そして僕は橋になる

あおい

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第00話


■00■

 玄関扉に付けられた天使が揺れ、鈴の音が小さく響く。

 夕方が訪れる、少し前の時間帯。

 古くて安普請なコーポの一部屋から、女が出て来た。

 軽い扉を乱暴な動作で閉めた後、今付き合っている男が運転して来た一台の車に乗り込む。白いセダンの扉が、音をたてて閉められた。それからすぐ、車はアクセルを吹かせて出発する。



 部屋の中には、ふたりの子供が残された。

 小学五年生の兄・門倉真尋 かどくらまひろと、二年生の妹・瑛凛 えり


 ふたりは母親が出て行った扉を数秒間、無言で見つめる。

 そして、車の出発した音を確認してから。


「やったぁぁ! バンザーイ!」と叫んで飛び跳ね、喜んだ。


 頬を染め、笑い合うふたりの瞳には涙が浮かんでいる。ほろり、と一雫、零れ落ちた後。

 ふたりは抱き合って、わんわんと泣いた。


「もうこれでお兄ちゃんがあたしの代わりに、殴られる事も無くなるんだよね」


 真尋は泣き崩れた笑顔のまま、二度も三度も頷く。


「タバコで熱い思いをするのも、夜中に外へ追い出されるのも、お湯をかけられるのも、無くなるんだよねっ」


 コクコク、と何度も頷く。


「今までごめんね、お兄ちゃん……ごめんなさい……っ」


 真尋は首を横に振り、瑛凛の小さい身体を抱きしめた。


 言葉が、出ない。そんな事言わなくていいんだよ、と言ってあげたいのだけれど、思いが溢れ、喉に詰まって出てこない。

 実際、瑛凛が居なくても、真尋は産まれた時からそのように扱われて来た。決して、この妹のせいなんかではないのだ。


 母親は、あの女は――子供を勝手に産み、自分の言う事を聞かないからと言って、夜中に泣くからと言って、生まれたばかりの瑛凛を虐待した。瑛凛が産まれる前からずうっと、真尋も虐待されて来た。


 自分と同じように、無抵抗で虐げられる小さな存在を、かばわずに居られるわけがない。

 殴られ、蹴られ、罵られ、でも手放してはもらえない自分達。あの女は〈補助金〉とか言う金を目当てに、自分達を産んだのだ。


 愛されもしない、必要でもない自分達。女の機嫌次第でサンドバッグにされて来た自分達。

 でも、もう。


 新しい男が出来て、あの女は出て行った。これからは瑛凛とふたりで暮らせる。


「瑛凛……明日さ、久しぶり、に」


 声が震えて、呼吸が乱れる。


「うん?」


「ホットケーキ、焼こ……あいつが出てった、お祝い」


 そう言うだけで、精一杯だ。息が苦しくて、酸素が足りなくて、でも、嬉しくて。一生懸命そう告げた。

 瑛凛は明るく微笑んで「うん!」と言い、真尋の胸に顔を押し付けて来る。

 それからまたしばらく、会話を交わす事も無く、ふたりで泣いた。笑いながら、泣いた。



 親、と言う存在が居なくなり、これからどうなってしまうのかは分からない。

 金が無ければ生活なんて出来はしないし、補助金とか言うものをあの女が手放すわけは無く、自分達がもらえるわけもない。


 これから先の生活の事は、なぁんにも分からない。

 でも、不安なんてなかった。


 ここでこのまま、金も無く、誰にも助けてもらえず、家賃も払えず追い出され、路上で餓死してしまうのかも知れないし、施設へ入れられてしまうのかも知れない。


 まだ子供の真尋には何も分からなかったが、それでも幸せだった。

 あの女から解放されただけで、こんなにも幸せだ。

 これから瑛凛とふたりなら、きっとどうにかなるし、頑張れる。そんな気がする。

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