青のラムシュプリンガ

@Qtarou

序章

―― 十二月五日 ――

 その男と俺が出会ったのは、水没した校舎の屋上でラーメンを食べている時のことだった。

「この再現ドラマ、いくらなんでも演出がおおげさと思いませんか?」

 麺がからんだままのプラスチック製フォークが、薄汚いテントにぶらさがった小型テレビを指している。フォークを握るのは太い指に太い腕。いわれるままテレビを見ると、湿気を防ぐため透明な袋に包まれた画面で、世界の主要都市が水没する大災害がドラマ仕立てで再現されていた。

 南極をおおう巨大な氷の塊、いわゆる氷床が裂けたのが十年前のこと。氷床の一部は、合わせれば日本列島より広い面積の氷山となって、巨大な氷塊が海へ滑り落ちるたびに津波を発生させた。氷床という重しを失った大陸は隆起し、さらなる海水面の上昇と、世界規模の気候変動を生み出した。そうした事態の経過が、悲痛な声色のナレーションで説明されている。

 俺がラーメンを食べている場所も、その大氷嘯だいひょうしょうと呼ばれる水害で没した街のひとつだ。海面上にかろうじて頭を出している校舎に、ビニールシートや防水布で売り場をこさえた小さな店が立ち並ぶ。鉄筋コンクリート製の屋上はあちこちひびわれているが、危険な場所は誰かが勝手に樹脂や木片で補修している。その校舎を中心として、手漕ぎボート、小さな漁船、屋台舟の類いが寄り集まり、魚介や雑貨を売買する海上市場が生まれた。集まる客や店主を目当てに飯を出す店も多く、あちこちで白い湯気を立ちのぼらせている。

 いきかう客や店主は日本人ばかりではない。いろいろな出自の移民や、さまざまな国籍の難民が入り混じり、独特の活気がある。この混沌が俺は嫌いではない。少なくとも、故郷ということになっている高知県の山奥よりは、ずっと開放的で安心できる。

 俺にテレビの話をふった男は、見た目からすると一般的な日本人らしい。もちろん人種と国籍は厳密には異なるし、もともと日本にも少数民族や移民がいるので、一般的な日本人という形容は不正確だが。

 ともかく男の背は低く、のっぺりした童顔に笑顔がはりついていて、七福神の布袋さんのような雰囲気だった。半袖のワイシャツは脂肪ではなく筋肉ではちきれんばかり。やや背が低いかわりに、よくきたえているようだ。そのわりに日焼けしていないところを見ると、生活の大半を海底基地においている海中作業者か、体力づくりが趣味の技術者か。もし警官か海上保安官なら、事務仕事ばかりしているのだろう。

 茶色のネクタイをしっかりしめているあたりは、よれよれのカッターシャツの首もとを開けている俺より、よほどまともな職業についているように見える。実際、俺はここ半年間いっさい仕事せず、貯金を切り崩して生活しているのだが。

 俺の値踏みに気づいているのかどうか、男は再現ドラマの論評を続けた。画面では、氷床上に設営されていた南極基地が崩壊し、観測員が生き埋めになっている。

「ちょっと俳優の演技が過剰だし、大氷嘯で押しよせる波のVFXも力が入りすぎ。まるでパニック映画だ。そう思うでしょう」

 ひとなつっこい笑顔は実年齢がわかりにくい。それでもおそらく二十代後半から四十代前半くらい、少なくとも俺より歳上だろうと見当がついた。

「……さあ、俺はこれでも若いんで。子供の時分は高知の山奥にひっこんでいたんで、当時のことはよく知りません」

 大氷嘯があった時、俺の家族は住みなれた家を早々に離れて、山地に住む親戚の家にひっこした。街が沈んでいく様子はニュースやインターネットの映像で断片的に知っているだけだ。記憶している映像では、確かに再現ドラマとは違って激しい津波など起きず、ゆっくりと水かさが増していくだけだった。だが、どちらの災害にしてもモニターの中に映し出された、フィルターごしの虚像ということは同じ。たいした印象の違いとは感じられなかった。

「それに人がたくさんドラマチックに死にすぎてる」

「……そうかもな」

 大氷嘯による死傷者は、主に移動中の混乱や、仮設住宅の孤立中に発生した。少なくとも統計上はそうなっている。水が押しよせるまで充分な時間をかせげた北半球、特に過去から津波災害を何度となく経験した日本においては、海面がゆっくり上昇することは即座に危険というほどでもなかった。それよりも多くの工場や街が水没した打撃こそが問題だった。

