挿話 遠矢君ちの家庭の事情
ある日曜日の午前中――、
一夜は勉強をしていた手を止め、机の上の時計で千秋那智との約束の時間が迫っていることを確認した。
今日は昼前に那智と会い、外で昼食を含めて適当に遊んでから、その後、家に連れてくる段取りになっていた。
一夜は手早く外出用の服に着替え、眼鏡もレンズに色のついたものに替えた。
離れである自室から出て母屋へ向かう。すべてが純日本風の屋敷だ。
遠矢一夜は、この家の主人の愛人の子として生を受け、母の死後、ここに引き取られた。
父親は三人の愛人を持ちながら、それぞれをしっかりと養っているという、どう評価していいかわからない人間であるが、一夜に対しては正妻の子らと同じように愛情を注いでくれている。また、遠矢姓のままでいるという一夜の希望も了承している。
しかし、面白くないのが正妻のほうで、彼女からしてみれば一夜は夫がよその女に産ませた子ども。そんな子を家に迎え入れて、心穏やかであるはずがない。
見かけの上では何でもないように装いながら、あからさまな拒絶をところどころで見せていた。
一夜に与えられた離れもそのひとつだ。
あれやこれやと理由をつけながら、部屋が二間、バス・トイレに簡易のキッチンまでついている親切設計。これはあまり母屋に足を踏み入れるなという意思表示に他ならない。
そういった生い立ちと現在の環境から、おかげでもとから世の中に対して拗ねているような性格だった一夜は、ここにきてそれはほぼ固まりつつあった。
「あら、一夜。出かけるの?」
母屋の廊下を往く一夜に声をかけてきたのは、三人いる義姉のひとりで、この家の長女だった。なお、当然ながら、義母は用がない限り話しかけてくることはない。
彼女はパンツスーツに身を包んでいた。これだけを見ればどこかのOLのようだが、実際は一流大学のドクターコースに在籍している。
「義姉さんは研究室ですか?」
「そ。今、佳境で日曜も何もあったものじゃないのよ。大変だわ」
大げさなため息を混ぜながら言うが、基本的には研究が好きなのだろう、どこか楽しそうにすら見える。
「気をつけて行ってきてください」
「ええ。貴方もね」
そう言って廊下を足早に歩いていった。
行き先は同じ玄関のはずだが、一夜が次の角を曲がったときにはもう姿が見えなくなっていた。歩く速度に大きな差があるようだ。
「ん? 一夜、どこか行くの?」
次に現れたのは、二番目の姉だった。
姉たちの中でも突出したファッションセンスを持つ彼女は、今日も今日とて流行を身に纏っている。
長女が真っ当な道を進み、いずれは父親の仕事の手助けをすると宣言していることもあって、彼女は好き勝手にやらせてもらっているようだ。高校を卒業した後は、ファッション関係の専門学校に通っている。
因みに、一番目の姉も二番目の姉も聖嶺学園の卒業生だった。これは父親の主義と拘りの結果で、一夜の進路の半分はこれによって決められたといってもいい。
「まぁ、そんなとこ」
応じる一夜の言葉遣いが一気に崩れる。
「おっやぁ? もしかしてデートかなぁ?」
興味津々の様子で一夜の前に立ちはだかる。
「クラスのやつと会うだけや」
「じゃあさ、この前、あたしが選んであげた服、着ていきなさいよ」
「接続詞がおかしい。……それはまた今度な」
面倒臭そうに答えて、一夜はその横をすり抜けようとした。が、彼女は素早く行く手を遮り、また正面に立ち塞がった。
「……」
「……」
もう一度、今度は反対側から抜けようとする一夜。しかし、またしても姉は大きく一歩跳んで先回りした。
「……」
「……」
「……わかった。着ればええんやろ」
結局、一夜が折れて、廊下を引き返すことになった。
離れに戻って、また着替える。
ノースリーブのシャツに、プリーツ巻きスカート付きのパンツ。
自分ではどこがいいのかわからないが、あの姉が絶対似合うと自信を持って買ってきたのだから、本当に似合うのだろう。こういう方面では彼女のセンスを、一夜は全面的に信頼していた。
自室を出るとご丁寧に義姉が外で待っていた。一夜の姿を見て、満足そうに笑みを浮かべる。
「じゃ、頑張って行ってきなさいね」
そう言い残して去っていく。
「……」
一夜は頭を掻いた。
再度着替え直してもいいのだが、またどこかで待ち伏せしていそうな気がしないでもない。そして、それ以上に着替えることが面倒だ。
一夜はそのまま出かけることにした。
何分か前に一度歩いた廊下をまた歩いて玄関へと向かう。今度は誰にも会わずに辿り着いた。
玄関に腰を下ろし、ブーツを履く。
このブーツも先ほどの義姉に押しつけられたものだ。わざわざ服に合わせてこれを履こうとしている自分に気づき、苦笑する。
