4.

「なっちも行く?」


 これから女バスの練習を見にいくという円先輩が僕に聞いた。


「僕ですか? どうしよっかな?」

「今日は確か男バスと半々で使ってるはずよ」

「あ、それはちょっと見てみたいかも」


 男バスの練習は覗いてみたいな。


「じゃ、決まりね」


 勝手に決まったことにする円先輩。


「遠矢っちは……行かないわよね」

「……行く」

「あ、行くんだ」


 てっきり行かないと予想していたのだろう、円先輩は拍子抜けしたようだ。たぶん一夜は、今帰ったら飛鳥井先輩に追いつきそうだから、時間を開けたいんだろうな。


「ほんじゃ、ま、みんなで行きますか」


 と、円先輩の号令で移動をはじめる。必然的に円先輩が先頭になり、続いて司先輩と僕が並んで歩く。そして、最後尾が消極的参加の一夜だ。


「周りに人が少ないとほっとするわ」


 僕の隣で司先輩がしみじみと言った。どうやら先ほどの僕と同じことを感じていたようだ。


「そうですね……」

「ほんと大変だったわ。あの話は本当なの、からはじまって、本当だって言ったら今度は根掘り葉掘り聞かれるし――」

「はは……」


 僕と同じだな。


「通りすがりに睨まれたり、ひどいこと言われたり――」

「はい? 何で先輩がそんな目に遭ってるんですか!?」


 僕ならまだわかる。司先輩とつき合っているのだから。先輩に憧れる男子生徒は腐るほどいるし、事実、僕は階段で突き飛ばされた。


「何でって……えっと、それは……」


 司先輩が言い淀む。


「まぁ、当然っちゃー当然よね。だって――」

「円っ」


 何か言いかけた円先輩を司先輩が遮り、円先輩は前を向いたまま無言で肩をすくめた。


「まぁ、彼氏のいない女の子の妬みやっかみだと思って」

「は、はぁ……」


 女の子もそんなのがあるのか。男でも時々先に彼女をつくったやつが、ひとり身のやつらにタコ殴りに遭ってるものな。


 そうこうしているうちに体育館に着く。


 中では確かに男バスと女バスが半分ずつ使って練習していた。手前が女子。向こう側のステージに近い方が男子だ。


 円先輩が姿を現したことで女バスの中に練習以外の声が一気に増えた。順番待ちの子は隣の子と何やら囁き合いながらこちらを見ているし、走っている子は足を止めないまでもシュートを撃ったりパスを出し終えた後は、意識はもうこちらを向いている。


 たぶん引退した前主将の登場よりも一夜がいることが原因だろうし、もしかしたらそれ以上に司先輩と僕がいるせいかもしれない。


「はいはい。ほら、集中するっ」


 円先輩が一喝する。しかし、効果は微々たるもののようだ。


 そこで女の子がひとり駆け寄ってきた。たぶん二年生、新主将だろう。「一度全員集合させたほうがいいですか?」「いや、いい。そのまま続けて」などのやり取りがなされる。新任主将としてはここで何かお言葉が欲しかったのだろうな。頼りにされてるな、円先輩。


 女の子が戻っていく。その際、ちらちらと僕らのほうを気にしていた。おいおい、主将からしてそんなことでどうするよ。


 と、そこに――


「悪い、通してくれ」


 入り口で屯していた僕らの後ろに男子生徒が立っていた。


 男バスの部員らしい。短めに刈り込んだ頭に、練習着を着ている。背は当然高いけど、バスケのプレイヤとしてはそれほど高い方ではない。ポジションはセンターではなく45度、フォワードだろう。


