかできないわけだが、それも時間ごとに送るデータ量に限界がある。ケーブルで繋げて通信する方法もあるが、行動範囲が制約されやすいので今回の調査には使われていない。そこでデータ量を抑えつつ、調査中でも簡単に素早くやりとりするため、あらかじめ定型文を決めていた。

 のぞきこんでいた研究員が小声で問う。

「それならば、何かのエラーで文章が送られてきたのではないですか」

「いや、少しばかり誤動作しても文章が送られないようになっている。そのための定型文だ。操縦室内で確実に特定のキーを押さないと、まず文章が送られることはない」

「じゃあ、アブラハム先生の腕が偶然に当たったという可能性はありませんか」

 この計画で使う深海潜水艇には水中でも使える耐水性キーボードが用いられていて、理論上は水没しても使用が可能だ。

「耐圧殻のような狭い場所に水が満ちた後で、大きな流れが起きたりはしない」

 話しあう二人は、少し離れたモニターの、無人探査機から送られているカメラ映像を見やった。船体から外れかかった球殻の、その丸い窓をとおして、ぶらりぶらりと水草のように二本の腕がたゆたっている様子が見える。

 浮かんだ状態の両手が、膝の上あたりにあるキーボードへ接触したとは思えない。うつむいた男の横顔も目を閉じたままで、命の気配を感じさせない。口もとから泡が少しずつ出ているが、もちろん水中で呼吸しているわけもなく、口ヒゲについた細かな泡にすぎない。ふいに窓の向こうに動く影が映ったが、よく見ると海水とともに流入した小魚や、軟体動物の触手だった。

「何より、定型文はひとつやふたつではなく、千種類以上もあるんだ。しかも多くの定型文は、調査でえた数値も同時に記述しなければ意味がとれない。ふたつ偶然ならんで、それなりに意味が通る可能性はほとんどない」

「ならば、誰が文章を送ったというのですか」

「……先生が、力をふりしぼって、何かを伝えようとしたのだと思うよ」

 二人は背後をふりかえった。先ほどまで泣き叫んでいた少女は、かたすみのパイプ椅子に座って周りの研究員の様子をながめている。赤く目をはらし、視線はさだまらず瞳がゆれているものの、口もとはしっかり閉じて落ちついている。十二歳という年齢相応に子供らしさと女性らしさの境界にある体型だが、雰囲気は同年代より大人びていた。

 この海洋調査の責任者として自ら探査艇に乗りこんだアブラハム博士の、たった一人の家族だ。災害で妻をなくした博士は、娘と二人で生きてきた。その情愛を知っているだけに、通信がとだえてから一時間、よく少女は不安な思いにたえていたと感心する研究員が多かった。

「私は違うと思いますよ」

「違う?」

「これは相手が誰なのかを質問する文章でしょう。きっと私たちに対する言葉じゃないですよ。遺すなら絶対に別の言葉になるはずです」

 自分にもいいきかせるようにしゃべりながら、ひとつ大きくうなずく。

「先生は研究者です。もうろうとした意識でも、いやだからこそ発した言葉は、それは……」

「伝えようとした何かが、実際に観察したものに対してだとでもいうのか」

 のぞきこんでいた研究員は無言でうなずく。

「しかし、そのわけが……その意味がわからんよ」

「私もです。いくつかの可能性を考えましたが、どの想定でも、もっとふさわしい定型文の組み合わせがあるものばかりです」

 しばしの沈黙の後、ふいに船室へ声が響いた。

「あの窓を、あの窓を見て!」

 少女が立ち上がり、モニターを指さしている。無人潜水艇の船外カメラ映像だ。映し出されている光景そのものが激しくゆり動かされ、丸窓がモニター上で左右に行き来する。その往復運動する丸窓が特定の角度になった瞬間、異様なものを映した。

 窓の奥には男の姿と小魚しか映っていないが、透明で平らな合成樹脂面に反射して、うっすらと巨大な鰭と小さな瞳が映りこむ。

「間違いない、こいつだ!」

 船室がふたたびあわただしくなり、激しい言葉がとびかう。

「無人探査機はこちらから動かせるか?」

「こちらから遠隔操作できるように設定しなおしました。……いや、駄目です、マニピュレーターに反応がありません」

 船外カメラに映る深海探査艇の姿が小さくなり、暗闇に消えていく。消える一瞬前の耐圧殻近くに、しっかりつかまったマニュピレーターの先端部が見えた。強力な力で途中から引きちぎられ、のびたコードやワイヤーが垂れていた。

「ならばスクリューは?」

「ずっと出力を最大にしていますが、駄目です、相手の力が強すぎる」

 指示を出していた副責任者は、ソナー情報が映っているモニターへ視線を移した。深海探査艇が着底した場所から、巨大生物と思われる表示が急速にはなれていった。

「……これこそが白鯨だというのか」

 やがてソナーの探索範囲を超え、巨大生物らしき表示はモニター上の円から消えた。無人探査機からの船外カメラ情報もとどかなくなった。

 船室の片隅で定型文を見ながら、一人の研究員が抑揚なくつぶやく。

「もし、この文章が誰かに向けた問いかけだというのなら……」

 ……あなたはだれですか?……

「まさか先生は、白鯨に知性を認めたとでもいうのか」

 前世紀にとなえられ、やがて否定されていった学説のように。

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