第23話

 ようやくセルリアの頭痛が治まり、セロシアは手を引いて立ち上がった。空も赤く染まっている。今日はもう戻った方がいいだろう、とセルリアに言おうとしたその時――


「あれ、何か静かじゃない?」


 周りの雰囲気に違和感を覚えた。確かに人通りは少なかったが、今は誰もいない。影すら見えない。それどころか、住宅街にも関わらず、あまりに音がない。

 まるで、家の中にすら誰もいないように。

 一体何が起こったのか、とセルリアに向き直った瞬間、セロシアは目を疑った。


「セルリア危ない!」

「え? っ!?」


 彼女の手を引くよりも早く、後ろから黒い靄のような物がセルリアを襲った。恐怖に彩られた顔がすぐに見えなくなり、代わりに黒い靄の一部がニタリと笑うような形を作る。


「こっの!」


 まだ出ている彼女の手を引っ張ろうとして、今度は自分が後ろへ引かれた。振り向こうとした視界が、真っ黒の何かに覆われる。

 次の瞬間、一気に体温を奪われた。体の中が凍ったように冷たく、ゾクリとした嫌なものが背筋を這い上がってくる。


「や、何!?」


 必死にもがこうとするのに体が動かない。喉が詰まり上手く声がでない。

 セロシアは反射的に閉じていた目を開けた。とにかく、自分に何が起こっているのか確認したかった。けれど、目の前に映ったのは町でも、黒い靄でもなくて――


「あ……っ」


 セロシアは抵抗をやめた。動けなかった。

 目に映るのは、まるで細切れにしたフィルムを見ているかのような映像。耳に入ってくるのは二度と聞きたくなかったような声。そのどちらも、自分に覚えのあるもので。


「や……っ」


 小さな女の子が殴られながら床に倒れる。その女の子の上に卑しい笑みの男が覆いかぶさり、また拳を繰り出す。

 二人の近くで、別の女の子が泣き叫んでいた。『やめて』と叫ぶのに、助けたいのに、その子の体は動かなかい。

 顔の似た二人の小さな女の子。一人は泣くのを耐えて殴り続けられ、もう一人は泣き叫ぶだけで他には何もしない。


「や……やめ、てぇ……」


 見たくない。あんな光景は二度と見たくない。助けられるのに、手が届くのに、怖くて動けない。自分の大切な子が傷ついているのに、何もできない。


「いや……いやぁ!」


 もう見ていられなくて、セロシアはギュッと目を閉じた。だが映像は瞼の裏にまで浮かんでくる。今度は、違う景色。

 暗い道。歩いている自分。振り返り首をかしげる。かと思いきや携帯を取り出して、表情が一変した。走り出そうとしたのを誰かが引き止める。振り払った瞬間、その誰かの手が自分の首に回されて。


「っ! く、るし、やめっ!」


 映像を見ていただけのはずなのに、苦しい。息ができない。首には何もないはずなのに誰かの手で絞められている感覚がある。

 意識が薄れていく。遠のく感覚、何も見えなくなる視界。苦しさと恐怖に襲われる中で、セロシアはなぜか思った。


(ど、う……して?)




   ※ ※ ※ ※ ※




 黒い靄に視界を奪われ、次いで冷凍庫に入れられたように体温がなくなった。刺すような冷気に、セルリアの体が痛みを叫ぶ。

 何が起こったのか分からない。だが、尋常じゃない状況の中でセロシアが頭をよぎった。


 彼女が傍にいたはずだ。あの子はどうなったのか。

 怖いけれどそんなことは言っていられない。セルリアは勢いよく目を開け、次の瞬間、戦慄に身を固めた。

 目の前にいた人物。それは忘れたくても忘れられなかった人。


「お、父……さん」


 自分の、実の父親。

 嘘だ。そう思った瞬間、いきなり頬に殴られた衝撃が走った。そのまま倒れこんだ場所に愕然とする。そこはコンクリートではない。昔住んでいた、ギリシャの家の床。


 ひっと息を呑んだのも束の間、自分の上に何かが圧しかかってきた。覚えのある嫌な笑い、伸びてくる手。それはセルリアに恐怖と嫌悪を与える以外の何ものでもない。


「い、いやぁ! やめてっ。触らないでぇ!」


 嫌だ。あの時のような思いはもう嫌だ。痛くて、苦しくて、何度も『やめて』と泣くのに止めてくれなくて。『助けて』と懇願するのに、誰も自分を救ってくれなくて。


「やだあぁぁぁ!」


 必死に手足をばたつかせて抵抗する。その瞬間、胸部に冷たい何かが入った。


「っ!?」


 鋭い衝撃と同時に、コポリと口から生温かい物が出てくる。見開いた目に、胸に突き立つ銀の光が映った。

 いつの間にか天井は夜空に変わり、倒れていた床が土に変わっている。

 父であったはずの人物は、若い男のようだった。目が霞んで、もう、見えない。


(助……けて……)


 手を伸ばすけれど、どこかで分かっていた。誰も、この手を取ってはくれない。いつも、いつも、伸ばした手は空を切るだけ。

 沈んでいく意識。冷たくなっていく身体。

 感覚が全て途切れる刹那、自分の名を呼ぶ声と、温もりを感じた気がした。

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