「あ、すみません」

「ん。お前は確か……」


 しかし、その男子生徒は足を止めて僕の顔を見る。それから隣の司先輩に目をやってから、再び僕を見た。


「そうか。お前か」


 不機嫌そうに鼻を鳴らして、ようやく男バスが練習している方へ向かった。


「……」


 何が『お前か』なんだろうな。


「三竹龍二、体育科三年。男バスのエースだよ。因みに、5番ね」


 短髪頭の後姿を見送る僕に、円先輩が教えてくれた。……それが彼の名前なのか。まるでバスケをするために生まれたような名前だな。


「三年?」

「そ。男バスは女バスうちとは違って秋大会まで出て、そこで引退らしいの」

「ふうん」


 そのへんはクラブごとに違うんだな。


 と、思っていたら、その短髪頭が戻ってきた。また外に出るのだろうか? ……違った。こちらに用があったようだ。


「よう、お前。俺とちょっと一対一で勝負しないか?」

「は? 僕ですか?」


 しかも、僕にだ。


「聞いてるよ。上手いんだろ?」


 とりあえず素人じゃないけどさ。つーか、誰だよ、そんなこと言ったの……って、ひとりしかいないか。僕は円先輩を見る。


「あー、うん。世間話程度にそんなことも言ったかも」


 ばつが悪そうに苦笑いを浮かべた。


「片瀬さん、悪い。ちょっと彼氏借りていいかな?」

「え? ええ、那智くんがいいなら……」


 司先輩は思わぬ展開に戸惑ったように、ちらちらとこちらを窺いながら答えた。


「えっと、じゃあ、ちょっとだけ……」


 胸を借りるつもりでやらせてもらおう。僕も丁度ボールを触ってみたいと思っていたところだし。


 話がまとまり、用意してきた体育館用のシューズに足を突っ込みながら男バス側に移動する。後ろからは司先輩と一夜、円先輩までついてくる。女バスの練習を見るんじゃなかったのかよ。


 ステージに鞄を置き、靴紐を固く結び直した。


「那智くん、がんばってね」


 準備体操をしていると、司先輩が声をかけてくれた。


「はは。ボロボロにされてきますよ」


 たぶんこれは揺らぐことのない結末だ。中三でやめて久しい僕が、高校に入って未だ現役の、しかもエースと称されている人間に勝てる道理はない。


 続けてボールを使ったアップに入る。僕らの勝負のためにゴールをひとつ空けてくれたらしい。すごいな。エースともなればちょっとした我侭もきくらしい。


 シュートを何本か撃った後、ようやく一対一開始。


 先行は三竹先輩。スリーポイントのラインを挟んで向かい合って、改めて大きいと思った。背は百八十に届くか届かないかといったところ。でも、その体に筋肉がついているので、がっちりした体格だ。


