Myth ~神様の従者になりまして~

詞葉

本編

プロローグ

第1話

 白い建物の壁。頭上を覆う優しい葉の緑。眩い空の蒼に、ふわりと浮かぶ白い雲。そして目の前に広がる深く、けれど澄んだ青の海。

 セルリアはこの青が大好きだった。

 ギリシャにある白亜の町並みと、見事なコントラストを生むエーゲ海の青。どんなに悲しい時でも、なぜかこの青い色を見ると落ち着いた。


 鼻をすすりながら、腫れてしまった右頬に包帯を巻いた指で触れる。突き刺さるような痛みが頬全体に広がり、顔を顰めたところでまた痛みがくる。

 知らずじんわりと浮かんでしまった涙を拭い、セルリアはもう一度頬に触れた。


 今まで何度も腫れたことのある頬。この様子だと、きっと三日ぐらいは腫れているだろう。昨日はいつもより強い力がこの頬に当たったから。

 そこまで思い出して、セルリアは首を振った。嫌なことは思い出したくない。もう終わったことだ。だったら忘れてしまえばいい。


「明日は、セロシアと一緒に来よう……」


 今は疲れ果てて眠っている双子の妹。彼女がいればこの場所はもっと明るくなる。この大好きな海が、もっと綺麗に見える。

 そんな風にまだ見ぬ明日のことを思って笑みを作った時、セルリアは後ろから声をかけられた。高めの、楽しそうな声だ。


「ねえ、隣いい?」

「え?」


 ビクリと肩を揺らして振り返れば、セルリアの目に明るい色が飛び込んできた。キラキラと空から降り注ぐ太陽のような金色。そして、たった今見ていた、目の前にあるエーゲ海のように深くて澄んだ――


(綺麗な目……)


 目と口をまん丸に開けた顔のまま振り返ったセルリアは、呆然と目の前の人物を見た。

 自分と同い年ぐらいの五、六歳の少年。あっちこっち飛び跳ねている癖毛の金髪。そしてエーゲ海と同じ色をした大きな青い目。

 セルリアが知っている少年達の中でも、特別綺麗な顔をした子だと思った。

 その目が楽しそうに細くなると、彼はこちらを指差して笑う。


「酷い顔してるね」


 にっこりという形容詞がつきそうなほど可愛い笑顔のくせに、その口から吐き出されたのは遠慮というものを知らない台詞だった。

 セルリアの大きく腫れた頬のことを言っているのだ。

 羞恥に赤くなって咄嗟に頬を隠すセルリア。けれど、彼はそんなことおかまいなしに隣に座ってくる。まだ『座ってもいい』とは言っていなかったが、気にしていないようだ。


 少年は座り心地のいい場所を探すと、もう一度セルリアをジッと見てきた。何だか逸らせなくて、セルリアも彼を見続ける。

 細められた綺麗な青い目に、『綺麗』とは少し違うものが見えたような気がした。


「君、兎みたいだね。目が真っ赤だ。今にも泣きそうだよ」


 少年が楽しそうに言う。

 実際、先程まで泣いていた。だからセルリアの目は腫れている。きっと擦ったりもしたから余計に赤いだろう。けれど指摘されて、セルリアは別のことを思った。


 頬に当てていた手を、無意識に少年の頭に伸ばす。そのまま、ぎこちなく左右に動かした。自分の記憶にはない、頭をなでてもらうという行為。

 少年の髪は思った以上に柔らかく、ふわふわしていた。気持ちのいい触り心地を感じたまま、セルリアは驚いている少年の顔を覗き込む。


「あなたの方が、泣きそうだよ……」


 妹に言うように少年に告げると、彼は目を見開いて少し笑った。

 それは、ついさっき見た『ニッコリ』の笑顔ではなく、どこか寂しそうな笑顔。

 どうしたのか、と問おうとしたけれど、少年はすぐにその笑顔を消してしまった。


「僕の目は青いけど、涙が溜まってるわけじゃないよ」


 今度はニヤッとした笑顔とからかう口調。


「そ、そんなの間違えないもん!」


 馬鹿にされたのだと思った。だから反射的に手を引っ込め頬を膨らます。しかし、その拍子にまた痛みが走り、強く押さえてしまった。頬から顔中に広がる鋭い痛みに、止まっていた涙が溢れる。


「触っちゃダメだよ」


 彼はそっとセルリアの手を握って頬から離させた。その時、少年はセルリアの指に巻かれた多くの包帯を見つけて顔を顰める。その視線に気づいて、慌てて手を後ろに隠した。


「あ、あの。これはお母さんのお手伝いをしてて、その……」

「……そっか。頑張ってるんだね」


 彼の言葉がきっかけになったのか、零れないようにと必死で止めていた雫が頬を伝う。

 突然泣き出したにもかかわらず、彼はセルリアの好きな色の目を柔らかく細めて、セルリアと同じぐらい小さな手で涙を拭ってくれる。その温もりが何だか嬉しくて、涙は次から次へと溢れてくる。


「あ、わ。うやや」


 止めようと必死になるセルリアにクスクス笑いながらも、彼は拭う手を止めたりはしない。

 本当に嬉しかった。その温もりがもったいないぐらいだった。いつもは痛みの熱と涙の熱しか知らなかったから。それ以外の温もりが、傍になかったから。


 目の前には、優しく、けれどどこか寂しそうに笑う顔。

 大好きな色と温もりを持ったその少年を、まるで絵本に描かれている天使のようだと、セルリアは思った。

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