2.
あれから二年の月日が流れた。
――二月。
桜の季節が二度過ぎ去り、もうすぐ三度目を迎えようとしている。
わたしの目は大きな障害も残らず、視力も大幅に落とすこともなく、左右とももと通りに戻っていた。つくづく最高の医者に診てもらえたのだと実感する。
ただし、わたし自身は精神の均衡を大きく崩した。
やはり那智くんが急にいなくなったことが大きい。尤も、そんなことを言うと、那智くんを知る人で彼がいなくなってダメージを受けなかった人など、ほとんどいないだろうけど。
あの後しばらく悩んだ。
わたしは那智くんを守ったつもりでいたけど、本当の意味で守れていなかったのではないだろうか、と。
確かにわたしは迫りくる車から、那智くんを救った。だけど、そのことで生まれた自責の念をどうしてあげることもできなかった。彼が抱えていた苦しみを、最後まで消してあげられなかったのだ。
――卒業後、わたしは一年遅れで美大に入った。
高校のときからそうだったけど、大学生になってから一段と言い寄ってくる男の子が増えた。当然、そういう気分になれるはずもなく、すべて断っている。
円はというと、わたしと違ってストレートで大学に合格した。
相変わらず遠矢君と一緒にいるようだが、つき合っているのかと聞くと、そんなんじゃない、と力いっぱい否定する。それを証明するかようにほかの男の子とつき合ったりもしているけど、長続きした試しがない。
今日は今日でさっき電話をしたら、「今日は聖嶺の卒業式だからね、遠矢っちのお祝いにいくのさー」と、あえなく誘いを断られた。
何だかなぁ。
きっとこのつかず離れずの距離が心地よいのだろう。
「さて、困ったぞ、と」
講義棟を出たところでわたしはつぶやいた。
ようやく後期試験が終わったから、円を誘ってどこか遊びに行こうと思っていたのに、いきなり当てが外れてしまった。大学の敷地から出るまでに誰か友達がいたら、その子を誘ってみようか。
が、しかし、こんなときに限って誰にも会わなかった。
その代わり、予想もしない人間と出会った――
「……」
思わず足を止め、その衝撃に息をのむ。
この二年、わたしが望んでやまなかったものは、
唐突に、
拍子抜けするほどにいきなり、
姿を現した――。
大学の門を出てすぐ前の道路。路上駐車した高級車の横で、ガードレールに軽く軽く腰掛けるように体を預けて、彼は立っていた。スーツにロングコートという、フォーマルな場にも出られそうな格好で、その姿は少し大人びて見えた。
「那智、くん……?」
言葉が上手く紡げない。
那智くんはわたしに気づき、一瞬の戸惑いの後、どこか愛想笑いにも似た落ち着いた笑みを浮かべた。
わたしは慌てて駆け寄り、目の前に立った。
「……」
今度は言葉そのものが出てこない。
『久しぶりね』
『元気だった?』
『少し背が伸びた?』
『急にいなくなるなんて、どういうつもり!』
『わたしの気も知らないで!』
まずは何を言えばいいのだろう? 挨拶? 文句? それとも、冗談? もういっそのこと引っ叩けばいい? 再会の第一声に相応しいものが浮かばない。
でも――、
「お久しぶりです、片瀬先輩」
それもすべてこのひと言で飛んでしまった。
――片瀬先輩。
その言葉が棘のように胸を刺す。
距離を、感じた。
二年の月日はわたしが思っていた以上に距離を生み出していたのかもしれない。
「そ、そうね」
わたしは冷静になろうと努めながら答えた。
「その後、目はどうですか?」
「ええ、もう大丈夫。今では定期的検診も半年に一回になっているわ」
「そうですか。それは安心しました」
そう言って那智くんはまた愛想笑いのような笑みを浮かべた。
「那智くんはどう?」
こちらからも何か聞かないと。そう思って口から出た質問は、ひどく曖昧なものになった。
「忙しいですね。見聞を広めろ、経験を積めと言われて、あちこち連れ回されて。ようやく日本に帰ってきたのに、あまり長くいられないようです」
「そうなんだ」
「今も三十分だけ時間をもらって、ここで先輩を待っていたんですけど……うん、まさか本当に会えると思いませんでした」
そう言って那智くんは笑う。
(あ……)
わたしはその笑みの中にほんのわずか懐かしい姿を見た。
少し子どもっぽい、無邪気な笑顔。
一瞬、今なら那智くんに手が届きそうな気がした。
「お兄様」
しかし、次の瞬間、それは伸ばした手をすり抜けるようにして、また遠くに行ってしまう。
後部座席から出てきたのだろう、車を挟んだ向こう側に宇佐美さんが立っていた。
彼女は、学年で言えばこの春から高校三年のはず。最後に見たときから随分ときれいになったように思う。少しの大人っぽさと落ち着きを身につけたのだろう。
「もう時間です」
「そうか。わかった。今、行くよ」
那智くんは宇佐美さんにそう言った後、再びわたしに向き直った。
「だそうです」
「ほんとに忙しいのね」
わたしの言葉に、那智くんはただ苦笑して応えた。
ふと見ると、宇佐美さんがこちらを見ていた。でも、わたしと目が合うと 「ふん」 と言わんばかりに顔を逸らし、車に入ってしまった。
「まったく。奈津のやつ」
「相変わらず嫌われてるみたいね」
わたしは肩をすくめた。
「もう、行くの?」
「すみません。時間なので」
二年ぶりの再会は、もう間もなく終わりを告げるらしい。
「それじゃ、また……」
那智くんは今までコートのポケットに突っ込んでいた手で握手を求めてきた。
その手にわたしは戸惑った。
その手を取れば、それが別れの握手になりそうで怖かった。
しかし、那智くんはそんなわたしの気持ちなどお構いなしに、強引に手を取ってきた。わたしの手を両手で包み込む。
「それじゃあ」
もう一度同じことを言い、手を離した。
それから、那智くんはガードレールを越えて道路に下り、宇佐美さんと同じく後部座席に乗り込んだ。
車が発進する。
わたしはそれを無言で見送った後、握手を交わした掌をじっと見つめた。
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