「お前さぁ――」


 油断なくボールをキープしながら三竹先輩が言う。


「片瀬とつき合ってるんだって?」

「……」


 うわ。こいつ、さっきは『片瀬さん』って言ってたくせに、本人がいないところだと呼び捨てかよ。


「賭けようぜ。俺が勝ったら片瀬と別れろよ」

「は?」


 あまりにも理不尽な要求に、僕は目が点になる。


 瞬間。

 三竹先輩が動いた。こすい。


 抜きにかかる。


 僕も慌てて反応する。が、しかし、次の瞬間には、その反対から抜かれていた。軽い感じでランニングシュート。まずは三竹先輩が1点。


「……」


 身をもって知る高校バスケ。中学とは段違いだな。


 攻守交替。


「前から目障りだったんだよな」


 僕の正面で腰を落としてディフェンスの構えを取る三竹先輩が、再び口を開いた。


「いいか。この勝負、俺が勝ったら二度と片瀬には近づくな」


 知るかっ。


 まずはスピード勝負だ。

 一度フェイクを入れる。それから、それにかかろうがかかるまいが関係なく、強引に抜きにいった。


「ッ!?」


 が、向こうはしっかりついてきていた。やっぱり簡単には抜かせてくれない。


 僕はかまわずトップスピードまで上げて――レイアップシュート。もちろん、それも完全にブロックされた。


 というか――、


「が……っ」


 弾き飛ばされた。


 シュートブロックなんてものじゃない。明らかにチャージング。ファウルだ。僕は肩から落下して、全身をしたたかに打った。


「おっと、悪い。大丈夫か?」


 床に倒れたまま痛みに喘ぐ僕に、三竹先輩は悪びれた様子もなく手を差し伸べた。わざとのくせによく言う。


「ま、まぁ、なんとか……」


 その手を借りて立ち上がった。


「お互い怪我には気をつけないとな。こっちは秋の大会も控えてんだ」

「……」


 あぁ、そういうことか。僕が何かの拍子に男バスのエースに怪我をさせたら周りが黙っちゃいないけど、その反対は遊びの最中のちょっとした事故ですむわけだ。


「今のは俺のファウルだから、そのまま続けてオフェンスでいいぜ」

「……どーも」


 攻守の交替はなし。再び僕のオフェンス。


 さて、どうしたものか――攻めあぐねたように僕は無造作にドリブルをはじめた。

 すると、案の定、三竹先輩はドリブルカットにきた。


 僕だって素人じゃない。今見せた隙はわざとだ。向こうがが前に出るのと入れ違いに、僕はターンしてその横をすり抜けた。


「ちっ」


 すれ違いざま舌打ちが聞こえた。


 三竹先輩を抜いた僕は、途中で足を止めセットシュートに切り替えた。おそらくそのままランニングシュートへいっても、最終的にはゴール前で追いつかれて、潰されるだろう。だったら、ある程度距離が開いているうちにシュートを撃ってしまった方がいい。


 そして、この判断は見事的中。フリーだ。


 しかし、問題はその後だった。シュートを撃った直後、視界に影が差したと思ったら、何かがぶつかってきた。三竹先輩だ。シュートブロックに飛んでいたらしい。というか、おそらくブロックの名を借りた体当たりだ。最初からそのつもりで飛んだに違いない。


 ふたりでもつれるようにして倒れ込む。もちろん、僕が下敷きだ。


「ぐ……」


 僕の口からうめき声が漏れた。アバラが軋む。


「いや悪い悪い」


 ニヤニヤと嫌らしい笑みを浮かべるバスケ部のエース。周りの男バスの部員からも「ひでぇ」「あーあ、はじまったよ」といった同情混じりの笑い声が聞こえる。なるほど。こういうやつらしい。


 でも、僕は視界の隅で確かにボールがリングをくぐるのを見ていた。


「とりあえず僕の1点ですね」

「ふん。まぁ、いい。……それじゃあ、次は俺だな」

「あ、先輩、その前にちょっとタイム」

「んだよ?」


 僕のタイムアウトに三竹先輩が不機嫌そうな声を上げた。


「まあ、ちょっと……」


 そう誤魔化しておいて、僕は円先輩の方へ向かう。先輩の方からもこっちに寄ってきた。ついでに司先輩まで。


「大丈夫なの、那智くん」


 心配そうに先に司先輩が言った。


 幸いにして司先輩はバスケのことをよく知らず、さっきまでのプレイがどれだけ常軌を逸して荒っぽいことなのかわかっていないようだった。


「まぁ、何とか。慣れてますから。……それよりも円先輩、ちょっと……」


 そう促して、円先輩と一緒に司先輩から少し離れる。


「三竹先輩って、いつもあんな感じなんですか?」

「まぁ、ね」


 僕の言いたいことがわかったらしく、苦笑する円先輩。


「ちょっと難しい性格ではあるわね」

「なるほど」


 中学のときの奥田君を思い出すな。バスケのセンスはピカイチだけど、気分屋でよく練習をサボっていたし、試合でも審判が偏った判定をしていたらすぐに「やってられるかっ」とヘソを曲げていた。エースと呼ばれる人種というのは、得てしてそういう部分を持っているのかもしれない。5番というところも共通している。


「ねぇ、なっち」

「うぃ?」

「もうやめといた方がよくない? あいつ、変になっちのこと目の敵にしてるみたいだし。まともにやる気ないわよ、あれは」


 さすが同じバスケ部同士。三竹龍二のことをよく知っているらしい。何を考えて、どういうつもりで僕を一対一に誘ったか、だいたい見当がついているのだろう。


「んー? でも、まあ、もうはじまったわけですから」


 そう答える僕を、円先輩は心配そうに、そして、何か言いたげに見つめる。


 心配してくれるのはありがたいけど、僕には引けない理由ができてしまった。あんな賭けに乗るつもりはないけど、司先輩を賭けの対象するようなやつに背を向けたくはない。勝てないとわかっていてもだ。


