3.

 家に帰って真っ先にパソコンを起ち上げた。


 起動させている間に着替えをすませてしまう。と言っても、このマシンは高校に合格したときに買ってもらったものだから、まだまだ動作は軽い。僕の着替えの方が遅かった。


 パソコンの前に座り、ネットで司先輩と同じ症例と手術例を調べてみた。調べたところでどうなるというものでもないのだろうけど。それでも何かをやらずにはいられなかった。


 結果、やはり難しい症例であることと、成功率の低い手術に望みを託すしかないことが再確認されただけだった。


 ただ、その中で、その難しい手術を幾度か成功させているドイツ人医師がいることを知った。


(こういう先生に診てもらえれば……)


 だが、現実的ではない。


 絶対に手の届かないものを眺めるように、僕はその医師――ヘルベルト・ノイマン先生の紹介ページを読む。


 と――、


「これって……」


 そのとき、僕はこの先生と関係のある日本企業の名の中に見覚えのある文字を見つけた、


 宇佐美。


 グループの関連企業だろうか、宇佐美の名を冠した企業の名前がそこにはあった。そう言えば宇佐美グループはここ数年、医療や介護関係にも手を伸ばしているとあったな。


 時計を見る。

 まだ時間は午後二時前だった。


 こういうことは早い方がいい。

 僕は再び着替えると、外に飛び出した。





 乗り換えを含めて電車で二時間。僕は宇佐美の本社ビルにきていた。


「蒼司! 蒼司に会わせてくれ!」


 着くなり僕は受付に頼み込む。


「な、なんですか、あなたはっ」

「蒼司だよ、ここの会長の宇佐美蒼司! あいつを出せって言ってるんだ!」

「出せって言われて出せるわけがないでしょう。警備員を呼びますよっ」


 って――、


 ああ、それもそうだな。いきなり飛び込んできてこれじゃ、刃物持ってると思われても仕方がないよな。しかし、このお姉さんもなかなか強気な人だ。


「すみません。少し慌ててました。僕は千秋那智と言います。蒼……じゃなくて、宇佐美会長に会わせてほしいんです。取り次いでもらえないでしょうか? 僕の名前を出して、それでダメだったら日を改めますから」


 焦る気持ちと荒い息を抑えながら、僕はできるだけ落ち着いて頼んだ。


 受付のお姉さんは少し怪訝そうな顔をしながらも、僕の名前を改めて聞いて、内線で蒼司に連絡をしてくれた。


 そして――、


「会長がお会いになるとのことです。どうぞ」


 お姉さんはにっこり営業スマイルを見せた。





 これまで生きてきた中で上がったこともないような階までエレベータで上がって、辿り着いた立派なドアの前。案内してくれたお姉さんがノックする。


「どうぞ」


 と、中からの返事。


 昨日の司先輩の病室を訪れたときのことが頭の中で重なる。今も多少の緊張があるが、あのときのほうが遥かに緊張した。


 中には蒼司と、蒼司よりもひと回り以上は年上であろう年配の男の人がいた。ソファで向かい合って何か話をしていたようだ。


「やあ、いらっしゃい。那智君」


 蒼司がこちらを向いて、にこやかに迎えた。……そう言えばこんなキャラだったな、最初は。


「申し訳ない。しばらく席を外して頂けますか?」

「わかりました。では、後ほど」


 男の人はソファから立ち上がると、一礼してから部屋の外へ出て行った。すれ違うとき「何だ、このガキは」みたいな目で僕を見やがった。……会長の隠し子だよ。


 改めて室内を見る。

 広い部屋。下界を一望する大きな窓。高そうな机とその他の調度品。……なるほど。これが会長様の執務室か。


「それで、今日はどうしましたか。那智君」


 ソファから立ち上がりながら蒼司が聞いてくる。


「……おい」

「はい?」

「話の前のまずその喋り方をやめろよ。調子が狂うだろ」


 僕がそう言うと、蒼司はふんと鼻で笑った。


 机の上にどっかと腰を下ろし、片足だけの胡坐を組む。


「今日は何の用だ、俺の息子」


 ようやくらしくなって、こっちも話しやすくなった。

 かつては穏やかな面を見て好ましいと思ったものだけど、あれが演技と知った今ではやりにくくてかなわない。


「ヘルベルト・ノイマンって医者を知ってるか?」


 さっそく話に入る。


「唐突だな、おい」

「あんたが僕の親だと名乗ったときよりはマシだよ。……で、知ってるのか知らないのか」

「悪いが知らないな」


 あっさりと蒼司は返してきた。


 ……くそっ。いきなり頓挫か。


「どうしたよ。わざわざここまできたんだ。それで引き下がれるような話じゃないんだろ。とりあえず話してみろよ」

「あ、ああ、そうだな」


 確かにそうだ。今はここにしかすがるところがないんだから。


(だけど、言えば蒼司はきっと……)


