第17話

 セロシアは木の幹に耳を寄せ、その温もりや、微かに聞こえる水の音に耳をすませた。


(すごい。この木、すごく強い)


 その木はとても大きく、太く、そして見事なまでの緑で茂っていた。世界樹であるユグドラシルに比べれば、それは生まれる前の胎児にもならないだろうけれど。それでもセロシアはこの木がとても大きく、強く思えた。


「ここからの眺めもいいですね。今度はお弁当持ってピクニックにでも来ましょうか」


 丘の上に一本だけ立つ大きな木の下。セロシアは隣に立つヘイムダルを見上げた。彼は腕を組んだまま、何の感慨もなさそうに前だけを見ている。


「ここからでも門が見えるんですか?」

「高さが違う」


 セロシアの目には遥か彼方に、豆粒ほどのヒミンビョルグが見える。確かにあれはずいぶん高い所にあるから、その奥にある門は館が邪魔をして見えないだろう。


「ロキが、いる」

「ど、どこ!?」

「ヒミンビョルグ近くの塔だ。廃棄された物があっただろう」


 あっさりと彼はそう言うが。セロシアにはあの巨大なヒミンビョルグが豆粒に見えているのだ。それよりも格段に小さい塔など、見えるわけがない。


「……行かないのか?」

「あたしが行ったら、セルリアが気を遣うと思うんで……」


 憮然としてそう吐き出す。もちろん行けるものなら今すぐ行きたい。あの裏のありそうな神様から引き離したい。けれど、セルリアを落ち着かせるために行ったというなら、それを優先したかった。

 セロシアは深呼吸をして気分を変える。


「ヘイムダル様は、一人で門番をやってますよね。強いんですか?」


 それは屋敷に行った時からの疑問だった。

 ヘイムダルは一人で門番をしている。睡眠もほとんど必要ないらしく、それこそ四六時中あそこにいる。

 出かける際は従者の誰かが代わりに立ち、何かあればすぐに彼に伝わるようになっているのだが、それでも普段は一人だ。


 今は敵が攻めてくる状況はないそうだが、何か起こらないとも限らない。危険を神々に知らせる方法もあるというが、間に合わなかったらどうするのだろう、と思っていた。


「槍を持ってますし、剣も腰に挿してますよね。だからどれぐらい戦えるのかなって」


 いつも直立不動のまま動かないから、彼の実力は分からない。


「それなりに戦える」

「それなりって、分かりにくいですよ」


 頬を膨らませて文句を垂れれば、彼は呆れたように息を吐いた。そして、言葉を捜すように空を見上げる。


「昔は戦争もしていた。だが、俺は今生きている。そういうことだ」

「そういうことだ、って言われても……」


 それがどの程度の戦争かも分からないから想像がしにくい。だが、人間達のように化学兵器のない世界だ。剣などの武術の腕と魔法を駆使していたのだろう。つまりそれは、自分の実力のはず。


「とりあえず、あたしが予想してるよりはかなり強そうですね」


 今度闇討ちでもして試してみよう、とセルリアは決めた。そしてまた木にもたれかかる。


「いいなぁ。あたしも強くなりたいんですよね。どうやったらなれますかね? やっぱり修行に修行を重ねてですか?」


 これでもセロシアは剣道で段持ち。空手は黒帯だ。ちょっとやそっとの相手なら何とかなっていた。

 しかし、それは人間相手での話。魔法などという不思議な力を持った者達に対抗できはしないだろう。だから、強くなりたいと思っている。

 しばらく待ってみてもヘイムダルは何も答えない。また無視されているのかと振り仰げば、銀の目がこちらを凝視していた。


「な、何ですか? い、言いたいことがあるなら早く言ってくださいよ!」

「……お前の求める強さとは何だ?」


 ただ真っ直ぐ、セロシアだけを見てヘイムダルは問いかけた。

 銀の目は鋭くて、少し気圧される。


「へ? え、あ、そりゃあ、どんな奴にも負けない強さ。力任せにこられたって、それを叩き伏せるだけの強さですよ」


 その強さがあれば、そうすれば守れる。もう二度と、あの子は泣かずにすむ。


「それは、一歩間違えれば相手を殺すことになるが?」

「そ、そうですけど……っ」

「お前はまだ、そういった覚悟を何一つしていないのだろう。その現実すら分かっていない。なら、そんな強さを求めること自体が間違っているんじゃないのか?」


 いつもより饒舌に、高圧的に言われる言葉が癪に障った。弱い、と言われているようで。


「でも、じゃあどんな強さならいいって言うんです? 確かにあたしは誰かを傷つけるとか、殺すとか、そんな覚悟全然できてませんよ! けど、相手は待ってくれないじゃないですかっ。力を振りかざしてくる奴には、どんなものであれ、それ以上の力を見せなきゃ止まらないじゃないですか! それができなかったからセルリアは……っ!」


 出かかった言葉を慌てて飲み込んだ。こんなこと、人に言うべきではない。

 ぐっと、血の味がするほど唇を噛み締めて、セロシアは負け惜しみのように言った。


「そりゃヘイムダル様は、昔っからそんな覚悟もできてて、ちゃんとした強さも手に入れてたんでしょうね……」

「いや……」


 予想外にも否定の言葉を返され、セロシアは目を見開いた。そこに映るのは、再び前を向いたヘイムダル。光に照らされている顔はいつもの無表情。だけど、その瞳だけは違う。


(寂しそう……)


 銀の瞳に、初めて感情を見た気がした。


「だから、お前に言うんだ」


 同じ失敗をしているから。昔の自分を見ているようだから。そう言いたいのだろうか。


 しかし、それでもセロシアは納得できない。力という強さがなければ後悔するのだ。力で対抗できなければ、守れないのだ。力がないから、殺されたのだ。

 どうしても、許せない。


「ヘイムダル様」


 口から出たのは、自分でも驚くほど静かな声だった。こちらを向いた顔を、睨みつけるように見上げる。


「現界……ミッドガルドへ行く許可を、ください」


 強い思いというものは簡単には止められない。セロシアはそれを知っている。

 たとえその思いが、いいものであっても、悪いものであっても。

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