「問題は向こうが平気でラフプレイにくることだけど……」


 大会前の聖嶺のエース様に怪我をさせたら不味いって? 知るかよ。そっちがその気なら、こっちにだって考えがある。自分の潜在的な被害者性を盾に先制攻撃に出るつもりはないけど、相手が加害者性を剥き出しにしているなら話は別だ。黙ってやられるほど僕はマゾくない。


「なっち。アンタ、今すごい顔してるわよ」

「え、そうですか? そりゃよくないですね」


 ぺちっと頬を叩く。


「さて、いってくるかな」


 再びコートへ向かう。司先輩の方へ目をやると、不安そうな顔でこちらを見ていた。笑顔で応えておく。


 そして、ゴールの前には憮然とした顔で待つ三竹先輩。……あぁ、もう三竹でいいや。


「もういいのかよ?」

「すみません。お待たせしました」


 ゲーム再開。

 オフェンスは三竹で、ディフェンスが僕。


 相手はもとより鮮やかに技で抜くつもりなどなく、強引なパワープレイで突破を図る。


 抜き去る際――、


「がっ」


 肘が僕の顎に入った。


 後ろを振り返り、僕が倒れているのを確認した上で悠々とランニングシュート。ボールはリングへ。


 交替。


 僕ははじまりと同時に、意表をついて3ポイントシュートを放った。

 しかし、ボールはリングに弾かれ、ゴールならず。リバウンドは三竹が取った。というか、僕が競り合いにいかなかった。


「なんだ、リバウンドには取りにこないのか」

「勝てそうにないですから」


 残念そうに言うかよ。今度は何をするつもりだったんだ。


 交替して、ディフェンス。

 強烈な当たりに吹っ飛ばされた。


 オフェンス。失敗。空中で激突、叩き落された。


 再びディフェンス。

 ゴール下の勝負に持ち込まれ、潰された。


 さすがエース、僕程度じゃ手も足も出ない。


 ここまでくるともうボロボロだった。息が荒い。運動量は少ないけど、フィジカルなダメージからけっこう消耗している。服の下はきっと痣だらけだろうな。


 さっきのタイムアウトの後、こっちもラフプレイで対抗するつもりだったけど、結局できていなかった。僕には狙ってファウルなんていう荒事はできないらしい。ええぃ、根性なしめ。


 それは兎も角、僕の攻撃だ。


 相手の動きを警戒しつつ、どう攻めるか頭の中でシミュレーションする。


「なに、お前、まだやんのかよ?」

「……」

「もしかして片瀬が見てるからガンバってるわけ?」


 鼻で笑うように言う三竹。まったく、相も変わらず。


「……黙れよ。気が散る。目の前でぎゃあぎゃあと」

「あぁ?」


 僕に言い返されてカチンときたらしい、三竹が威嚇するような声を上げた。


 隙ができた。


 考えるよりも早く、体が動く。低いドリブルで三竹の脇の下をすり抜けるようにして突破する。抜いたと思ったのは一瞬で、すぐに追いつかれて横に貼りつかれた。


 ここでターン。

 今一度逆側から抜きにかかる――が、これもダメ。振り切れない。


 もうゴールは目の前だった。ここで止まっても、体勢を立て直す前に潰されるだろう。僕はそのままシュートへ踏み切った。


 空中戦。


 三竹も遅れず跳んでいた。シュートコースは完全に塞がれている。


 ならば、ダブルクラッチ。

 一旦シュートを止め、相手の腕の下をくぐってから改めてシュートを撃つ。


 しかし――、


「このッ」


 おそらくこのままでは不味いと思ったのだろう、慌てた三竹が僕の首筋に強烈なエルボーを落とした。


「がはっ」


 僕はあえなく撃墜された。


 床へうつぶせに落下。口の中に血の味が広がる。切ったらしい。それだけじゃなく全身が悲鳴を上げていて、すぐには立ち上がれそうにもなかった。どうにかこうにか体を仰向ける。


