四話「世界で一番の善人にとって世の中がどんな風に見えるのか」


 ビーチバレー施設、更衣室。

 しゃっこしゃっこしゃっこ。

 先ほどからデッキブラシで床をこする小気味よい音が響いてくる。

「ああもう! なんでわたくしが更衣室の掃除など!」

「うっさいなー。手がお留守になってるよ! 梓ちゃんの掃除エリアが一番小さいよ!」


 先日の乱闘事件は偶然見ていた生徒によって露見してしまい、ミタマ、かばね、梓、そして取り巻きの五人は、全員が罰を受ける事になってしまった。

 梓は権力にものを言わせてもみ消そうとしたのだが、理事長の、

「みんな仲良く更衣室掃除!」

 という一声で、結局こうやって掃除しているという訳だった。


 それでも本来なら停学ものの騒動という事を考えればかなり甘い判決といえる。

「梓ちゃんの領土に侵入!」

 ミタマがデッキブラシにたっぷりと水を含ませ、まだ乾いている床にブラシの跡を残していく。ジャージの裾と袖をめくりあげ、元気よく一気に駆け抜ける。


「ああっ、ちょっと! そこはわたくしが割り当てられた場所ですわ! 自分で責任もってやるから手を出さないで!」

「のろのろやってるのが悪いんだよ。領土拡大! 呪術科コンビの方が領土大きいもんね」

 お互いにブラシで領土の線を引いて牽制しあう。

「かばねちゃん! 今のうちに後ろから梓ちゃんの領土を奪うんだ!」

「う、うん。えいっ」

「ああーっ、もう! そっちの五人も見てないで手伝いなさいよ!」

 後ろからそっと侵食してくるかばねを睨んで追い返しながら、更衣室の隅でさっきから同じ所ばかりブラシでこすっている五人に呼びかける。


「え……でも……」

 取り巻き達はちらちらとミタマを横目でうかがい見る。

 すっかり呪いコンビを……というよりミタマを恐れてしまっているようだった。

「まったくどいつもこいつも! このエリアはエースクラスの特上ロッカーエリア! クリス様とわたくしの領土はあなた達なんぞに侵略させませんわ!」

 梓は意地を見せ、二人相手に奮闘して領土の線を死守する。さすがの運動量で特上ロッカー前を往復し、見る間に乾いた床を塗り消していく。

「ぐぬ。やるな……こうなったら決戦兵器投入!」

 ミタマがバケツの水を床にぶちまけた。


 流れた水がお互いの領土の線もあいまいにしてしまう。

「なんか色々台無しに! こうなったらホースによる放水で……!」

「そっちがその気ならこっちだって放水で直接攻撃してやるもんね」

 二人の争いはどんどんエスカレートしていく。


 ぎゃーぎゃー大騒ぎしながら水をぶち撒けていると、更衣室のドアがガラッと開き、

「騒がない! 何をやっているの!」

 顧問の通称秘書メガネだ。

 鋭角のメガネ、きっちりとおでこを露出し結い上げた髪、ボタンを外した胸元、タイトなスカートにヒール。彼女は、この教師がエロいランキングで常に上位にランクインしている。

 その秘書メガネが見たものは、ロッカーの位置をずらしてバリケードを築き、ホースで放水しあうびしょ濡れのミタマと梓の姿。お互いのロッカーに釘や手裏剣が刺さっている。

 ミタマと梓はなぜか白いカッターシャツ一枚だ。


「あなた達……一体何をやっているのかしら……?」

「えっと……相手のカッターシャツに水をかけて透け透けにしたら勝ちというゲームを……」

 二人とも、下はかろうじてパンツを履いているようだが、上は素肌の上にカッターシャツ一枚。しかもどちらが勝ちかわからないくらいずぶ濡れになり地肌がほとんど透けている。

