挿話 Non smokin' Girl(1)

 後宮紗弥加あとみや・さやかの両親が他界したのは、彼女が小学校四年生の夏だった。


 その日は天気予報に反して夕方から雨が降り、傘を持って出なかった父から駅まで迎えにきてほしいと電話があったのだ。運転免許を持っていた母がひとりで迎えにいき――そのまま帰らなかった。父を乗せた帰り道に交通事故に遭ったのだと、後になって紗弥加は聞かされた。


 ひとり残された紗弥加には少なからず親戚がいたが、疎遠であったり、経済的に余裕がなかったりと、それぞれの理由で引取りを拒否された。


 結局、紗弥加は児童養護施設を兼ねた教会に入れられることとなった。


 両親が死んだ。もう会えない。悲しい。そういう思いは当然あった。が、同年代の少年少女よりも強くあった紗弥加は、程なくそれを乗り越えた。しかし、どうしても拭えない感情があった。


 それは、納得できない、という感情だった。


 紗弥加はどうしても自分が教会にいることが納得できなかった。親戚に見捨てられたという思いがあったのかもしれない。落ちぶれたという思いがあったのかもしれない。同情されたくないという思いがあったのかもしれない。そういった思いから紗弥加は自分が教会にいることが納得できず、ここの子どもたちと同じに見られることを拒絶した。


 だから、いつまでたっても教会に馴染もうとせず、子どもたちの中にとけ込もうとしなかった。新しい仲間を迎えようと優しい言葉をかけてきた少女には邪険にして泣かせたし、人懐っこく寄ってきた少年を無言で突き飛ばしもした。そうやって紗弥加は自ら進んで孤立した。





 そんなある日のこと――、

 その日も紗弥加は学校から帰ってきた後、自分の部屋の二段ベッドの上で寝転がっていた。何をするわけでもなく、ぼうっと天井を眺める。


 と――


 いきなり部屋の窓ガラスが割れた。


「ッ!?」


 飛び起きてベッドから下を見下ろすと、窓枠の下に割れて散乱したガラス片とともにバスケットボールが転がっていた。それが窓を割った直接的な犯人らしい。


 続けて、窓の割れた部分を通って、にゅっと手が伸びてきた。その手は探るような手つきでクレセント錠を開けてから引っ込んだ。


 やがて窓が開き、そこから入ってきたのは紗弥加よりも年下の、小さなかわいらしい男の子だった。

 少年は慎重にガラス片を避けながらボールを拾い上げると、再び窓から出て行こうとした。


「おい!」

「うぇ!?」


 窓枠に足をかけた状態で少年が動きを止めた。そろりと紗弥加に振り返る。


「なに黙って出て行こうとしてるんだよ。もしかして、あたしのやったことにして逃げるつもりだったのか?」


 高いところから紗弥加は少年を威圧する。


「そ、そんなことないよ? 今から先生のところに謝りにいくつもりだし」

「あたしに言うことはないわけ?」

「だって、お姉ちゃん、いつも話しかけられるの嫌そうだから、今も早く出て行った方がいいのかなって……」


 少年の言葉を聞きながら紗弥加はわずかに顔をしかめた。


 とりあえず、彼に悪意はなかったようだ。例えば部屋に紗弥加がいないと思ってボールで爆撃した後、それを回収して逃げる、というわけではなかったらしい。


「だからって、ひと言くらい謝るのが普通だろ」

「それもそっか。……ごめんなさい」


 少年はバスケットボールを抱えたまま項垂れるように頭を下げた。


「わ、わかればいい」


 素直に謝られたら謝られたで、何となく面喰ってしまう紗弥加だった。


「じゃあね。先生に謝ってからホウキとチリトリを持ってまたくるから、これはこのままおいといて」

「なあ」


 再び窓枠に足をかけた少年を、紗弥加はまた呼び止めた。


「それってバスケットボールだろ? ここってバスケのゴールなんかあるのか?」


 紗弥加が教会に来てから数ヶ月がたつが、この環境に馴染む気のないのでほかの子どもたちと遊んだこともなければ、敷地内をまともに見て回ったこともない。もしかしてこの窓の外、裏庭にバスケットゴールがあるだろうかと気になったのだ。