 親の世代にとって、死傷者より国力の低下こそが衝撃だったらしい。大氷嘯前の社会が感覚としてわからない俺にしても、大氷嘯という言葉は肩身のせまい生活を強いられた子供時代の象徴だ。

 思い出にひたりながら俺が無言でラーメンをすすっている間、男は一人で勝手にしゃべり続けていた。

「氷床が移動する速度も速すぎる、これじゃ雪崩だ。氷床の滑落によって各国の南極基地に被害が出たが、氷の速度は一時間に一メートルくらいが平均だった」

 画面にクジラの群れが映った。白鯨という呼称をナレーションが語る。俺は眉をひそめ、色あせたテレビモニターから目をそむけた。

「ふむ、白鯨の登場時期も早い。人間なみの知能を持っている新種のクジラという仮説はいいとしても、それが発見されたのは大氷嘯の一年後、新種と確定したのはさらに一年後だ」

「この番組がイヤならチャンネル変えようカ?」

 日本語の少し怪しい少女が、片手に丼を持ったままテレビに手を伸ばした。

「いや、そのままでけっこうですよ」

 しゃべっていた男は少女に笑顔を向けて、目の前にあるラーメンを口に入れ始めた。あまりラーメンが好きではないらしく、太い指に握ったフォークを不器用にあつかい、麺を口へ運んではモシャモシャと噛んでいる。

 そうカー、と返事した少女は丼にスープをついで、俺の頭ごしに別の客へ渡した。看板娘と店主をかねた、十六歳くらいの無国籍少女。表情がぶっきらぼうでさえなければ、長い睫毛と整った顔立ちが魅力的に映るだろう。

 俺は店主から目をそらしてラーメンへ向きなおった。

 プラスチック製の軽く安っぽい丼から、魚介ダシがベースのスープが湯気をたてる。調理場というべきか、細長い机でしきっている向こう側では、店主が大量の小エビと干した貝柱を布に包んで寸胴鍋に沈めていた。三角巾に包んだ黒髪が背中に流れ、浅黒い肌は健康的に輝いている。鼻につく東南アジアらしい香りは、ニョクナムだかナムプラだかいう、イワシを発酵させた調味料の風味だろう。

 麺はインスタント。小銭を足せば、日本語の怪しい店主が新しい麺をダシで三分間ゆがいて、丼に入れてくれる。塩辛い安っぽい味。ぼそぼそとした歯ざわりの麺。だが、値段に見合った味と量は充分にある。この季節、熱いスープもありがたい。

 そもそも周りが汚れた作業着のままで立ち食いしているような場所で、上品な料理を出されても喉を通りはしない。

 俺がラーメンに意識を集中させている間も、男は話しかけてきた。

「見た目より若いとは、何歳でしょうか。いや、ちょっと待ってください、当ててみましょう。見た目から、ずっと漁業を仕事にしているようですし……二十五歳ってところでどうです?」

「どちらも外れだ。ここ半年は沖に出たことすらないし、年齢は二十一歳だ」

 俺は丼のスープを飲み干した。店主がインスタント麺の袋を開けかけながら聞いてくる。

「今日は、替え玉いらないかカ?」

「いや、いらない」

 はっきりと断らないと勝手に新しいラーメンを入れられかねない。店主は麺の袋を置いて笑った。

「そうカ、金欠カー」

 笑われるほど財布が空ではなかったが、腹もそれほど空ではなかった。別に貧乏と思われてもかまいはしないが。

「ああ、やはりですか!」

 ふいに大声が上がったので横を見ると、男がしたり顔をして何度もうなずいていた。

「やはりって、何がだ?」

「二十一歳という年齢。故郷は四国。半年以上も海に出ていない漁師……やはり例の、白鯨に出会った金田紀一郎さんですね。ようやく見つけることができました。なるほど、こういう市場を利用しながら隠れていたのでは、優秀な日本の警察だって見つけることは難しい。どうです、生活は落ち着きましたか」

 男の言葉の意味を理解するまでに時間がかかった。理解した瞬間、思わず腕に力がこもり、プラスチックの丼がたわんだ。

「いやだな、そうにらまないでくださいよ。まあ、ずっとマスコミに追われて大変だったことは理解しますが、私はあなたの味方です」

 フォークでパスタのようにラーメンを食べ終えた男が、俺に満面の笑顔を向けてくる。

「……スープを飲み干したことを後悔しているよ。あんたにひっかけることができなくてな」

 周囲の客は俺たちの異変に気づいていない。店主だけはスープを混ぜながらちらりと視線を向けたが、すぐにそらした。面倒ごとにかかわりたくないのだろう。合法的に入国している移民でも、この国ではちょっと揉め事にかかわるだけで追い出されかねない。

「私は忠告しに来ただけですよ。金田さんは、自覚している以上に世界中が注目しているのです。白鯨に出会ったこと、その肉体にふれたこと、助けられたこと……」

 雑踏のざわめきを超えて、波の音が聞こえてきた。気づけば、風が強くなっていた。潮の臭いが鼻をさす。そう、かつて人の住む街であった場所も、十年も沈めばただの海だ。

「特に、クジラを神様か何かと思っているような新興宗教は、あなたを救世主もしくは奇跡の証人として祭り上げようとしています」

「知っている……それが嫌で、俺は顔を出すことをしてこなかったんだ。わかっているなら、今すぐ目の前から消えてくれ」

 俺は丼を放り投げるように店主へ返し、男を追いはらうように開いた手をふった。

「私一人が消えてすむなら、喜んでそうしますとも。ですが……」

 男は目をふせ、何度もうなずいた。

「……最近、ブルーという名前の組織が接触してきませんでしたか?」

 俺は苦い顔で首を横にふる。

「そうですか、まだですか。こういう海上市によく現れるので、もしやと思っていましたが」

 男は笑顔のまま首をかしげた。

「まだ有名ではありませんし、実態もはっきりしませんが、海上で生活している思想団体のひとつですよ。白鯨を保護しようと漁業の妨害活動をしているので、漁師だった金田さんなら知っているはずだと思っていましたが」

 さらに男は最近の団体から、大氷嘯以前から存在する古い団体まで、名前をいくつか上げていった。いくつかは聞きおぼえあったが、出会ったおぼえは一度もない。そもそも日本に帰った半年前から、他人と長く会話をしていない。

「ふむ、それは良かったといっておきましょう」

 男は顔をふせ、長々とため息をついた。初めて笑顔以外の表情になったと思ったが、上げた顔は再びほほえみを浮かべていた。

「しかし、そうした団体だけでなく、当局も金田さんに注目しているのですよ。白鯨に助けられた結果として宗教に目覚める危険があるということじゃありません。そうした団体が接触してくる餌として……ほら、顔を動かさずに聞いてください」

 男は声を低くしつつ、テレビに目を向けた。再現ドラマはとっくに終わり、古いドラマの放映が始まっていた。主人公らしき青年が、無実の罪で警察に逮捕されようとしている。

「十三メートルくらい後に二人、背広の男たち。二十メートル右に一人、ツナギを着た男。当局があなたを監視しています。ふところに武器も隠している。日本の公安警察ですよ」

 言葉の内容だけで考えれば冗談と判断するべきだろう。しかし、テレビを見ているそぶりの横顔は、笑顔を浮かべながらも目だけが笑っていなかった。

「なぜ、そんなことを知っている。だいたい、あんたは誰なんだ?」

 俺の声も無意識に低く、小さくなる。

「当局と思っていただいて間違いありません。だからこそ金田さんを見つけられたわけで。できれば、このまま保護したい。それが最も面倒ごとをさける選択肢です」

 ほほえみながらも男の声色は冷たく、真剣だった。妄想にとらわれていると思おうとしたが、それですまされない雰囲気をただよわせていた。

 だんっ、と机を叩く音が会話に割り込んできた。

「お客サン、さっきから何なんカー。商売のジャマするならヨソでやレー」

 机を包丁の柄で叩いた店主が、身を乗り出すようにして男をにらみつける。その厳しい表情は続いて俺にも向けられた。

「常連サンもそうダー。金をはらったらとっとと帰レー」

 俺はあわてて立ち上がり、小銭をわたした。若い店主がふんっと鼻を鳴らして受けとる。

「じゃあ、私も……」

「全て食エー。残さず食エー」

 ふところに手を入れた男をさえぎるように叫び、店主が腕組みした。男の持っている丼に目をやると、麺こそほとんど食べ終わっているが、薄茶色のスープはなみなみと残っている。