「で、どっちが勝ちなの? この状況は」

「それが……途中でわからなくなってしまいまして。負けを認めた方が負けというルールに変更になりました……」

「護宝院さん、あなたまで……」

「せんせー! 梓ちゃんは水着でもパットで胸を盛っていた事実が発覚しました」

「ちょっ……! 余計な事を!」


 秘書メガネは嘆息して眉間を指でもむ。

「あんた達は小学生か!」

「せんせー! 小学生で透け透けゲームやってたらもっと倫理的にまずいと思います!」

 ミタマの余計な一言で秘書メガネの小言がさらに長引いたのは言うまでもなかった。


 

  ○        ○        ○



 結局ミタマと梓、おまけにかばねは、更衣室の掃除にプラスして二階の部室掃除まで命じられてしまった。


 荷物は一階のロッカールームに入れるため、二階の部室はミーティング兼、休憩室くらいにしか使われていない。

 スチール製のロッカーが数個とテーブル、椅子がいくつか。

 テーブルの上にはティーポットとお茶請けが置いてある。

 ミタマ達は全力で掃除を片付け、椅子に座ってテーブルに突っ伏していた。


「やっと終わった……」

「なんでわたくしまで……こんな姿、絶対にクリス様には見せられませんわ」

 同じようにテーブルに突っ伏していた梓が、ハッとして顔を上げた。

「言っとくけど! あんた達と馴れ合うつもりはないからね! わたくしは今でもあんた達がクリス様にとって有害な存在だと思ってるから!」


 ミタマは頬でテーブルのひんやりした感触を楽しみながらたずねてみた。

「梓ちゃんはなんでクリスちゃんの事、様付けなの?」

「それは……クリス様の才能を尊敬しているからよ! 運動神経、美しさ、魔法の才能……誰もクリス様には及ばない。それだけなら憧れはしてもここまで尊敬しないかもしれないけど。何より、クリス様は他人のために無償で奉仕できる心の優しい方なの。何の見返りも求めず、自分が汚れる事もいとわずに奉仕活動をなさるクリス様のお姿には頭が下がりますわ」

「ふーん。ドMなのかな」

「違う! クリス様は本当に心が優しい清らかなお方なの! でも、考えた事ある? 世界で一番の善人にとって、世の中がどんな風に見えるのか」

「そりゃ、バラ色のお花畑なんじゃない?」

「違うわ……逆だと思う。だって自分が当たり前のように行なっている善行が他人には出来ないのよ。世界で一番善人って事は、周りの人はみんな自分より悪人って事じゃない?」


 話に興味をもったかばねが割り込む。

「でも……本当に善人なら、他人の未熟な面も含めて尊く思えるんじゃないでしょうか? わたしには想像つかないけど……」

「そうなのよね……実際、クリス様は自分の敵のためにでも祈る事が出来るお方。でもクリス様はまだまだ若く、歳相応に心も脆いのよ。自分が特別だと思えるほど傲慢にもなれず、自分と他人の違いなんてたいした事ないと思えるほど達観しているわけでもなく。自分と他人の価値観のギャップに悩んでおられるの。時々異様なほどネガティブになるのはそのギャップが心のキャパシティを超えてしまうからなのよ。なんとかしてあげたいけど……」

 テーブルに額をつけたまま梓はぽつりと言う。


 ミタマはテーブルから顔を上げた。

「そっか。梓ちゃんは本気でクリスちゃんの事を心配してるんだね」

「そ、そりゃ、まあ……」

「よし、じゃあクリスちゃん家に遊びに行ってみる!」

 脈絡のないミタマの提案にクリスが目を白黒させる。

「はあ? なんでそうなるのよ! っていうかあんた達がクリス様にかかわったら絶対悪影響があるに決まってんでしょ! だから遠ざけたいってのに!」

「そんな事ないよ! クリスちゃんに悩みがあるなら直接話を聞くのが一番てっとり早いじゃん。他人が遠くで心配しててもしょうがないしさ」

「そうだけど! あんた達は余計な事しなくていいから!」

「やだ! 遊びにいく!」

「ダメよ! 絶対に妨害してやる!」


 再びケンカに発展しそうな二人の横で、かばねはおろおろするばかり。

「この二人……仲がいいのか悪いのか……とにかくまた先生に見つかったら掃除増えるから、ケンカはしないでね……」

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