第21話 連れ去られる

 千冬の父親は、夜月が病院の裏口から出て来て、車でどこかへ行ってしまうまでの様子を全部見ていた。

 千冬が病室に一人きりになったのを知って、彼は用意してあった見舞い用の果物かごを持って、車を降りた。

 何くわぬ顔でナースステーションに立ち寄り、看護婦の一人に千冬の病室の番号を聞き出した。リノリウムの廊下にぺたぺたとスリッパの音を響かせながら、彼は千冬の病室に向かった。個室の前で、患者名を書いたネームプレートに∧榎原千冬∨とあるのを確認して、彼は出来るだけ音を立てないように静かにドアを開けた。

 千冬のベッドの横には椅子が置いてあり、そこには女性が座っていた。

 ん? 千冬は病室に一人で居ると思っていたが……まあいいか。

 ノックもせずに入って来た見たこともない男に、依子は少し眉をひそめて訊ねた。

「どなたですか……?」

 父親は、依子の問い掛けには何も答えず、ドアをそっと閉め、彼女に歩み寄って、持ってきた果物かごをベッドの枕元の棚に置くと、にこにこと笑い掛けながら、不審に顔をしかめて立ち上がった依子の横っ面を思い切り殴った。依子がくらついて壁に凭れかかったところを、続けざまにみぞおちに強烈なパンチを喰らわせた。依子はその二発で、意識を失って床に倒れた。邪魔者をあっさりと片付けてしまってから、彼は千冬の様子を窺った。彼女はその物音にも目を覚まさず、眠ったままだった。

 彼は、自分の顔を目一杯千冬の横顔に近づけて、そうして、頬を叩いて彼女を起こしにかかった。

 何度か頬を張ると、千冬はぼんやりと目を覚ました。彼女の視線の先は天井を追っていて、まだ彼には気付いていない。

「千冬……。千冬……」

 小さな声で呼び掛ける。

 千冬は、目は覚ましていたが、意識がまだきちんと戻ってきていなかった。

 ……どこか、遠くの方から声が聞こえてくる。声は、自分の名前を呼んでいるようだ。ん? この声には、どことなく聞き覚えがある。そういえばこの声は、夜月の声でも、あるいは依子の声でもない。誰か男の人の声だ。誰だろう? 声がする……。

 彼は千冬の視線の先を遮るように、彼女の真正面に自分の顔を持っていった。千冬の瞳孔が収縮して、彼に照準が合い、網膜に映るその像が鮮明になる。薄れてぼんやりとしていた影が、次第に明確な像を結び、千冬は相手の顔をはっきりと見ることが出来た。

 初めは、誰だか全く分からなかった。

「千冬、おはよう。誰だか分かるかい? お父さんだよ」

 ……誰、この人?

 嫌だ。分からない。分かりたくない……。

 目の前に居る人のことを、誰だか分かりたくない。

 でも、ひょっとして!

 千冬は、相手が誰なのか気が付いて、目を見開き、大きく息を呑んだ。

 意識がまどろみという深海から急激に引き上げられる。

 千冬が自分の事を確認したのを悟って、父親はいやらしい笑みを浮かべた。

「おはよう、千冬。ご機嫌だな。こんな時間まで寝ているなんて。とうとうお父さんが迎えに来てあげたぞ。さっ、一緒に行こう。一緒に井本君の所へ行こう。お父さんが連れていってあげるからな」

 千冬は、恐ろし過ぎて声が出せなかった。顎の筋肉が言うことを聞かない。ここは病院。周囲には大勢の人が居る。叫べば誰かがすぐに助けに来てくれるだろう。

 叫べ。助けを呼べ!

 だが……。

「ちょっとでも大声を上げたら殺すからな、千冬!」

 父親のこの一言で、千冬の抵抗する気力は一瞬にして消え失せてしまった。

 助ケテ。

 誰カ助ケテ……。

 彼女のその叫び声は、現実的には音として空気を伝わることはなく、彼女の心の襞であちこちと反射を繰り返し、その中で虚しく響き渡った。

 助ケテ。

 夜月、助ケテ!

 父親は、乱暴に点滴のチューブを千冬の腕から引っこ抜いた。それから、軽々と千冬を持ち上げてベッドから降ろし、彼女に自分が着てきたコートを羽織らせた。

「分かってるな、千冬。騒いだら本当に殺すからな!」

 改めてそんなことを言われなくとも、千冬にはもう逆らう気力はなかった。

 うなだれる千冬を連れ、慎重に部屋を出て、彼女を担当していた医師や看護婦などに気付かれることもなく、父親はまんまと病院から抜け出した。

 乱暴に千冬を車の助手席に乗せてから、自分も車に乗り込み、鍵をロックした。そして彼は、後部座席から小さなモニター付きの受信機を取り出した。必要になると思って、町外れの小さな電気店で、その追跡装置一式を事前に購入してあった。夜月の車の下には、一週間ほど前から小型の電波発信機が取り付けてある。これで、夜月が今どこにいるのか分かる。

「ふむふむ。井本君は今、誰かの家に居るらしいな。きっと、赤い鞄を探して、また誰かの所を訪ねて回っているんだろう。探し物は近いのかな。さてと、その前に腹ごしらえでもしようか。なあ、千冬? お父さんと一緒にブレックファーストってやつに行こう」

 父親は事が上手く運んで機嫌を良くしていた。

 今や彼の関心は既に千冬から赤い鞄に移ってしまっていて、彼女を昔のように虐待することなど最早どうでもよくなってしまっていた。しかしながら、千冬は赤い鞄を手に入れた夜月を脅すのに必要だった。

 千冬は、突然襲ってきた不幸という流砂に意識が流されていくのを感じた。意識はその流れゆく小さな砂粒と混同して、それらはやがて砂嵐となり、心の中に暗幕を張る。

 寒イ……。

 身体ガ寒イ。

 これは、本当に身体が寒いのだろうか?

 それとも、寒いのはあたしの心?

 色々な感情が曖昧なままに千冬の中に渦巻いたが、それらは、はっきりとした思考の形を成さなかった。

「お父さんはね、もうすぐ人類最高の力を手に入れるんだよ。それはね、無敵の神の力だ。それを手に入れる為には、お前に少しだけ働いてもらわなくてはならないんだ。だから、今すぐにお前に死なれては困るんだよ。でも、それを手に入れたら、その時は、それこそお前のことはもう必要ないかもしれないな。だって、お父さんは神になるんだからね。お前には関わっていられなくなっちゃうかもしれないよ。そうなったら、お前は殺してしまうけど、それでもいいかな? いいよね、千冬? お前なんか、この世から居なくなってもいいよね」

 千冬は虚ろな目をしたまま、自分の左手首に巻かれていた包帯を見つめた。

 ドウシテ……?

 ドウシテアタシハ楽ニナレナイノ? ドウシテ、アタシヲ死ナセテクレナイノ? モウ嫌ダヨ。コンナ目ニ遭ウノハ。コンナ怖イ思イヲスルノハ、モウ嫌ダ……。

 ダカラ、アタシハ早ク死ニタカッタノニ。ドウシテナノ? ドウシテ、アタシノ隣ニコイツガ居ルノ?

 夜月……夜月ハドコニ居ルノ?

 ドコ? ドコナノ? 夜月……。

 それから、父親は弁当屋の前に車を停めて、千冬が逃げ出さないかどうか始終見張りながら、二人分の弁当を買った。

「ほらっ、千冬。出来立てのほやほやだよ。お前も体力が落ちてるだろうから、早くお食べ。今日という素晴らしい日のお祝いに、ちょっと贅沢して、一番高い豪勢なやつを買ったんだ」

 父親が弁当をがっついている横で、千冬は膝に乗せられた包みをじっと見ていた。弁当の熱のせいで膝は焼けるように熱くなったが、彼女はそれを払い除ける元気もなかった。

 父親は自分の分を食べ終えると、千冬の方を見た。

「なんだ、食べないのか? じゃあ、お父さんが食べてあげるよ」

 そう言って、父親はもう一つの方の弁当も全部平らげてしまった。彼は、食事を終えて満足そうにげっぷをした後、さっきからずっと見ていたモニターから目を離して、何度か納得したように頷いた。

 夜月は初めの場所から移動して、また別の場所へ向かったようだった。だが、今度はその場所から、なかなか次の場所に移動しない。どうやら、長く居る必要が出来たらしかった。例えば、赤い鞄を手に入れる為にそこに車を置いて出掛けなければならなくなったとか。

「ふむ。井本君は、とうとう鞄を見つけたのかな。だとしたら、なんていいタイミングなんだ。ちょっと行ってみようか。何か分かるかもしれないしね」

 父親は、ゆっくりと車を走らせて、夜月が車を停めていた駐車場までやってきた。すると、入れ替わりに夜月の車が出ていくのが見えた。彼は慌てずに、一旦車をその駐車場に停めた。夜月はまたどこかへ向かったようだった。

 父親は車を停めてから、少し空気を吸おうと思って外へ出た。夜月が移動しているのなら、彼がどこかへ落ち着くまで、また待たなくてはならない。

 今日も夜月に収穫が無いのであれば、父親にとっては少し面倒なことになる。夜月が赤い鞄を探し出してくれるまで、何日でも待たなくてはならないからだ。しかし、そうはならないような気がしていた。彼の見立てでは、夜月はそろそろ赤い鞄を見つけ出す頃だった。父親は、それを横取りして、不死身という何者に対しても無敵の力を手に入れ、世界の全てを自分の思い通りにしてやろうとほくそ笑んでいた。自分が不老不死になった時のことを想像すると、気違いじみた笑いが込み上げてならなかった。

 彼は周りを良く見回した。そして、少し推測してみる。

 何故あいつはこんな所に長々と居たんだろう? 待てよ。この寺には何かありそうだ。そんな雰囲気がする。あいつはまた、次の誰かの所へ向かったのかもしれない。だが、どうも今回ばかりはいつもと違うような気がする。あの小僧はまたここへ戻ってくるのではないだろうか。赤い鞄を手に入れる為に必要な、例えば、のこぎりだとか金槌だとかを手に入れて。

 彼は慌てて車に戻り、モニターで夜月の車の動きを観察した。

 夜月の車は、この寺からほど近い場所で停車し、五分程した後でまた動き出した。方向的には、再びここへ戻ってきているようだった。そのまましばらく待っていると、案の定、車はまたこの駐車場に戻ってきた。

 急に暴れ出されることのないように、父親は千冬の身体を押さえつけて、夜月に気付かれないように車の中で身を潜めた。夜月は相当急いでいる様子で、車の中から大きなリュックサックを取り出して、脇目もふらずに階段の方へ走って行ってしまった。

 父親の口元が醜く歪む。

「どうやら、井本君は探し物を見付け出したようだよ。偉いね、お前の彼氏は。でもね、お前の彼氏は今から大変なことをしようとしているんだ。神の力を手に入れようだなんてね。そんな大それた事をする悪い子は、お父さんが直々に懲らしめてやらないとな」

 父親は、千冬を無理矢理車から連れ出し、彼女の腕を掴んで、夜月の後を追って歩き始めた。

 歩いている間中ずっと、父親は、まがまがしい呪詛の数々を千冬の耳元で囁き続けた。

「千冬、お前はなぜ生きてるんだ? 生きていて幸せか? 何か楽しいのか? お前が生きていることに何か意味はあるのか? お前は誰かの役に立ってるのか? お前なんかが誰かを幸せにしてやれるのか? 本当の所を教えてやるよ。お前みたいな屑はな、世の中の誰からも必要とされてないんだよ。お前の彼氏だって、本当はお前の事を邪魔だと思っているんだよ。自殺しようとしたんだろ。だったら、どうしてそのまま死んでしまわないんだ。どうしてまだ生きてるんだ。お前は何の価値も無い人間だ。お前は虫けらなんだよ。そんなことぐらい、お前も自分で分かってるだろ? お前はこの世の中に必要じゃあない。お前は誰からも愛してはもらえない。お前は永久に幸せになんかなれないんだぞ。……その身体であいつに抱かれてやったのか? お前、よくそんな傷だらけの醜い身体を人に見せられたな。そんな醜態晒して、お前は何故生きていられるんだ? お前は死ぬべきなんだよ。今まで迷惑を掛けてきた人達に死んで詫びるべきなんだ。存在自体が迷惑なんだよ、お前なんかのな。……どうしてお父さんから離れていったんだ。あんなにも可愛がってやったのに。お前がそんなことをするから、お父さん、お前の人生を滅茶苦茶にするしかなくなっちゃったじゃないか。こうなってしまったのは、実際お前のせいなんだからな。お前が自分でこうしたんだ。お前は人を不幸にすることしか出来ない。俺も、井本君も、お前のせいでえらく迷惑してるんだ。だから責任をとって、一刻も早く死ぬんだ。お前が生きていればいるほど、周りの人間が嫌な思いをするんだ。不愉快なんだよ、お前の存在そのものがな。この後で、お前がちゃんと死ぬところをあいつに見せてやれ。それが、お前にとって出来る精一杯の償いだ。それで少しはお前も許されるかもしれない。お前は死ぬべきなんだ。どうしてまだのこのこと生き続けてるんだ? なんで死なない? この、あばずれ女が……」 

 投げかけられる絶望的な言葉。

 壊れてゆく心。 

 千冬の心が叫ぶ。

 死ニタイ! 

 今スグ死ニタイ! 

 モウドウナッテモイイ。何ダッテイイ。アタシハ、今スグニ、コノ世カラ消エテ無クナッテシマイタイ。アタシハ屑ダ。人間ノ屑ダ。生キル資格モナイ。死ネ。アタシ、死ネ。死ネ。死ネ。死ニタイ。スグニ死ニタイ。今スグニ死ニタイ。死ニタイ。死ニタイ。死ニタイ。死ニタイィィィィ――!

父親の呪いのような言葉が、どんどんと千冬の心の中に溜まっていく。

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