 三竹が僕を見下ろしていた。


「しつこいんだよっ」


 焦りと嫌悪感の篭った声で吐き捨てるように言う。その表情から余裕は消え失せていた。


「これでもまだやんのかよ」

「……」


 もちろん、やるさ。

 ボロボロの身体に鞭を入れて立ち上がろうとする。


 しかし、上体を起こしたところで割って入る人影があった。


「もういいんじゃないかしら?」


 司先輩だった。

 僕の方は見ず、険しい表情で三竹に向かっていく。僕はそれを座ったまま見ていた。


「あぁ? なんだよ?」


 今度は司先輩にまで噛みつきそうな威嚇の声。お前は感情のコントロールができんのか。


「確かバスケットボールは、試合ではファウル五つで退場よね?」

「……」

「だったら、三竹君、あなたの負けじゃないかしら?」

「ちっ」


 三竹が舌打ちした。


 確かに司先輩の言う通りだけど、それは試合での話。それに本当に試合だったら、これだけアンスポーツマンライク・ファウルを重ねていればもっと早い段階で退場だろう。


「それと」


 司先輩はさらにつけ加える。


「何か言いたいことがあるなら、那智くんではなくわたしに直接言って頂戴」


 ぴしゃりと言い切った。


 そして、何か反論したげな三竹に背を向け、僕の横に膝をつく。


「大丈夫?」

「……」

「那智くん?」

「あ、はい」


 思わずぽかんとして成り行きを眺めていた僕は、ようやく我に返って返事をした。


「口の端、切れてるわ」

「大丈夫ですよ、こんなの」

「ダメよ。動かないで」


 先輩がポケットからハンカチを出し、血を拭き取ってくれた。高級そうな柄もののハンカチ。血で汚してしまって、勿体ないやら申し訳ないやら。


「立てる?」

「たぶん、何とか」

「そう。じゃあ、もう帰りましょ」


 先輩の手を借りて立ち上がると、僕らはその場を後にした。


 その際、司先輩は三竹をひと睨みしてたじろがせ、そのほかの男バス部員にはにっこりと笑顔を送った。


 因みに、翌日から司先輩と僕の関係に文句を言う声は減り、この騒ぎはゆっくりと収束に向かうことになる。





 帰り道――、

 司先輩と並んで、学校から駅へと向かう。


 十月を目の前にして日は徐々に短くなり、もう間もなく日が暮れようとしていた。


「先輩、よく5ファウルなんてルール、知ってましたね」


 てっきりバスケのことなんてとんと知らないものだと思っていた。


「円が教えてくれたの」

「あ、なるほど」


 それなら納得。


 因みにその円先輩はというと、僕らの後方で一夜と並んで歩いているはずだ。


「心配したんだから」

「すみません……」


 言い返す言葉もないです。


「もう那智くんひとりの体じゃないのよ」

「……」


 それは初耳です。僕はいったいどんな体になってしまったのでしょうか?


「那智くんはわたしのものなんだから」

「あー……」


 それは初耳じゃないです。学祭のときにも聞いたし、僕自ら認めてるしな。


 しばらく無言で歩いた。


 顔が熱い。

 ハンカチ濡らしておけばよかったな。


「って、ああ、そうだ。思い出した」


 僕はポケットからハンカチを取り出した。先輩から借りたものだ。


「これ、洗濯して返しますよ」

「そう? 気にしなくてもいいのに」


 司先輩はくすりと笑った。

 そういえば、初めて司先輩と会ったときもハンカチを借りて、こんなやり取りをしたな。懐かしい。


 たぶん、先輩もそれを思い出したのだろう。


「今度はお礼はつけなくていいわよ」


 先回りしてそう言う。


「そうですか」

「ええ。だって、今は那智くんがいるもの。ほかにほしいものなんてないわ」

「……」


 先輩、あなたは僕を熱で倒れさせるつもりですか……?

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