15 『息を殺す』
じきに幾つかの足音を連れて、ナタリアとガウスの声色を出す何者かの気配は近寄ってくる。
それも当然だろう。近付く何者かのうち一人は、有栖の居場所を文字通り何となく感知できるのだ。
『大罪』を背負う者は、胸部への圧迫感で他の大罪所持者の存在を感覚できる。
だからこそ、その歩みは淀みなく有栖の元へと辿り着く。
有栖の視界に、二人の人影が現れる。
一人は、寒色の長髪を切らずに膝まで伸ばした少女だ。齢は十、おおよそ有栖と同年齢だと思われる。
外見は整っていると言える。髪の隙間からしか窺えないが、目鼻立ちしているのは容易に認められた。無論、有栖には劣るが。
服については、簡素で安っぽい白色の服を
歩き方が危なげで、加えて無造作だ。
その割に少女は無表情で、容貌と服装の所感も相まってまるで人形のようだった。
もう一人は赤髪の男だ。ダンジョンとは不似合いな白衣をここでも身に纏い、口を不機嫌そうに結んでいる。
二人はいずれも、ナタリアでもガウスでもないのは見た通りだった。
やはりナタリア等の呼び掛けは罠、四ノ目機関はここにいないようである。
──クソったれ、訳が分からねぇ……何で俺、隠れてんだ。何で今、あの野郎がここに来るんだよ……!?
そう、有栖は現状身を隠していた。
何故かと問われれば、小動物特有の勘、という奴だろう。
本能的に危険を察知して、泰然とした仁王立ちから一転──壁際と床の間の小さな窪みに身体を丸めて収まっているのだ。
もう一つの理由としては、
「(オレの本心は兎も角、アリス・エヴァンズを見逃す故も無し。処分は免れるとしても、『強欲』の支配下に置く他無いか……実に惜しい。……オレが間に合わぬとはとはな。だが
などという追跡者の男の思考を、ちらりと心眼で認めたからである。
薄々勘付いていた「あの二人が、有栖を善意で捜しに来た連中ではないこと」が証明されたが、それで恐怖心が晴れる訳もない。
物騒極まりない相手とは顔を合わせないが吉だった。
無論、やるなら咄嗟でも本気で隠れる。
神の子が無様に隠れていた、ということが露見すれば名声と誇りは地に堕ちる。
先ほどの男の心境を鑑みると、命が落ちる確率の方が大きそうだが。
足りない頭でも、最善の、見つからない場所を選択したつもりだった。
岩の光源と光源のちょうど影に当たる場所であるのも一因だが、穴は意外にも深く、普通に見渡すだけでは発見されづらい。
流石に注視されれば無理だが、それでもこれ以上の隠れ場所は思い当たらなかった。
胸部の圧迫さえなければ、脱兎の如く逃げ出す選択肢もあったろうが……体力と消費の問題で不可能だったのである。
──結果として、息を殺して待っていた。
何故狙われているのか解らない不穏さに、苛まれながら。
「アリス様! いらっしゃらないのですか!」
「アリス様!」
近場で女性と男性の声が張り上げられた。
耳朶を強く打つ大声は、やはりナタリア、ガウスの物と同様にしか思えない。
だが慎重に覗いた有栖には判る──その二種類の声音が、無表情の少女が発したモノであると。
……あいつのスキルか。クソったれ、小癪な真似しやがって。
舌打ちしたい気を抑えて、しかしいよいよ根本的な疑問が鎌首をもたげる。
すなわち『何故彼らは、有栖を騙して誘き出そうとしているのか』ということ。
伊達や酔狂での所業とは思えず、きっと何らかの目的があるのは確実だろう。
それが有栖が偶然聞いた、あの男の言葉に繋がっているのかもしれない。
──心眼使うか……いや、今は駄目だ。つか、早く行ってくれよクソったれが!