 一瞬の戸惑い。

 しかし、僕はすぐに意を決して口を開いた。


「えっと、ノイマン先生ってのは世界的に有名なドイツ人の眼科医なんだ。あんたンとこの関連企業にも縁があるらしい」


 そう話を切り出した。


 それから先輩の事故のことや、先輩と同じ症例の難しい手術を件のノイマン先生が何度か成功させていることなどを話した。


「つまり、お前の先輩の手術を、その先生に引き受けてもらえるよう頼めってことだな」

「ダメ、かな?」


 しかし、蒼司は難しい顔をするばかりだった。


「問題がいくつかある。まず、俺がそのノイマン先生とやらを知らないこと」


 そうだった。最初からそう言っていたんだった。


 やはりもともとむりな話だったか。


「が、それは何とかしてやる」

「本当か?」

「ああ」


 蒼司は不適に笑うが、今はそれが頼もしかった。


「伊達や酔狂で会長なんて肩書きを持ってるわけじゃないからな。……だが、もっと現実的な問題として、費用はどうする?」

「あ……」

「手術費だけでもベラボーな額になるだろうよ。加えて、ドイツへの旅費、向こうでの入院費と家族の滞在費、その他諸々。合わせりゃちょっと有名程度の建築デザイナじゃ手の届かない桁になるぞ」

「……」


 蒼司は何も意地悪でこんなことを言っているわけじゃない。これがまぎれもない現実なんだ。


「いいぜ。それも肩代わりしてやる」

「ほ、本当か?」

「ああ。ほかでもないお前の頼みだからな。俺にそれができる力と立場があるんだ。やってやるさ。そうだな。手術も日本で受けられたほうがいいだろう。できる限りそうしてもらえるよう頼んでみよう」

「……」

「よう。急に黙ったな」


 蒼司は悪ガキの笑みとともに僕を見た。


「……そりゃあ、ね」

「お前は頭がいい。次に俺が何を言うかもわかっている。いや、わかっているというなら、この話を俺に切り出したときからわかってたんだろうな。覚悟を決めた顔をしていた」

「……」


 わかってるさ。


 こいつはやっぱり、どこまでも僕の敵だ。


「じゃあ、遠慮なく言わせてもらおうか。……那智、俺のところへこい。それが条件だ。お前が首を縦に振りさえすれば、俺は宇佐美の名に誓って万事完璧にことを進めてやるよ」


 蒼司は柄悪く机の上に腰を下ろしたまま、僕を見据えて告げた。


 僕は考える。


 つき合いはまだ短いが誰よりも信頼できる親友は言った。自分にしかできないことをやれ、と。


 かつて互いに惹かれ合った女の子は言った。やれることを全力でやることが最善の解決への道だ、と。


 そして、目の前の悪ガキのような男ですら言ってのけた。自分にそれができる力と立場があるからやるのだ、と。


 そうだな。

 なら、きっとこれが、僕が司先輩にしてあげられる最大限のことなのだろう。この程度で先輩の目がもと通りになるなら安いものだ。


「……いいよ。わかった。その代わり先輩のことを頼む」

「ああ。任せろ」


 僕の返事を受けて、蒼司はまた不敵に笑った。


 そして、さらに付け加えた。


「あ、そうそう。近々ヨーロッパのほうに行く。お前もつれて行くからそのつもりでいろよ」

「……好きにしろ」


 どうせ僕はもう……。





 それから二週間――

 話はフルスピードで進んだ。


 蒼司自らノイマン先生との交渉に赴き、日本では先生が出した条件――必要な検査データやスタッフなどが、出された端から揃えられていった。


 そして、街が目の前に迫ったクリスマスに浮かれている今日この日、司先輩の手術が行われる。


 しかし、僕は今、空港にいた。日本を発つ日と重なったのだ。


 蒼司は父さんと母さんに会いに行ったらしい。事前に知らされていたが、僕の同席は認められなかった。その席でどんな話は交わされ、何があったかは知らない。ただ、その後、父さんは僕にひと言「行ってきなさい」とだけ言った。


(この時間だと、今ごろは手術の準備かな?)


 ロビーのソファに身を沈め、考える。


 と――、


「お兄様!」


 元気な声が近寄ってくる。


 やがて、正装でありながらかわいらしさも兼ね備えたワンピースに、ツインテールが特徴的な女の子が、僕の横に立った。


「搭乗手続き、やってきましたよっ」

「ああ、そう」


 僕はテキトーな返事を返す。


 蒼司は仕事の関係でひと足先に行っていて、僕と奈っちゃんが後から発って、向こうで合流という手筈になっている。


「あ、あの……」


 奈っちゃんがおずおずと口を開いた。


「心配なら片瀬先輩のところに行ってもいいですよ。お父様には空港で逃げられたって言いますから」

「いや、いい。大丈夫だから」


 それにそのシナリオじゃ僕が悪ものじゃないかよ。


「心配してくれてありがとう。先輩には昨日電話したし、今日行けないこともちゃんと伝えてあるんだ」


 本当のことは言ってないけど。


「それに……」


 もともとこうなった全ての原因は僕にあるんだ。何をしたところで償い切れるものじゃない。もうそばにはいられないんだ。


「いや、いい」

「もう。そればっかり」


 奈っちゃんが頬を膨らませて怒る。


「じゃあ、行こうか」


 僕は立ち上がると奈っちゃんの手の搭乗券をひったくった。


 さあ、行こう。

 さよなら、先輩。僕は約束を破ります――。

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