「ううん、ないよ。あればいいのにね」

「そんなんで遊べるのか?」

「遊んでるんじゃなくて、練習」


 少年は遊びと思われたのが心外なのか、頬を少し膨らませて訂正を求めた。


「練習なんてできるのか?」

「できるよ。できないのはシュート練習くらいで、後はボールさえあれば何だってできると僕は思うんだ。こんな裏庭でもね」

「そういうものか?」

「そーゆーもの」


 少年はどこか誇らしげに返した。


 きっとバスケットボールが好きなのだろう、次第に声を弾ませ、多弁になっていく。


「日本でバスケットボールが流行らないのは、そういうところだと思う。ボールひとつあればたいていのことはできるのに、まず形から入ろうとする。ゴールがないだけで何もできないと思うんだ」


 小学校低学年らしからぬ意見だった。もしかしたらどこかで聞きかじった持論なのかもしれない。


「だからってところかまわず投げて窓割ってりゃ、ちゃんとしたところでやれってことになるだろうが」

「うーん。さすがにパスの練習はひとりでできないから、壁に投げることになっちゃうんだよね」


 それで手元が狂って誤爆したのだろう。


 不意に少年は、いいことを思いついたとばかりに表情を輝かせた。


「そうだ。練習つき合ってよ」

「やなこったい」


 紗弥加は即答した。そんな面倒は御免だった。


「ちぇ。だったらいいや。じゃあね、お姉ちゃん」

「ちょっと待て!」


 紗弥加は三度少年を呼び止めた。


「ん?」

「さっきから聞いてりゃお姉ちゃんお姉ちゃんって! 誰がお姉ちゃんだよ! もしかしてあたしか!? あたしなのか!?」

「そうだよ」


 少年はあっさり言う。そして、紗弥加を指さした。


「お姉ちゃんはお姉ちゃん。お姉ちゃんがお姉ちゃん」

「違う! あたしはお前のお姉ちゃんなんかじゃない!」

「だって、先生に言われなかった? ここではみんな家族で兄弟だから仲良くしなさいって」


 少年は不思議そうな顔で首を傾げた。


「……言われた」

「だから、僕のお姉ちゃんだし、みんなのお姉ちゃん」

「違うって言ってるだろ! あたしを一緒にするな!」


 紗弥加は思わず怒鳴っていた。


 驚いた少年がびくっと身体を跳ねさせた。そして、わずかに顔が曇る。


「……」

「……」

「……ごめん」


 しばしの沈黙の後、先に口を開き謝ったのは紗弥加の方だった。


「う、うん……」


 対して少年は曖昧に答えただけで、それ以上何も言わず、精彩を欠いたもそもそとした動作で窓から外に出ていった。


 それを見送ってから紗弥加はまたベッドに寝転がった。


「……」


 先の少年の去り際の顔と後ろ姿を思い出して、声を荒らげたことを後悔した。


 確かに紗弥加はこの教会にきたとき、牧師先生に「ここにはあなたと同じ境遇の子や、込み入った事情を抱えた子が一緒に生活しています。今日からみんなが家族で、兄弟姉妹です。仲よくしましょう」と優しく言われた。


 しかし、ここにいることが納得できない紗弥加は、ただただ一緒にされたくないという思いだけがあった。

 だからと言って、それをあの少年に怒鳴ってぶつける必要はなかったはずだ。


 しばらくして部屋のドアがノックされた。


「……開いてる」


 少し間をおいてから面倒くさそうに返事をし、起き上がる。


 ドアが開けられ、そこに立っていたのは白い割烹着のようなものを着て、箒とちりとりを持った先の少年だった。


「壁に耳あり障子に目あり柱に白アリー。お姉さん、シロアリ退治はいかがですかー?」

「死ね!」


 紗弥加は力いっぱい枕を投げつけた。





 数日後の日曜日――、


 午前中のこと、紗弥加は喉が渇いたので食堂へ足を運んだ。そこでは牧師先生の奥さん(やはり『先生』だが)が何やらいそいそとお茶菓子の準備をしていた。教会では毎週日曜日に礼拝と日曜学校を開いていて、それが終わると施設の食堂でお茶とお菓子をつまみながら交流の場を持つのが習慣だった。その際に出すものを用意しているのだろう。


 紗弥加はそれを横目で見ながら、おいてあったお茶を飲んだ。ついでにお菓子もひとつ拝借する。


「あ、そうそう、紗弥加ちゃん」


 先生が手を止めて話しかけてきた。


「先日近所に引っ越してきた家のお父さんがね、聖書に興味を持ってくださって、今日、礼拝に参加しているの。あなたと同じ年のお嬢さんも一緒だから、会ったら仲よくしてあげてね。とてもかわいらしい、お人形のような娘さんよ」