 男をにらむ店主が、一瞬だけ俺を見た。長い睫毛の奥から、紅茶色の瞳が逃げろと訴えかけているように見えた。

 俺は足もとの荷物をひっつかみ、走りはじめた。

「あ、金田さん、待って……」

背後から男の小さな叫び声と、イスがわりに座っていた木箱の倒れる音がした。

 左から背広を着た中年男が二人、人ごみをかきわけながら俺に向かって走りよってくる。なるほど、男の言葉は、少なくとも半分は嘘ではなかったらしい。

 角を曲がる時、屋台に積まれた果物の山を崩してしまった。店主らしき老人の怒鳴り声。カッターシャツにべっとりと赤黒い果汁が血痕のように染みを作る。それでも何とか転げることなく、俺は一目散に走り続けた。

 乱雑に立てられたテントは迷宮のようで、雑踏とともに俺の姿を隠してくれるが、そもそも屋上はさほど広くない。別校舎に向かって渡されている浮橋を走り抜けたが、それでもすぐに逃げ場がなくなった。

 目の前にある簡易の船着場から、手漕ぎボートは全て出払っている。残っているのは船賃の高い漁船やモーターボートだけ。いくら小さくても漁船では、俺が住んでいる浅瀬のアパートまで行けそうにない。入り組んでいる水路を進むことこそ可能でも、瓦礫で船底をこすったり、水面下に隠れている建物の残骸に乗り上げたりしかねない。

 背後をふりかえると、背広の男が二人、携帯電話を耳に当てているツナギを着た男が一人、余裕たっぷりの小走りで近づいてくる。

「どうした。あんちゃん、乗らないのかい」

 船着場からから十メートルほど離れた漁船の船首から、男が俺に声をかけてきた。くわえ煙草のままロープをほどきかけている。

 乗るべきか。漁船を見た感じでは、そこそこの速度は出せそうだ。沖合いに遠く逃げる選択肢も、たぶん悪くない……

「そこの男を捕まえてくれ! 重要参考人だ!」

 背後から大声が上がった。

 ふりかえると、中年男の一人が黒い手帳を頭上でふっている。本物の警察手帳に見えた。

「……本当に当局とやらなのか」

 よく見ると、男の手には手帳だけでなく白い紙切れも握られていた。もう一人の男も叫んだ。

「船賃に充分な金を支払おう!」

 俺は漁船の船首に立つ男を見上げた。日焼けで赤茶けた肌に白いハチマキ。海の男らしくシワが深く刻まれた顔に、落ちくぼんだ眼窩。その黒い瞳が、見る間にどんよりと曇っていく。

「カナダさん!」

 若々しい、少女らしき声がした。まさかラーメン屋の店主が追いかけてこられるわけがないと思いつつ声のした方角を見ると、黒いゴムボートが波飛沫を上げて近づいてくる。船尾のモーターを操っている長身の青年と、船首で叫んでいる少年らしき姿。そろって見たこともない制服を着て、俺のいるところへ近づいてくる。

 俺は漁船を見上げた。船尾にいる男は、無言で俺を見下ろしながら煙草を海へ捨てた。

 漁船と岸壁の間に速度を落としたゴムボートが滑りこむ。若者は帽子が飛ばないように押さえ、漁船から岸壁に渡されたロープに引っかからないよう身をかがめて叫んだ。

「飛び乗ってください!」

 敵か味方か。俺は一瞬のためらいの後、ゴムボートに向かって跳躍した。

 プラスチック製の床板を踏んだと思った瞬間、ゴムボートが速度をあげる。船首で叫んでいた若者ともつれるようにして床板に倒れこんだ俺は、上体をそらすようにして海上市を見た。

 船尾にもたれかかるようにしている長身の男の背後で、うろうろと三人の男が手をこまねいている風景が、見る見るうちに遠ざかっていく。

「助けられた……のかな」

 つぶやいて立ち上がろうとした俺は、抱きあうような格好になっている若者の意外な柔らかに気づいた。

「ええ、間にあいました」

 体を離した俺の目の前で、若者は帽子をぬぎ、自らの柔らかな黒髪をなでつけた。年齢は十五歳くらいか、もっと下だろう。

 短く整えた前髪。小さな鼻。細いがしっかりした眉。意思の強そうな瞳が、俺を正面からとらえた。

「女の子だったか……」

 俺の失礼なつぶやきは聞こえたかどうか、真剣な顔のままで少女がいった。

「カナダキイチロウさん、ようやく会うことができました。白鯨に最も近づいた者として、私たちに力を貸していただけませんか」

 金滝一郎とでも聞こえかねない音の区切りだった。発音の癖と考えあわせると、この少女も日本育ちではないかもしれない。

 俺はゴムボートの床板に尻をついたまま両手を上げ、降参の姿勢をとった。事態の目まぐるしさと、満腹のまま人ごみを走り抜けた気持ち悪さで、今は何も答えられる気がしなかった。せいぜい指をさして俺の住んでいるアパートへ帰る針路を教えるのがやっとだった。

