偏食吸血鬼と一般人な花嫁さん

酉茶屋

■□棺と呼ばれる少女

■一章 01・屋上の待ち人

 


■□一章



 気が付けば、すでに辺りは暗くなり始めていた。昼頃から降り始めた雨は、未だ静かに布を引くような音を立て続ける。

 利用客の多い駅の近くに建つ雑居ビル。帰宅途中の会社員達が、傘を片手に一階のコンビニへと向う。

 故に、忙しなく行き交う人々はきっと、そのビルの屋上に女が一人座っているなど思いもしない。ヒールを脱いだ足を外へ放り出し、今にも落ちそうな状態でいる女を。


 四月の初めの冷たい雨は、容赦なく体温を奪う。体に打ち付ける雨粒など気にすることもなく、女はただぼんやりと何処かを見つめていた。

 何を思ったのか。女は自分の左手を見つめる、薬指にはシンプルなシルバーリングがはまっていた。


 ――ああ、そうだ。もうこの指輪は無意味だった。


 ゆっくりとその指輪を抜くと手のひらに乗せた。傾ければ見える文字、リングの内側に彫られた二つのイニシャル。

 瞬きを一度すると、女は指輪の乗った手のひらを裏返した。指輪は、重力に逆らうことなく真っ直ぐに地面へ向かう。


 それを最後まで見届けることなく、女はふらりと立ち上がった。

 駅の時計塔が、時報の鐘を響かせる。後ろを振り向く、屋上の扉が開く様子はない。女は肩を震わせ、笑った。やはり来なかったのだと、泣きながら。


 全ての準備は出来ている、証拠も残した。足元に置いた茶色い鞄を見やる。例え自分が戻らなくても、誰かが必ずこれを見つけると信じて。これからあの男が慌てふためくであろう姿を想像すれば、いくばかりか溜飲も下がるというものだ。

 さあ、今、一歩踏み出そう。そうすれば全て終わる。

 幸せだった思い出も、辛かった記憶と共に。あっさりと他所の女に鞍替えしたあの憎い男のことも。そう、憎い憎い憎い。


 そうだ、死んだら化けて出てやろう。他の女の情事の最中に出てやれば、あの男はどんな顔をするのだろうか。

 愉悦に満ちた表情でニタリと嗤う。

 そして女は足を動かした――。



「そこから落ちても、貴女は何も出来ませんよ」



 聞こえてきたのは低い男の声。少しだけ雨音にかき消されたが、しかしはっきりと言われた言葉に、女はその動きを止めた。

 そうだ、彼は来てくれたん“だった”。

 勢いよくふり返れば、そこにいたのは待ち焦がれていた人――ではなく、雨の中傘もささずに立つ男ともう一人、レインコートを着た女がいた。


 どちらも知らない顔だった。二人とも二十代半ばと言ったところだろうか。

 女は自分と同じぐらいの気がした。肩の辺りで切った髪は、落ち着いた色合いの茶に染めているし。今は少し落ち着かない様子の瞳で、けれど怯えたような表情はあまり出ていない。もしかしたら、顔に表情を出さない職種なのだろうか? 自分と同じ接客業か、それとも単に度胸があるのか。

 逆に男は地味だった。目の前にいると言うのに、恐ろしいほど印象が薄い。けれどよく見れば、目鼻立ちは整っているし、見目はいい部類だ。雨のせいなのか? しっとりとした黒髪は異様なほど艶があった。自分と同じように雨に濡れるのも構わずに立つ男の服は、すでに水を吸って重そうだ。



「そこから落ちて、貴女は何も出来なかったんです」



 諭すような口調で、けれど断言するように男は言う。

 まるでもう、自分が落ちた後を知っているかのような言葉で。


 男が一度、レインコートの女を見た。するとレインコートの女は、透明なビニール袋に入れられた茶色い鞄を前へと出した。少し汚れてはいるが、何処かで見たことのある鞄だ。

 はっとして足元を見る。そこにはもう、在るはずの鞄がなかった。睨むように二人を見れば、女の方は怯んだように一歩、後ろへ下がる。



「どうしてそれを、あなた達が持っているの?」

「これは、片岡詩織さん。貴女が落としたんですよ。“ご自分と一緒に”」

「わ、私と一緒に、落ちた……?」



 落ちただなんて、嘘だ。だって今、自分は落ちようとして、ここに立っているのだから。そんな訳がない。そうだ。だってもし落ちていると言うのならば、ここにいる自分は一体何だというのだ?

 いや、待て。ならなんで、さっき彼が一度ここへ来たように思った。後ろから声をかけられたとき、誰が来たのか断定するように“過去形”で思い浮かんだ? 途端、頭の中にフラッシュバックのように光景が浮かび上がる。


 ――そうだ、思い出した。あの男は来たのだ、ここへ。自分を始末するために。今と同じように自分は待っていた、そして彼は来たのだ。上辺だけの謝罪と、自己弁護の言葉と共に。

 最後まで全て聞くはずだった。それを最後まで聞く前に、突如男が両腕を前へ突き出したのだ。後は簡単な事だ。



『大人しく泣き寝入りしてりゃあよかったのによ』



 そんな男の言葉と共に、あっけないほど簡単に、体は宙へ舞った。

 不思議に思ったのは、男は突き落としたくせに、自分へ手を伸ばした事だ。あれは、一緒に落ちる鞄を取ろうとしての行動だったのか。そう、ストンと納得できた。



「貴女にとって不運だったのは、この鞄が離れたところへ落ちてしまった事です。途中の階にあったエアコンの室外機と看板。それらに当たって、鞄は大きく離れてしまった。さらにその鞄を、付近に持ち主がいないと判断し、この騒ぎに乗じ盗ってしまった人物がいました」

「……彼ではないというの?」



 あの男の事だ、事件から自分との関係が明るみになることを恐れ、持っていってもおかしくはない。

 肯定するように、男は一度頷いた。



「近くの河川敷に住んでいるホームレスの方でした。騒ぎがあったのは気付いていたそうですが、まさかそれが飛び降りで――この鞄がその飛び降りた人のものだと思わなかったそうです。あの時はやじ馬が多く、人の壁が出来ていたそうですから」



 鞄の中のものを全て集めるのに苦労しました。そう男は続けた。



「この鞄を探してほしい。そう僕に依頼してきたのは、貴女のご両親です。お嬢さんが大変気に入っていたという、この鞄を」

「おとうさんと、おかあさんが……」

「最期まで使っていた鞄を、貴女のもとへ返したいと」



 二人はまだ、覚えていたというのか? 結婚式当日に、新郎に逃げられた私を。あの後、何も言わなかった両親は、てっきり自分を見放したのだと思った。恥さらしな娘だと、そう思って。

 新郎と、新郎の招待客が誰もいない教会。ウエディングドレスを着た自分の前で、父と母が床に額をつけながら招待客に謝る姿。

 そんな両親に申し訳なくて、俯いてドレスのスカートを掴む事しか出来ない自分が情けなくて――。



「貴女の死を悲しみ、悼む方はいます。ここで雨や風に打たれるのをやめて、ご両親に最期の挨拶をして、逝かれたらどうでしょうか?」

「今さらいって……なんになるのよ……」



 彼は来たのだ。どんな理由であれ、この場所に。いつまでも留まる理由いいわけはもうない。けれど、今さら戻ったところで何も変わらないのだ。

 きっと両親は、自分がいなくても変わらない生活を送っているはずだから。死んだ人間に、いつまでも拘っているはずがない。



「今さらとか、そんな事言わないでください」



 今まで沈黙していた女が、口を開いた。



「家族が一人いなくなったんですよ。悲しいじゃないですか、つらいじゃないですか。あなたが楽しい時も苦しい時も、全部見ているんです。大切に、大切に育ててきた自分の子供ですよ。何も感じない訳ないじゃないですか」



 下がっていた体を前へと動かす。一歩ずつ、女は近づいてくる。



「私、一人暮らしをして分かりました。今までは気が付かなかったけど、凄く部屋が広いんです。家族が一緒にいた時は全然感じなかったけど。初めての時は、とても寂しかったし……それに、ちょっぴり怖かったです。いつもいた人達がいないことに」



 照れるような顔でゆっくりと詩織へ手を伸ばす女の姿に、隣の男が咎めるような視線を向けた。

 きっと、この手を握ってしまえば楽になる。そんな気がした。けど、その手が出せない。分かっているのに、掴めない。

 腕が引っ張られる感触に、驚いて詩織は手を見た。そこには、詩織の手を握る女の姿があった。どうしてだろう、この手がこんなにも温かく感じるのは。



「帰りましょう、家族のもとに」



 そう言って、ニコリと笑う。ああ、やっぱりそうだと詩織は思った。彼女は笑うと人懐っこい表情だろうなと、なんとなく感じていた。



「……その鞄は、どうなるの?」

「僕の知り合いに警察の方がいます。一度そちらに預けた後、貴女のご両親のところへお返しすることになります。僕は専門家ではないので、はっきりとした事はいえませんが、彼は刑事罰を受ける事になるでしょう」



 少なくとも、彼は詩織を殺したのだ。それに他の人間にも詐欺行為を働いていた可能性は高い。きっと叩けば埃は出る、それも大量に。



「刑事罰がどんなものになるかは、裁判次第でしょうが」

「そう……」



 もう、自分がここにいる意味もなくなった。どんな形であれ、彼は罰を受けるのだ。そう思うと、急に気持ちが軽くなった。

 その気持ちに反応するように、詩織の身体が徐々に薄くなり光を孕んで散り始める。



「ねえ。あなた達ってお払い屋さんなの?」



 唐突な質問に、呆気に取られたような表情をして二人は顔を見合わせた。それから前へ向き直ると、



「普通の店子です」

「僕は間借り暮らしの何でも屋です」



 真面目な顔でそう言った。



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