「……」


 そんなこと知ったことではない。紗弥加は無視して部屋に帰ろうとした。


 が――、


「先生。……あいつ、何?」


 紗弥加は訊いた。


 食堂から見える前庭で先日の少年が遊んでいるのが見えたのだ。今日も小さな体で大きなバスケットボールを操り、ころころと走り回っている。


 先生はまず「女の子なのだから、もっと女の子らしい喋り方をしなさい」と言ったが、紗弥加はふんと鼻を鳴らしてそれを聞き流した。


「あの子は那智くんよ」

「那智……」


 確かめるようにその名を口の中でつぶやく。


「あなたがここにきてすぐのとき、突き飛ばした男の子よ。覚えてない?」

「……覚えてない」


 言われてみればそうだったような気もする。そうなると先日のことで二度目。悪いことをしたという思いが再び頭をもたげてくる。


「あいつも親が死んだの?」

「さあ、どうなのでしょうね」


 先生はそう返した。


「あの子はこの教会の前に捨てられていたのよ」

「……」

「雪の日だったわ。生後間もないあの子は雪に埋もれるようにして置き去りにされていたの。見つけたときには肺炎を起こしていてね、すぐに近くの病院の入院させて、何とか助かったのよ」

「親は? 捨てた親は見つからなかったの?」


 言いながら紗弥加は、そんなことはわかりきっていると思った。見つかったのならここにいない。

 案の定、先生は首を横に振った。


「……」

「……」


 しばらくの間、紗弥加と先生は外で遊ぶ那智を見ていた。


 やがて那智のところに男の子がやってきて、バスケットボールの真似事をして一緒に遊びはじめた。ボールを奪おうとする男の子と、ドリブルしながらそれを避ける那智。なるほど。確かにゴールんどなくても何とでもなるらしい。


「何であんなふうに笑えるんだろ?」


 那智の屈託のない笑顔を見ながら、紗弥加はそんな疑問を漏らした。


「あの子はよく言ってるわ。『僕には最初から親がいないから、それを失くして悲しいと思うこともなかった』って」

「でも、だからって……」


 それにしたって、誰もが当たり前に持っているものが自分にはないという寂しさがあるはずだ。それを埋めることが容易ではないことを、この数ヶ月で紗弥加は嫌というほど思い知っている。


「『僕には兄弟がいっぱいいるから、寂しいと思わない』とも言ってるわ」

「……」

「それだけ前向きということね」


 気がつくと外で遊んでいる子どもは六人に増えていた。中には小学校高学年の子もいるが、輪の中心は那智だった。


「あたしにもあの子のお姉ちゃんになれって言うの?」


 親の顔も知らない少年の寂しさを埋めるために。


「そうね。それか、あの子に紗弥加ちゃんの弟になってもらうか」

「どっちでも一緒じゃない」


 紗弥加はむっとして返した。


「じゃあ、弟じゃなくてお兄ちゃんがほしくなったことはない?」

「……ない」

「あの子は今ではここにいちばん長くいる子のひとりよ。後から入ってきた子の面倒をよく見てくれるわ。年下も、年上もね」

「……」


 表にいた那智が紗弥加に気づいたようだ。ボールをほかの子に渡し、ひとりこちらに走ってくる。紗弥加はクレセント錠を外し、窓を開けて迎えた。


「お姉ちゃんも一緒に遊ばない?」

「ふん。やなこった」


 また先日のように即答する


「それから、あたしはお前のお姉ちゃんなんかじゃない」


 そして、思い出したように付け加えた。





 それから三年が経ち、紗弥加は中学一年に、那智は小学五年になった。



 ここのところ、紗弥加は荒れていた。

 普段から怒りっぽい、年中反抗期みたいな性格だが、今がまさにピークと言えた。些細なことに腹を立て、周りに当り散らす。自分でもそれは自覚しているし、理由もわかっていた。


