5.
最近、僕は少しおかしい。
片瀬先輩と会うと心が乱れる。
そんなこと前からだったけど、最近、加速度的にそれがひどくなってきている。
先輩が男と一緒にいるのが嫌だと感じる。
そんなこと前はなかったのに、最近、そういう光景を見ると気持ちがささくれ立つ。
先輩にだって男の友達もいれば、クラスの男子と話だってするだろう――そう頭では理解しているのに、感情が納得しようとしない。
思考と感情が上手くリンクしないのだ。
何だか苛々してくる。かと言って、その感情を上手く処理できるわけでもなく、結局は散々持て余した挙げ句、まったく関係のないところに理由をこじつけてぶつけてしまう。要するに八つ当たりだ。
そんな自分がたまらなく嫌で、先輩と会うのを無意識に避けるようになっていた。
なのに、気がつけば片瀬先輩の姿を目で追い、先輩の目がこちらに向きそうになったら慌てて隠れる。そんなことを繰り返した。
「なにやってるんだろうね、僕は」
いいかげん自分で自分のやってることがわからなくなって一夜にこぼす。すると、一夜はいつも通り本から顔も上げず、無感動な声で淡々と答えた。
「ああ、そら嫉妬や。お前は片瀬先輩のことが好きで、近くにおる男に嫉妬しとるだけや」
「……」
直球だった。
なるほど。直球は直球でも、剛速球だと打ち返すことができないものらしい。
「せっかくやからひとつアドバイスしといたるわ」
「なに?」
「いくら那智でも、こいつ嫌いや、て思たことあるやろ?」
いくら僕でもってどういう意味だ?
確かに今まで生きてきた中で、どうしても好きになれなかった人は何人かいたが。
「そういうときはたいがい向こうもお前のこと嫌いやわ」
「つまり、逆もまた真なり。ん? この場合は裏かな? いや、それはいいや。つまり、僕が好きなら、向こうも僕を好いてくれているってこと?」
「と、思い込むとストーカーのはじまりやから気ぃつけえよ」
アドバイスってそれですか。
「いちや……」
僕は脱力して一夜の机に突っ伏した。一夜が素早く本をよける。
「どけ、邪魔や」
「そう思うなら、もっとマシなアドバイスして」
僕は机を不法占拠したまま言う。
「なに駄々こねとんねん。敵に塩を送るような真似はせん」
「……」
んー? 何だろう? 何か今、とんでもない爆弾発言を聞いたような気がするぞ。
机に伏せたまま考え込む。
一夜は、そんな僕の後頭部に本を置くと、何ごともなかったかのように読書を続けた。
今、学園にひとつの噂が流れている。
曰く「片瀬司は妹尾康平とつき合ってるらしい」。
「妹尾康平って、誰……?」
ある日の放課後、化学実験室の掃除をしながら僕は友人に訊いた。
「なに、お前、知らないの?」
友人は呆れたようにそう言ってから、簡単に説明してくれた。
三年四組、普通科通常クラスながら陸上部に所属。種目は走り幅跳び。
ルックスはまあまあだけど、ユーモアと親しみやすいキャラで人気があるらしい。つまり、容姿よりも性格で人を引きつけるタイプ。この対極にあるのが圧倒的なルックスと恐ろしく愛想のない性格の一夜だろう。ただ、妹尾康平の場合、主に女子生徒中心に人気があり、男子生徒にはあまり人気がないとのこと。
「しかも、誰かがその噂の真偽を確認したら、片瀬先輩は否定しなかったって話だ」
「へえ……」
誰かって誰だよ?
「へえって、お前ね、本当に噂には疎いのな。俺もそのへんのこと千秋に訊きたかったんだけど、その様子だと知らないみたいだな」
「何で僕?」
「だって、お前、片瀬先輩と仲いいじゃん。千秋なら何か聞いてるかと思ってさ」
「ああ、そういうことね。そりゃあ会えば話はするけど、特別仲いいわけじゃないよ」
さらりと嘘を言う自分に詐欺師の才能を感じた。新しい自分発見。これからは僕のことをネオ那智と呼んで下さい。
「それにね、仮に親しかったところで、それはまた別の話じゃない? その手の話は突っ込んだこと聞けないよ」
「そうか」
「うん、そう。それよか早く終わらせよう」
僕はあまり楽しくない話題に切りをつけ、黒板消しを持って窓へと向かった。両の掌にひとつずつ装着し、バンバン叩くとチョークの粉が舞う。
僕はこのときほど目のよさを呪ったことはなかった。それとも、見たくないものほど目に入ってくるというあれか。と言うのも、窓から見える渡り廊下を片瀬先輩が歩いているが見えたのだ。
そして、その横には男子生徒の姿も。
ふたりは大量の本を平積みにして持ち、こちらの校舎に向かってきていた。
通り過ぎていく先輩を黙って見送る。手は意識と乖離して、機械的に黒板消しを叩き続けている。
やがてその姿が見えなくなった。
……。
……。
……。
「はい、僕の分終わりっ。後は任せた」
僕は黒板消しをもとの場所に戻すと、置いていた鞄をひっ掴んで教室を飛び出した。後ろで友人が何やら喚いていたような気がするが聞かなかったことにする。耳は今日お休みです。あしからず。
(あの様子だと図書室かな?)