逡巡している間に、ちょうど足を止めた二人が辺りを見渡し始めた。
頭を浮かせて様子見していた有栖は、慌てるあまり叩きつけるように穴の中へ首を引っ込める。
二人組がこのまま通り過ぎる、と楽観してはいなかったが──それでも心の奥底では油断をしていたのだろう。意外なほどに驚いてしまっていた。
ばくばくと、心音が鼓膜を振動させる。
意識して深呼吸しながら、呼吸音を抑えようと大口を開けてじっと待つ。
自らに動揺するなと暗示のように脳内で何度も唱える。が、効果はまるでない。
一瞬、白衣の男と目が合った気がした。
それが錯覚か否か、それは周囲を窺えない有栖には判断のしようもない。
たとえば彼らが、こうして底知れない恐怖感に身体を震わせる有栖の存在に気付いていて、今穴の上から見下しているのかもしれない。
たとえば彼らが、本当に有栖の存在について気付いていないのかも──視界が穴中の暗黒に支配された有栖には知る由がない。
いっそ瞼を下ろすと、異常なほど聴覚と嗅覚が鋭敏になる感覚がする。
つんとする冷気は更に温度を下げ、足底が砂と擦れる音も喧しいと思えた。
少女の小さな呼気でさえも、捜索する二人に聞こえるようで恐ろしい。
ただただ、不安で心臓が潰されるようだ。
「ふむ……」
数秒続いた重苦しい静寂を破ったのは、男の低音の唸りだった。
この間にきっと辺りを見回したりして、有栖の姿を捜していたのだろう。
しかし想定外にも有栖の姿が一向に見つからず、少なからず痺れを切らし始めた、といったところか。
早く行け、行けよぉ、クソっ……!
罵倒なのやら懇願なのやら分からない心中の呟きは、混濁した有栖の脳内を的確に示していた。
ざり、ざり、と音が近付く。
または離れるを繰り返す。
凹凸だらけの地面を踏み付け、彷徨くように行き来しているのだろう。
細かな動きは耳で、大まかな動きは胸部の『圧』でそれこそ感知器のように解せる。
近付く。
近付く。
離れて、数秒立ち止まって、また近付き。
まるで不規則な足取りは、終ぞ確信を持ったかのように近寄ってきた。
跳ね上がる鼓動を抑えつけるが如く『圧』は酷く強く。
締め付けるような圧迫感は、もはや心臓の動きすらも──
息が、止まる。
「…………『感知』が示すのは此の辺りだろうが。見当たらぬ、アリス・エヴァンズは下層であろうな」
おそらくは、黒を滴らせたような濁った赤髪の男──メフィレス・マタルデカイトが嗄れた声で呟いた。
落胆の色が強いそれとともに、徐々に大きさを増していた足音が、遠ざかっていく。
きっとメフィレスは踵を返してまた別の場所へと──多分ダンジョンの下層へと──向かったのだろう。
臓器への圧は瞬く間に退いていき、暫し後には完全に消失した。
た、助かった……のか?
日頃の外面の成果と言うべきか。
まさか有栖とあろう高貴な方が、汚らしい地面に装束を付けるのも厭わず隠れるなどと思わなかったのかも知れない。
普段温厚ながら、威厳と少しの自身過剰ぶりな少女が穴に引き籠るなどと誰が想像するだろうか。
神の子アピールは無駄ではなかった可能性が微粒子レベルで存在する……?