ふたりとも一夜のことを可愛がってくれているのだ。
それは一夜がこの家に迎えられたときからそうだった。異母弟である一夜が自然にとけこめるように気を遣ってくれている。母親がああいう態度であるからこそよけいに。
一夜にしてみれば鬱陶しいことこの上ないのだが、そのあたりの気持ちも察せてしまうだけに、できる範囲でそれに応えることにしている。
と――、
「一夜さん」
三度、声をかけられた。
いつの間にか背後に立たれていたことに、一夜がわずかに驚く。
「今から外出?」
「ちょっと友人と約束があるもので」
背中を向けたまま返事をする。それからブーツを履き終えると、立ち上がり、振り向いた。
そこに立っていたのは、ふたつ年上の三番目の義姉だった。
整った造作に長い黒髪、静か過ぎる物腰が、どうにも全体を作りものめいたものにしている。和装が似合うせいか、まるで日本人形だ。
「そう。なら、あまり遅くならないように帰ってきなさい。遅くなるとまたお母様の機嫌が悪くなるわ」
確かに以前そのようなことがあって、ずいぶんと小言を言われた覚えがある。
「大丈夫です。午後の早いうちにそいつ連れて戻ってきますので」
「お友達というと……千秋君?」
「……まぁ」
瞬間、わずかに顔をしかめる。
彼女の口から那智の名が出たことに名状し難い感情が生まれた。
「そう。それはいいことだわ。お茶菓子を用意しておくから、帰ったら声をかけて」
「……わかりました」
一夜は彼女が苦手だ。尤も、苦手というなら上のふたりの義姉もそうなのだが、それ以上に目の前の彼女がいちばん苦手だ。
思えば三人の義姉の中で最初に顔を合わせたのが彼女だった。
四年前――
母親が交通事故に巻き込まれて呆気なく他界したのは、一夜が小学六年生のときだった。
由緒ある旧家にして事業家の愛人として公然と囲われていた母を嫌う親族も多かったが、それでもかたちばかりのつき合いがあったものが集まり、葬儀は淡々と行われた。
ひと通りのことが終わり――遠矢親子に与えられたマンションの一室。
そのリビングでこれからどうするのか――主に残された子ども、つまりは一夜の扱いについて、が親戚一同で話し合われていた。
一夜は当時から賢い子だった。母がどういう立場だったかをある程度理解していたし、涙も枯れて部屋の隅でぼんやりとうずくまりながらも、耳に入ってくる話の中に時々金の話題が混じっていることも理解できていた。
曰く、保険金はどれくらい下りるのか。曰く、例の金持ちから何かの名目で取れないものか。
――どうでもいい……。
そう投げやりに思っていたとき、その男はこの場に飛び込んできた。
高価なビジネススーツに身を包んだ男は、一夜の父だった。
父とは今まで数えるほどしか会ったことがない。母は何度も会う機会を設けてくれていたが、対して一夜があまり積極的ではなかったので、次第に会わないことが当たり前になっていったのだ。
別に父が嫌いというわけではない。かと言って好きでもなく、ただ単に自分の人生に関係のない、別世界の人間に見えていただけのことだった。
父は一夜の親戚には目もくれず、一直線に遺影と祭壇の置かれた和室に向かった。
声が聞こえた。「なんということだ。私が日本を離れている間に!」。そして、しきりに謝っていた。おそらく今まで外国に行っていて、帰国するなり訃報を聞き、取るものもとりあえずここに飛んできたのだろう。
と、そのとき一夜のそばに誰かが寄ってきた。
「貴方が一夜さん?」
名を呼ばれ顔を上げると、そこに長い黒髪の日本人形のような少女がいた。中学生なのだろう、セーラー服姿だった。
そして、
「ひとりで偉かったわね。うちにいらっしゃい」
彼女は一夜の手を取り、優しく微笑んだ。
彼女はひとり残されて途方に暮れているであろう一夜を心配して父についてきたに違いない。だから、真っ先に声をかけたのだ。そうして一夜は、彼女によってこの家に迎え入れられることになるのである。
だが、一夜はその彼女をこそもっとも苦手としている。
さっさとこの場を離れることにした。
「いってきます」
「いってらっしゃい。早うお帰り」
彼女もそんな一夜との会話を無駄に長引かせるようなことはせず、素直に見送る。
(こういうところがな……)
改めて思う――やはりこの姉が苦手だ、と。
三人の中でいちばん優しくて、でも、それを押しつけることなく、必要であればちゃんと叱りもして――いつもつかず離れず見守ってくれるから。
一夜は戸を開けて外へ出た――。
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