本をたくさん持っているから図書室というのも安直な発想だが、この校舎には図書室も含めた特別教室が集まっていて、あんなたくさんの本を運び込むところと言えば図書室くらいしかない。おそらく間違っていないと思う。
辿り着いた図書室にはほとんど人がいなかった。貸出カウンタに図書委員がふたり、閲覧席で勉強している生徒が数人。あわせて十人もいない。沈黙と静寂を美徳とする室内は足音が立たないように絨毯が敷かれていて、とても静かな空間を維持している。
その中でかすかに話し声が聞こえた。書架のほうからのようだ。僕は勉強している生徒の邪魔をしないように注意しつつ近寄る。
話し声はやはり片瀬先輩たちのものだった。僕はそこから書架をひとつ挟んで隣の通路に隠れる。
書架は枠組みだけのありふれたスチールラックで、そこに本を背中合わせに収めてある。
僕は息をひそめ、話し声に耳を欹てる。
(って、端から見たら、今の僕、すっごい怪しいな)
どうやら一夜が言ったのとは別方面からストーカーに近づきつつあるらしい。ちょっとショックだ。
さて、問題のお隣さんはというと、全体像はわからないが本を片づける先輩と、それに話しかける男子生徒という構図のようだ。
「あ、そうだ。知ってる? 俺たち、つき合ってるんじゃないかって噂があるらしいよ?」
あー、この人が今話題の妹尾康平氏なわけね。
『あ、そうだ。知ってる?』なんて切り出してるけど、聞いてる僕からしてみれば話したくてウズウズしていたようにしか思えない。
「ええ。そうらしいわね」
先輩は極めて冷静に返事をする。
カタン、とスチールラックが音を鳴らした。先輩がまたひとつ本を片づけたようだ。
「まぁ、ほら、誤解なんだけどさ。どうせならいっそのこと、俺たち、つき合わない?」
「……」
(あ、こんにゃろ。外堀から埋めてきやがった……)
僕の中で勝手な想像が広がる。
例の噂を流したのはほかでもない妹尾康平自身だ、たぶん。それが学園中に浸透したのを見計らって今みたいな提案をし、片瀬先輩を墜としにかかったのだ。
もうひとつ推測を重ねさせてもらえば、『誰かがその噂の真偽を確かめたら、片瀬先輩は否定しなかった』という部分もこいつの仕業だ。それを聞けば"誰かが確認したこと"をもう一度本人に確認しようと思う人間はいない。
基本的にこういう小細工をするやつは好きくない。
悪いけど極めて原始的手段に訴えさせてもらおう。
そう、鉄拳制裁あるのみ。
僕は握り拳を固め、思いっきり殴ってやった。……本を。
「どわっ、何だ!? 本がっ!?」
僕が殴りつけた本は向こう側の本を押し出し、そして、飛び出した本が妹尾康平に命中する。書架の向こうでドサドサと音がした。
「悪いけど、わたし、回りくどいことする人は嫌いなの」
慌てる妹尾康平を尻目に、片瀬先輩はぴしゃりと言った。
さすがだ。しっかり見抜いていたらしい。
「今日は手伝ってくれてありがとう。そのことには素直に感謝するわ。それからその本はちゃんと片づけて帰ってね。図書室のマナーよ?」
「ま、回りくどいって何だよ!? それにこの本は勝手に飛び出してきて……って、ああっ、くそっ」
妹尾康平は何やら反論しようとしたみたいだが、先輩がさっさと帰ってしまい、最後には悪態をついていた。
小物らしい最期だ。いや、死んでないけど。
「おい、そこに誰かいるのかよ」
やば。早々に退散するとしよう。
テキトーな本を持って閲覧席に座り、知らん顔で妹尾康平をやり過ごした。
座ったばかりですぐに席を立つのも変なので、もうしばらく読書を続けていた。が、仕方なくやる読書なんて面白くないもので、五分もすれば飽きて欠伸が出てきた。……もうそろそろいいだろう。そう思ったそのとき、
どん
と、正面の席で大きな音がした。
見ると机にこれでもかと言うほど大きく、分厚い本が置かれていた。そして、そこに立つ片瀬先輩――
「……」
「……」
すでにただならぬオーラ全開だった。普通に怖い。
片瀬先輩はゆっくり座ると、片肘を突いた状態でその本をパラパラとめくりはじめた。せめて何か言ってほしい。息苦しくて窒息しそうだ。
「那智くん、さっき、向こうの書架にいなかった?」
やっと先輩が口を開いた。普段より声が低い。
「い、いえ……」
「そう。じゃあ、わたしの勘違いだったのね」
いえ、おそらく勘違いでも何でもないかと。
先輩はそれきり黙る。
僕と先輩の間に流れる空気が密度を増したような気がした。きっと性能のいい圧縮ソフトを使っているのだろう。生憎、僕は解凍ソフトを持ち合わせていない。
それからしばらくして、先輩はまた重苦しい空気を裂いて言葉を紡いだ。
「さっきね、本が勝手に飛び出してきたの。どういうことかしら?」
「そ、それは、ほら、あれですよ。ランページゴースト……じゃなくて、ポルターガイスト?」
何で疑問型なんだ、僕。
先輩は相変わらず本に目を落としたままページをめくっている。て言うか、今度は聞きっぱなしで返事すらなしですか。
「……」
「……」
苦しいがここは嘘を貫いて乗り切るしかない。幸い先ほど詐欺師の才能を開花させたばかりだ。
「ああ、それからね、さっき妹尾君からの交際の申し込みみたいなのがあったけど、きっぱり断ったわ」
「そのようですね。僕も聞いてま、し、た……。は、ははは……」
「……」
「は、はは……」
そんな才能はなかったらしい。
あー、えっと……もしかして今、僕ものすごくでっかい
空気がさらに重苦しくなって、見えない圧力が体にのしかかってくる。ただ単に後ろめたさからくる自責の念とも言うけど。
ぱたん、と先輩が前触れもなく本を閉じた。そのままそれを押して、僕のほうに寄せる。そして、静かに言った。
「これ、返してきて」
「……はい」
さすがにこの頼みを断れるはずもなく、僕はその本を受け取るとそそくさと逃げるように書架へと向かった。
次に帰ってきたときが怖いが、そのときのことはそのとき考えよう。
(いや、ホントまいった。しっかりバレちゃってるよ)
やはりストーキングについては素直に謝っておくべきか。まぁ、謝ったところで許してくれるとは限らないけど。先輩って微妙に
しかし、いったいこの嫌がらせのように巨大な本は何の本なんだろう。そう思って見てみると表紙には『数学事典』とあった。先輩、こんなもの本当に読んでたのか? 実際、今までほとんど使われた様子がなく、うっすらと埃を纏ってる。
背表紙に貼られてるシールを見て片づける場所を探す。すると、どうだろう。どんどん奥のほうへ入っていって、気がつくと図書室の最奥部まできていた。袋小路の突き当たりがこの本の定位置らしく、そこだけぽっかり空いている。僕はそこに本を戻した。
本が気持ちよく収まったことに満足し、さぁ戻ろうと振り返ると――
「……っ!」
そこに片瀬先輩が立っていた。
僕の行く手を阻むように、通路の真ん中で仁王立ちだ。思わず逃げたくなったが、ここは袋小路。唯一の逃げ道は先輩が塞いでる。つまり、これは「ここを通りたかったら、わたしを倒していくことね」というやつか。いや、もちろん違うだろうけど。
片瀬先輩は相変わらず全力で不機嫌だった。きっと怒っているのだろう。
なのに。
なのに、僕は先輩に見惚れていた。
吸い込まれそうにきれいな瞳。
軽くウェーブのかかったふわふわの髪。
不機嫌に尖らせていても色褪せない桜色の口唇。
先輩の何もかもが僕を魅了する。
それと同時に、僕は僕がおかしくなった理由を思い知らされた。
(そうか、僕はマゾだったのか)
て、自分でオチつけてどーする。……見事なまでの欺瞞と誤魔化しじゃないか。ああ、そうだよ、一夜。君のおっしゃる通りなんだよ。
でもさ、そんなのダメだろ。相手はあの片瀬先輩だぞ?
「どうかしたんですか?」
「どうもしないわ。ただ……」
その苛立たし気な声を聞いて、その言葉を言葉通りに取る人間は少ないだろう。
「ただ?」
「面白くないだけ」
「……」
そりゃあ大変だ。
「ここにきたって面白いわけじゃないでしょうに」
「でも、今ここにいるのはわたしと那智くんだけだわ」
ここなら誰にも邪魔されずに
しばらくの間、先輩は僕の顔を見つめていた。
それからおもむろに大きく息を吸うと、それと等量と思われる大きなため息を吐いた。何だか呆れたような響きを含んだ、聞こえよがしのため息だった。
「このところわたしを避けていたどこかの誰かさんについては、追いつめたからこの際おいておくことにするわ」
「……」
「聞いてくれる? 素朴な疑問よ。さっきの妹尾君もそうだけど、どうしてわたしって好きでも何でもない男の子ばかり言い寄ってくるのかしら?」
疲れたようにそう言うと、先輩は書架にもたれた。
そんなの簡単だ。言うまでもない。この学園には先輩に惹かれ、憧れ、好きになる男はごまんといるのだ。どこかの誰かさんのように。
「好きな男だけが寄ってきたら楽でしょうね」
僕も先輩と並んで書架にもたれた。
肩が触れそうな、危険な距離――
どこか懐かしさを感じるやわらかい雪の、警告の香り――
「あ、でも、あれか。くる男くる男、みんな好きなんだから、それはそれで大変か」
「あら、失礼ね。わたし、そんな気の多い女じゃないわ」
「それは失礼しました」
冗談まじりの応酬の後、僕らは笑う。
が、それも長くは続かなかった。理由はわかっている。僕が片瀬先輩を避けていたことで、間に溝ができているのだ。僕も先輩もそれを見て見ぬふりしているから会話が楽しめない。ぎくしゃくしてくるのだ。
「そう言えば那智くん、好きな女の子はいないのよね?」
「そのようですね」
まるで他人事のような返事。
確かに以前、そんなことを言った気がする。じゃあ、今はどうだろう? たぶん、あのときとは違う答えなのだろう。だけど、そんなことは言えるはずもない。
「那智くんの好きな女の子って、どんなタイプ?」
「そうきましたか」
「うん。ちょっと興味ある、かな」
自信なさげな声で先輩は言う。
さて、なんと答えたものか。もしかしたらここが本日の、いや、人生の山場なのかもしれない。
「好きなタイプ、か……」
時間稼ぎのようなひと言を挟む。
そして――
「例えば先輩みたいな人、とか?」
沈黙。
先輩の反応は、ない。
ただ、僕の体の中で心臓の音だけがうるさかった。
三十秒? それとも一分だろうか? 無音の時間がたっぷりと過ぎてから、ようやく先輩は口を開いた。
「そう。趣味が悪いのね」
たったそれだけだった。
後悔半分。安堵半分。僕はそんなため息を僕は吐く。
「かもしれません。……先輩は? 先輩の好きなタイプはどうなんですか?」
「わたし? わたしは、そうね……」
そこで先輩は一度言葉を切り、少し間を空けてから次句を継いだ。
「那智くんみたいな男の子、かな?」
「それは趣味が悪い」
そして、再度沈黙。
……。
……。
……。
静寂の中、僕らは肩を並べて書架にもたれている。
ふと、だらりと下げた手の、その甲の何かが触れた。
先輩の手だ。
それに気づいた僕は――その手を、そっと握った。
「……」
何をやってるんだろう。相手は先輩だというのに。
ああ、違う。
先輩だからだ。先輩以外の誰にこんなことするもんか。
けれど。
けれど、そんな僕の気持ちなんか先輩には関係なくて。
つないだ手はあっさりと解かれてしまった。
「……」
よぎるのは後悔。なんてバカなことをしたのだろう。さっきまでならまだ冗談ですますことができたのに。
が、少しの間の後、今度は先輩のほうから手をつないできた。一本一本、指をからめるようにして。
僕らはつないだ手を強く握り合った。
「……か、帰ろうか?」
少し固い発音で先輩が聞いてくる。
「そう、ですね。帰りましょう。……その、一緒に」
「一緒に?」
「一緒に」
ほんの少し先輩が考え込む。
「ええ、そうね。そうしましょ」
僕たちの中で確実に何かが変わった瞬間だった。
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