だが未だ安心する訳にはいかない。
ホラー物では定番の『窮地を脱したと見せ掛けて……』という奴があるかもしれない。
メフィレスが去ったのが確定だったとしても、あの少女が、ということもあるのだ。
古典的だが、だからこそあり得る。有栖も何度その手法でしてやられたものか。
某時計塔のシリーズは二度とやらねぇ、とは有栖の言。
しかし穴に籠ったまま、安全確認など出来るはずがない。
このまま永遠に穴の中で、ホラーイベント回避し続けるなどということは不可能だ。
いくら有栖が鶏肉野郎であっても、腹を括る他なかった。
億劫ながら、穴から這い出る。
──いない、か。大丈夫っぽいな。
素早く見渡して、人っ子一人いないことを確認すると、ようやく溜息をした。
空気を吸って吐くことが、こうも安心感で胸を満たせられるのだと実感する。
そうして次に。
「……で、俺はどうすりゃ良いんだよ……」
途方に暮れて、有栖は声を吐いた息に乗せて独りごちた。
……――……――……――……――……
進展はない。
無理にでも言うのであれば、自分を救助してくれるはずのミリス王国の者からも狙われていることが判明した、というだけだ。
味方は誰一人いない。
望みは絶たれていた。
勿論、メフィレスと少女の二人組以外のミリス側の人間──たとえば四ノ目機関やジルコニア──が有栖に害意があるとは考え難い。幾度と彼らを心眼で映してみたことがあるが、彼らのダイス教に関する、ひいては有栖への忠誠心は狂信的ですらあった。
罷り間違ってでも有栖に敵対することはないはずだ。
有栖が神の子という虚妄を演出している限り。
──ならば、もしも。
もしも、知られていたならば? 有栖が単なる虚弱で無力な穀潰しだと知られてしまった結果、こう追われているのではないか?
ヘマをした覚えはないが、何処かで違和感を感じられたのかもしれない。もしくは直接、神との対話魔具で真実を聞かされたのかもしれない。
あらゆる推測が頭を過って消えていく。
情報が少なすぎて、何も確定できないからこそ落ち着かない。不安だ。怖い。
加えて、楽観から安易に立てた「救助を待つ」選択肢が霧散した。
本物の四ノ目機関が来る可能性は薄い。ミリスの一応重鎮であるメフィレスが堂々と、ナタリア等に成りすます怪しい少女を連れ歩いているのだ。更にメフィレスの思考から、このダンジョンの存在は秘匿されるべきもの、と読み取ることができる。
きっと四ノ目機関には言い含められているだろう。救いはないのだった。
詰まる所、振り出しに戻った訳だ。
いや指針すら消失した今、マイナスまで後退したと言えよう。
「……とにかく、何とかして……こっから出ねぇと」
行き詰まりと不安からか、堪え切れずに口に出してしまう。
取り敢えず、何時までも此処にいてられない。出入り口を探さねばならない。
だが有栖が転落してきたサルガッソ宮殿に通ずる穴は上ることが出来ないのは確認済みだ。
つまり、また別の脱出口を発見せねばならないのである。
有栖は考え込みながら、仕方なく道を奥へと進み出した。
そもそも出入り口が一箇所以外にある、というのは単なる淡い期待、希望的な想像に他ならない。
しかしそれを探す他に道があるか、と言えば思い当たらない。
やるしかないのだ。
──俺はもう誰の力もいらねぇぐらい成長したんだからな。
その時だった。
そう、有栖が通り掛かった脇道を無視して直進しようとした際だった。
壁のように、巨大な影が脇道にあるのに気が付いた。
何事かと横目で確認した瞬間。
思わず、瞠目した。
──
──筋骨隆々という事ではなく、分厚い脂肪を蓄えたでっぷりとした肉体。
──灰色の皮膚はそれが人間ではないことを強調しており、纏っているのは腰に巻かれた布切れのみ。
右手に握られているのは、何処で手に入れたのか不恰好な石の棍棒。
──闇に濡れたそれの顔は醜悪な豚を思わせる。
額の油でてらてらと青白い光を照り返していた。
そして。
それの白濁した双眸が、固まった有栖の姿を捉えると。
特徴的な鼻に隠れた口が、にたりと、歪んだ、気がした。
「オー……ク……?」
その震えた声に応えるのは、そのモンスターのこちらへと踏み出す一歩だった。
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