 徐々に浅くなっていく海をゴムボートが進んでいく。かつて小高い丘にあっただろう民家の、瓦屋根だけが海面に浮かんでいる。よほどしっかり建てられていたのだろうが、今ではただの障害物だ。遠くでは斜めにかしいだ高層マンションが陽光を反射して輝いている。かつて人が住み、今では魚の楽園となった街。

 ゴムボートを操縦している長身の男が、ふところから鉛の容器をとりだした。その底にある穴から、おみくじのようにプレートを一枚ぬく。そっけない番号がふられただけの、クリーム色の細いプレート。

「ここは心配いらないよ……」

 声をかけたが、男はふりかえりもしない。疲れはてた俺の声はかぼそく、モーターの音にさえぎられて届かなかったようだ。

 しばらく待つとプレートは水色へ変化し、やがて薄い青紫色になった。男は容器についている色見本と見くらべ、計測された放射線量を少女に報告した。

「いったろ、たいしたことないって……」

 今度こそ俺の声は聞こえたはずだが、操縦と計測にいそがしい男は答えない。いくつかの器具をとりだして、海水をすくったり、空気にさらしたり、陽光にあてたりしては、計測した数値をメモしている。

 大氷嘯によって海岸ぞいの工業地帯や発電所の多くが水没し、あるいは取水や排水の機能を失って停止した。あらかじめ停止しておいた原子力発電所も少なくない原子炉や燃料保管所が海面下へ沈み、処理しきれていなかった放射性物質が海中へ拡散していった。

 もちろん問題は放射線だけではない。水銀や鉛のような重金属や、毒性の高い塩素化合物なども流出している。ひとつひとつは小さな危険でも、累積すれば無視できない。さすがに即死するような場所は少ないものの、できれば避けたいのが人間の心理というものだ。

 危険をさけて生活することが難しい現代は、病気を治療することが難しい現在だ。

 いったい、いつからこんなことになったのだろう。

 ゴムボートの振動を背中で感じながら、ぼんやりとした頭で俺は市場で見たテレビ番組を思い出していた。


 南極大陸をおおっていた巨大な氷床に亀裂が走り、一部が突如として崩れ落ちてから、十年の月日がたつ。

 砕けた棚氷たなごおりは大小さまざまな氷山となって海へ流れ出ていった。三ヶ月にわたって断続的に発生した津波は、対岸のオーストラリア大陸南部に広範な被害をあたえた。海に面して繁栄していた世界中の大都市や工業地帯も、多くが上昇する海面に沈んでいった。

 また、万年の間に降り積もった雪の重しを失ったことで、南極大陸の一端に巨大な半島が隆起した。それも海面上昇の要因とされている。現れた半島は、地熱によって常に蒸気が立ちのぼる不毛の大地となった。その熱い半島は、聖書に記述された地の果てにして、豊かな金属工業で栄えた都市、タルシシュの名がつけられた。

 氷床が崩れた原因は今もはっきりしていない。地球温暖化の原因が大気中の二酸化炭素濃度上昇によるものという学説は、当時の学者間でおおむね支持されていた。しかし同時に、棚氷が崩れるまでには半世紀以上の余裕があるという意見が有力であった。

 実際に十年前のその時も、極端に南極の気温が上がっていたわけではない。人工衛星で観測した地熱量から、氷床の底で人類が感知しえない噴火が続いていたという仮説が生まれたが、有力視されつつも確認されていない。噴火により下層で発生した亀裂が、地球温暖化で氷床が薄くなっていたため上層に到達したという説なのだが、崩落した棚氷近辺は今なお危険とされ、仮説をたしかめるための調査は筋道すら立っていない。

 測量されていない未知の地形、地熱と海流の変化で変動する気候、先の見通せない濃霧……到達をはばむ様々な要因により、この十年間に南極大陸へ足を踏み入れた人間はいないとされる。

 いずれにせよ人類は、自身をふくめた多くの生命と、居住や農耕牧畜に適した広い平野部を失った。ゆえに食糧資源を海洋に求めるようになった。しかし以前にも増して地球を広く覆う大海には、進出した人類が予想もしない生物がひそみ、勢力をのばしていた。

 現存する動物種の中で最も大きく、あらゆる海に出没し、群をなして人類の進出をはばむ、未知の生物。

 その生物群を、人類は仮に白鯨と呼んだ。

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