 いい加減、自暴自棄になって開けた机の抽斗にはタバコが入っていた。


 それは中学で知り合った素行のよくない友人から押しつけられたもので、吸う気もないまま今の今まで引き出しの中に放置してあったのだ。それを取り出し、封を切る。


 が――、


「あ、ライタがねぇや……」


 悪行を行うために必要不可欠なものが欠けていることに気づいた。


「ま、いいか」


 気分だけでも、と部屋の窓を開け、それを一本くわえた。誰かに見つかっても火がついてないと言い訳をすればいい。


 紗弥加は窓枠に腰かけ、片足を抱えて膝の上に顎を乗せる。


 丁度そのとき――、


「あ~~~っ!?」


 窓の外から聞こえてきた大声に、危うく紗弥加は口からタバコを落としそうになった。


 声の主は那智だった。


「紗弥加姉がタバコ吸ってる!?」

「うるせぇ。悪いかっ」


 先ほどまで用意していた言い訳はどこにいったのか、紗弥加はケンカ腰でそう返した。

言ってしまって引っ込みがつかなくなる。


「悪いに決まってるだろ。タバコなんて不良だぞ」

「いいんだよ。あたしは不良だから」

「……没収」


 那智は紗弥加の口からタバコを奪い取った。


 紗弥加はせめて何か言い返してやろうと思ったが、口をパクパクさせるだけで、意味のある言葉は出てきそうになかった。


 三年前のバスケットボール爆弾の事件以来、何かと「お姉ちゃんお姉ちゃん」と寄ってきていた那智だったが、今では呼び方も『紗弥加姉』に変わり、それなりに生意気でお節介になっていた。


「……なぁ」


 紗弥加は再び膝を抱えた。


「明日なんだろ、出て行くの」

「……うん」


 那智も紗弥加が座る窓の下に腰を下ろした。


 明日、那智は教会を出ていくことになっていた。去年から交流のあった夫婦の養子になることが少し前に決まったのだ。


「そうか。……元気でな」


 言いながら紗弥加は下にいる那智の頭を撫でた。


「うん」

「あたしも、いつかここを出ようと思ってる」

「え?」


 聞き返しながら、那智が下から紗弥加を見上げた。


「それもできるだけ早く。そうだな、中学を出たらすぐがいいな。そのためにあたしは勉強する」

「勉強?」

「そう。勉強して今まであたしをバカにしてきたやつを見返してやるんだ。学校の勉強だけじゃないぞ。ほかにもいろいろ学んで、生きるために賢くなってやる」

「そっか。がんばってね」


 那智が勢いよく立ち上がった。


「僕も応援してるから」

「ん……」

「だったらタバコはやめとかないと」

「そうだな」


 苦笑まじり答える。


「またタバコ吸ってると、飛んでくるからな」

「わかったわかった。お節介なやつだな。わかったから、さっさと行け」


 照れ隠しもあったのかもしれない、紗弥加はしっしっと追い払うように手を振った。


「ちぇっ。行けばいいんだろ、行けば。……じゃあね」

 わずかに頬を膨らませて言った後、那智は走り去った。とととっと駆けていく後姿を紗弥加は呆気にとられたように見送る。

「あいつ、本当に行きやがった……」


 明日からあの姿を見ることもなくなるのだと思うと、やはり少しい寂しい気持ちになった。





 日曜日――

 那智が教会を出て、数日が経った。


 いつも子どもたちの中心で笑顔を振りまき、紗弥加にとっては少し煩くもあった那智が出ていったことで、教会はどことなく静かになったような気がした。寂しさを感じることは覚悟していたが、まさかこれほどとは思わなかった。


 いつものように窓枠に腰掛けながら、あの日の言葉を思い出す。


『またタバコ吸ってると、飛んでくるからな』


 本当だろうか?

 本当だったらいいのに。


 あるはずのないことへの淡い期待を込めて、捨てずにいたタバコをくわえる。


 その瞬間――、


「こら~~~っ!」

「ッ!?」


 紗弥加はタバコを落としそうになるほど驚いた。まるで数日前の再現だ。


「お、お前、何でここにいるんだよ!?」

「何でって……、遊びにきたんだけど?」


 那智はさらりと言った。


「因みに、裏からきたのは驚かそうと思って。……驚いた?」

「そんなことより、お前、千秋の家に行ったんじゃなかったのか? もうここを出たんだろ?」


 もしや何かあったのだろうかと一抹の不安がよぎる。何度か見た千秋の夫婦は優しそうな人となりだったが、実は人格的に問題があったとか、だろうか。


「うん、そうだよ。今の僕は千秋那智だ。でも、実は新しい家が近いんだよね」

「……は?」

「今日もね、お父さんに頼んで車で遊びにきたんだ。がんばれば自転車でもこれるかもしれない」

「……」

「あれ? どうしたの、紗弥加姉」

「うるせぇ! 聞いてねぇぞ、そんなこと! 死ね! もう帰ってくんな!」


 紗弥加は床に落ちていたクッションを力いっぱい投げつけた。

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