いつつ
西の対は調度も満足には置かれておらず、年頃の娘のすまいにしては、いささか殺風景だった。わずかに垣間見える品の数々も、
常々、屋敷中を飛び回っている侍従烏の姿は見えない。
「瞠さまが探しておられた暦……記録を、わたくし、隠しておりました」
「……は?」
ほうけたように声を取り落すと、七宮は淡々と、しかしてどこかさみしげに語り口をひらいた。
「わたくしの生まれは、お父様が臣下の妻を奪ってのことなのだそうです。ゆえ、そもそものこと産み落とされるその以前より、わたくしは家中でも疎まれた身でした。ですから由姫さまが西領にお嫁にいらして、そのお手元に引き取られてからずっと……血縁はなくとも、恐れ多くも、わたくしはあの方を母と思って慕っておりました」
続けながら、七宮は長持の蓋を開く。そこにあらわされた紋は森の広がる東領の、稔招ける霊狐の稲穂紋。そして由姫の女紋。譲られでも、したのだろうか。
「由姫さまは確かに焼畑の記録を損なって、故郷東領の稔りを廃そうとされたのだと思います。なにゆえそうしたのか、わたくしにはわかりません。そのようなことをしていたと、由姫さま自身からはっきりと告げられたこともありませんでしたもの」
……その瞬間、まるで脳裏で算盤がざんと弾かれたかのように、瞠には感じられた。あるいは混沌として敗戦必至の盤上に、一縷の王手が燦然と閃いたかのようだった。瞠には、そうした理由がわかってしまった。口元を引き結び、無意識のうちに膝の上でこぶしを握る。
幾度も彼が呪いのようだと評した通り、賢い四宮由姫は、東領を呪っていったのである。
家の力を、領の豊穣ごと削いだのである。彼女は縁を切り捨てた。己が故国を損なった。守るべき民を選ばずに、実家の威信を選ばずに、ただ世にあかされぬ我が子を選んだのだ。彼女は――母は。
「ですけれども、交わしたお文や、聞かせてくださる東領の話に垣間見た不自然さや……とにかく由姫様と焼畑が関わった時に違和を感じる事は多かったので、以前よりなにごとか、稔りに手を加えようとしているのではと考えておりましたの。ゆえ、境の坂井に参じた折に妹君さまにも尋ねてみて。そうしたらかつてこの地に立ち寄られた折、稔りに害為す意思があって、なにやら行動はされていたようだと聞いたのです」
長持からいくつかの衣を出す手を休め、七宮は一呼吸をおいた。並べられた着物は年若い姫君のものにしては、真新しい品があまりに少ない。
「母と慕った由姫様の、知らずにいた恐ろしさを垣間見た気がしました。気が抜けて、泣いて、心細くて、ただひとりがこわかった。そうしたら瞠さま。あなたがここに、いらしたのよ」
「私が?」
「ええ、あなたが。はじめて、おなじ獣返りの方に会ったわ。それだけで、うれしかった」
そうわずかに微笑む七宮と彼女の手を、瞠はただ視線も動かせずに見つめる。
「……お会いした時、あなたはそう弱っているようには見えなかったが」
「だって東領の主筋の御子様方は、どなたもわたくしより年下だもの。この角が成長しきるために、本来ならば体へゆきわたるべき養分が奪われていたのでしょうね、こんな幼いなりでも、数えでもう十七。きちんと姉君らしく振舞いたかったわ」
――それでもわたくしがその後にとりかかったのは、あなたの求めた焼畑の記録を、こうして隠すことでしたけれども。
その横顔はいたましくも、まことの
七宮はどこか
手をのばして中を改める。間違いなかった。けれどもどうしても、目の前に座す人がいまにも崩れ落ちてしまうのではないかと気が騒いで。彼は記録書を手にせども、その場から立ち上がることが出来なかった。
七宮も七宮で、いままで随分と感情をはりつめていたのかもしれない。ぽつりぽつりと、取り落とす声がとまる気配はない。
「由姫様の呪いを知っても、それを止めようとの気力なんてなかった。むしろわたくしはその呪いを確固たるものにしようとすらして、書物を隠しました。だって由姫様がわたくしの妹を産んだ頃……あの頃に角に枝葉が芽吹きだしたのを機に、わたくしの出自を疎んじていたお父様は、慶事の賑わいに乗じてわたくしを廃嫡と処していましたから。西領の
獣返りを、異形と厭う。そのおぼえは、瞠にもあった。
「枝が伸び葉が落ち異形が雄鹿の角の形となって、獣返りということが瞭然のものになってしまっては、もはや取り戻せるような居場所などわずかで。なにせここまで顕著にあらわれれば、古い聖性の形とはいえ今の世では乱れさえ招きますもの。ゆえに、由姫さまが弟を産んだ床で儚くなられてのちは、わたくしもすぐに父より坂井入りを命じられました。……夜陰に乗じての密かな旅路でした。いつか憧れた、嫁入り行列などとは無縁の道程。けれどそれでも、もうよかった。なにせその時わたくしのてのひらには大切だと思えるものはもはや、思い出の抜け殻しか残っていなかったのですから」
「七宮どの」
こぶしを握った瞠は、うつむきがちに視線を落とす七宮の顔を覗こうとした。どうにか、彼女の顔を直に確かめなければと思った。その
「いつのまにか角を飾るは、枝葉の青から黄の花となっていました。
そして覚悟を決めたように、七宮は面をあげる。
交差した視線のつよさに、むしろ瞠の方が戸惑った。
「でも。瞠さま。わたくしあなたとともに暮らして、人に
「嬉し、かった?」
瞠には彼女の告白をうまく理解できなかった。あんな、純粋なだけではない、苛立つばかりだった不甲斐ない言葉の数々を喜んで。曖昧で脆い不明瞭な理由で、彼女は暦を隠したのか。
「そんなことで、あなたは――」
呆然とこぼすと、七宮はいたましく笑う。
……そういえばこの人は、悲しそうな時も嬉しそうな時もそれ以外の時も、ただただ口元を笑みの形にかたどるなと、不意に彼は気づいた。
「そんなことでも。それでもわたくしには、生涯で一番しあわせな時間だったのです。なにに代えても、なにを負っても、ひとつも惜しくはないほどに。謝罪はできませぬ。たとえ瞠さまだとしても。……だってこんなことになっても、どうしてでしょう。かけらも悔いてはいないのですから」
言葉は奇妙なほどに力強くとも、またも形作られた笑みの奥には泣き出しそうな風情が察せられた。隠していた書のすべてをその手に抱え集めた彼女は、暦を、瞠へ手渡した。
「お持ちください、瞠さま。わたくしたちの祈りは所詮、呪いだったのです。ほんとうに叶っては、ならなかったのですから」
その腕の中に託された書の重みに、瞠はなんの言葉も紡げぬまま、ぎゅっと口元を引き結んで。しばしの沈黙ののちに、彼は西の対から
かくて境の鐘は、鳴る。東領から人を呼ばう為、六度、たからかに音を響かせた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます