第2話
プロローグ1
そこは、ただ赤いだけの部屋だった。
壁も、床も、天井も、全てが赤い色に塗り込められている。
自分はその赤の中を動き回っていた。同じ、赤い水を大量に纏って。
そうしたかったわけじゃない。けれど、体は止まらない。
笑いながら、目の前に現れた物体を突き刺した。素手で。
また、部屋が赤に濡れていく。
ぐらりと揺れる物体。顔を上げて、初めてそれが何かを理解した。ゴポリと、その口から吐き出された赤い水が顔にかかる。
気持ちが悪い。
「―――」
その物体が言葉を紡いだ。
聞き慣れた声で、聞き慣れた名を。
「あ……あぁ……」
見知ったそれが動きを止める。ピクリとも動かなくなる。その傍らに、既に動かなくなったものがもう一つ。それも知っている。知らないわけがない。
目を見開く、赤く染まった手を見つめる。急速に頭が冷えていく。
今、自分は何をした?
分かっている。理解した。あそこに転がる物体。動いていたそれを止めたのは、大事な彼らを殺したのは――
※ ※ ※ ※ ※
「あ……あぁぁぁぁぁぁああっ!」
暗い牢獄の中で、恐怖に染まった悲鳴があがった。
元がどんな色だったかも分からない、ボロボロの簿服一枚。無造作に伸びほうだいの金糸の髪。大量の汗をかいて荒い息をしているのは、少女と見間違うような顔立ちの幼い少年だった。
(また……)
そう、意味もなく思う。
二年だ。この夢を見続けて二年たった。いや、空は見えず、看守の交代だけで把握しているから、それより少し短いかもしれない。
右腕を上げる。ガリガリになったその手首に、引っ張れば千切れそうな細い鎖。だが、これでも一流黒魔導士が作った最高の封印だ。人間程度の腕力では取れもしない。
夢は見続け、そしてこの鎖が千切れることはない。これからも、ずっと。
今日もまた同じようにここで過ごす。何も変わりはない。きっと、自分が死ぬまで。
だが、それで良いと思う。自分は、生きたいとも思わないのだから。
「その鎖はお気に入りかの?」
「っ!」
突然、間近でした声に慌てて振り返る。
目に入った光に顔を庇った。檻の中に、人がいる。自分と、そしてもう一人。
「また、違う魔法をかけるの? 今度は何? 愛想が良くなる魔法?」
皮肉った言葉を相手に向けた。
黒い服を纏った初老の男。胸元にかかっているのは五芒星をかたどったペンダント。気配もなく、足音すらさせず彼はこの中にいる。それがどれほど凄いかを知ったのは、この封印具をつけられた時だ。
彼がこの封印具を作った張本人。後々、ご丁寧に自殺などを防ぐ魔法までかけてくれた。
「ほっほ、お前さんの愛想が良くなったら怖いわい」
そう言うが早いか、彼は封印具に触れ、何事かを呟いた。瞬間、微かにあったはずの感触が消えた。腕を取り巻いていたはずの鎖が、小さな音と同時に寝台に落ちる。
「……っ!」
「なんじゃ、これぐらいの魔法で驚くのか?」
「ちがっ、だ、だって、これは僕の……っ」
「暴走する力を防ぐ封印具、じゃな」
男は明かりを正面に持ってきた。光に揺らめき男の眼に映ったのは、自分の極上のワインのような赤紫の目。その目が、今は困惑して男と右腕を交互に見ている。
「目の色……元の色は何じゃった?」
「……薄い、紫」
「ふむ……見事に混ざりあっとるな。これならいけるじゃろう」
一人手を顎にうむうむ、と頷く男。その、一人だけ分かってます、という態度が頭にきた。
前からそうだ。この男は他と違って思考が読みにくい。何とか先読みしてまいてやろうと思うのに、いつもその上をいかれてしまう。
その態度に我慢が限界を迎え、目の前にあった明かりを払いのけ男をねめつけた。
「分かんない。ちゃんと説明してよ」
「その口の利き方はいかんのう。師匠に向かって」
「…………は?」
「今日からお前はわしの弟子になるのじゃよ。アシス・カーリア・クラバルト」
キイッと錆びた音をさせる鉄格子の扉に手をかけ、男は楽しそうに言う。
少年――アシスと呼ばれた彼は、ただ呆然とその背中を見ていた。
「お前さんの魔法に対する才能はピカイチじゃ。それはわしが保障する。どうじゃ、わしの所で修行するつもりはないかの? 魔導士になるために」
男の口元の皺が深くなる。試すような視線を受けて、アシスは大きく息を吐いた。
「ばっかじゃないの? 僕を育てて危なくなるのはあんた達じゃん。僕が魔導士になったら、この国に反旗を翻すかもしれないのに」
「この国が憎いからか?」
「っ! 当たり前だろ! こんな所に二年も閉じ込められて、化け物呼ばわりされて! 僕は好きで父さん達をっ……」
そこまで言って、彼は唇を噛んだ。強すぎたのか、鉄の味が口内に広がる。この味は嫌いだ。この臭いも嫌いだ。全部、あの日を思い起こさせるから。
「好きで、こんな力……持ったわけじゃないっ」
髪をぐしゃりと掴んで、アシスは小さく蹲った。それが年相応の姿に見えたのか、男は柔らかい笑みを浮かべて彼に近づく。
そして、アシスの手の上に自分の手を置いた。握るわけでもなく、ただ、そっと置いた。
「この国が憎いなら、お前さんが支配すれば良かろう。二度と他の誰かがお前さんを傷つけぬよう、お前さんがこの国の要になれば良い。誰も、逆らえぬように」
手の温もりとは裏腹の、冷たく、信じられない言葉。
アシスは驚きに目を見開いて男を見た。やはり最初に目につくのは五芒星のペンダント。この国の中枢を担う者の証。その男から出た言葉がそんなことで良いのか、と思う。
「憎い、と泣き叫んで諦める前に、この国を握るぐらいの足掻きを見せてみい」
すっと、今度こそ男は外側に出た。そのままこちらを振り返る。
待っている。アシスは直感でそう思った。
手を差し伸べるわけでも、来い、とも言わない。だが、彼は待っている。アシスが、一歩こちら側に出てくるのを。
「憎いと言うなら、その魔王の力、御して見せろ」
その言葉に誘われるように、アシスは寝台から降りた。冷たい感触が足の裏から全身を駆け抜ける。一歩、また一歩、アシスは男に近づいていく。
その歩みを、扉の前で止めた。こちらを見下ろす男をまっすぐ見つめ返す。
そして、ゆっくりと口角を上げた。
「後悔しても、知らないよ」
「ほっほ、よう言うわい」
一歩、外側の地を踏みしめる。同じ冷たい石の床なのに、どこか違う感触がした。
※ ※ ※ ※ ※
ガラン、と薪の崩れる音が部屋に響いた。
家の外から襲い来る冷気を防ぐように、暖炉の中で炎が揺らめく。
「あらあら、この子ったらおねむみたいよ」
「本当だ」
くすくすと優しい笑いを静かにこぼしながら、若い夫婦は眠る赤子をなでた。母の膝に抱かれた子は、穏やかな寝息をたてている。
艶やかな黒の髪、そして今は閉じられた瞼に触れて、母は少し悲しげに目を細めた。
「この子の目……綺麗な青だったわ」
「……ああ」
父も、まだ頼りない小さな手を握りながら苦しげに頷く。
「私も貴方も、私の両親も、祖父母も、貴方のご両親達も……もう長い間、代々の先祖達は違ったのに……なぜ、今更この子が」
うつむく母の頬を、一筋の雫が流れた。ぽたりと赤子の頬に落ち、それがむずかったのか小さく身じろぎする。
「ああ、ごめんね。冷たかったわよね」
よしよしと、柔らかな頬を指で拭ってやると、赤子はまた穏やかに眠る。
「運命、という言葉では片付けたくないけど、そうなのかもしれない。今のところ、一番濃い血を引き継いでいるのは私達の家だし」
「そうね……それに、あれも」
そう言って、母は暖炉の上に目をやった。暖かな光を浴びて、微かに光る十センチ四方の小さな箱。大した装飾はされていないが、掘り込まれた文様は美しい形を描いていた。
父は立ち上がると、それをそっと取り上げ、箱を開ける。
「青の宝玉……」
丁寧に敷き詰められた布の上に、まるで王のように堂々と鎮座している細い銀のブレスレット。その一部に、透き通るような青色をした小さな玉。その輝きはただの石とも、また既存する宝石の輝きでもなかった。
赤い炎の中で映える、海とも空ともつかぬ青の煌き。
「原始の王が一人。命を注ぎし王・ファルゲーニスの宝玉。西大陸に残った一族の手に、いつの間にか伝わってきた物。そして……」
赤子は母の腕の中で収まりやすい位置を探しながら動く。その時、僅かに瞼が開いた。宝玉と同じ色を宿す、透き通った青の瞳。
「青い瞳は、彼の王の守護を受けた証の一つ、だったわね」
父親は箱を閉じると、またそっと暖炉の上に置いた。
「私達の一族がばらばらになったあの時。千年の昔、最後の女王レイア様が身に着けて亡くなったはずのこれが、なぜかここにある。そして、生まれた子は原始の王の守護を受けた子……」
父が赤子の頭に手を優しく置く。子はまた眠りの世界へ誘われていた。その寝顔に胸が痛くなる。
母はその子を柔らかく、けれど強く強く抱きしめた。まるで誰かから、何かから守るように。
「多くは望みません。どうかこの子に明るい未来を。かの女王のように……愛しき者の手を放さずにすむよう……どうか……」
母は涙を零しながらただ祈る。父はそんな母と子を大きな腕で抱きこんだ。
そして彼もまた、心の内で切に願う。
(小さくても、かけがえのない幸せを……どうか守りたまえ、原始の王達よ……)
祈りと願いを聞き届けるように炎は揺れ、今一度、薪の崩れる音が静かに響いた。
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